2026/6/11
なぜ飛騨古川の町並みは「そうば」で守られてきたのか

飛騨古川の歴史について教えてほしい。
キュリオす
飛騨古川は、姉小路氏から金森氏、そして天領時代を経て、独自の町人文化を育んできた。豊富な森林資源と「飛騨の匠」の技術、そして住民の「そうば」という気風が、景観を保ち、現代までその「らしさ」を継承する原動力となっている。
飛騨古川の町を歩くと、整然と並ぶ白壁土蔵と、その足元を静かに流れる瀬戸川の鯉の姿が目に留まる。清らかな水路と古風な建物が織りなす景観は、多くの旅人が抱く日本の原風景の一つだろう。しかし、この落ち着いた町並みが、一見すると時が止まったかのように見える一方で、その裏側には激動の歴史と、度重なる災害からの復興、そして地域に根ざした人々の強い意志が横たわっている。なぜこの飛騨の山中に、京都を思わせる碁盤目状の町割りが生まれ、伝統的な意匠が現代まで受け継がれてきたのか。その問いは、この地の歴史を紐解くことで見えてくる。
飛騨古川のある古川盆地は、古代から開けていた地域と考えられている。白鳳時代にはすでに仏教寺院が八ヶ寺も存在し、比較的早い時期に仏教文化が受容されていたことがうかがえる。元弘3年(1333年)の後醍醐天皇による建武の新政で国司制度が復活すると、全国的には短期間で崩壊したこの制度が、飛騨においては奇跡的に存続したという歴史がある。南北朝時代には公家の姉小路氏が飛騨に派遣され、古川盆地に居館を構えた。当時の国司が京都に在住し代官を派遣するのが通例であったのに対し、姉小路氏は飛騨に土着し、南朝方の有力勢力として、北朝方の室町幕府が派遣した京極氏に対抗した。建徳2年(1371年)には南朝方の求めに応じて越中国へ出兵したが敗退し、残された姉小路尹綱は応永18年(1411年)に室町幕府の大軍と戦って戦死、姉小路氏は小島・向小島・古河の三家に分かれた。この出来事は「応永飛騨の乱」と呼ばれている。その後も姉小路氏は飛騨国司を名乗り続け、古河家の姉小路基綱は歌人としても京都にその名を知られていたという。
戦国時代に入ると、北朝方京極氏の家臣から飛騨南部に台頭してきた三木氏が勢力を拡大し、古川盆地で細々と続いていた姉小路家を乗っ取り、自らを京都の名門・姉小路中納言と称した。三木自綱は飛騨統一を目指し、神岡を拠点とする江馬氏と対立した。天正10年(1582年)、三木氏の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で討たれると、好機と見た江馬輝盛が南進し、高山市国府で三木・小島・牛丸の連合軍と激突した「八日町合戦」が起こる。この戦いで三木自綱は鉄砲を駆使して勝利を収め、飛騨をほぼ統一したとされる。
しかし、その数年後、三木自綱は豊臣秀吉に抵抗し、豊臣家配下の武将・金森長近の侵攻を受け滅亡した。金森長近は飛騨高山の街づくりを進める一方、養子の金森可重が増島城を中心とした古川の街並みを整備した。古川も高山と同様に京都を意識した碁盤目状の街区が採用され、「飛騨の小京都」と称されるようになる。 増島城は、金森氏が飛騨国支配における古川盆地の要として築いた平城で、金森可重が初代城主を務めた。 しかし江戸時代に入ると、幕府の一国一城令により増島城は1619年に廃城となり、1695年には完全に破却された。 その後、高山藩が廃藩になると飛騨は幕府直轄の天領となり、古川は飛騨街道の宿場町として、武士が少ない環境下で町民の自治が活発化し、独自の町人文化が栄えることとなる。 瀬戸川を境に北側を武家町、南側を町人町とする区割りも、この時代に形成されたものだ。
飛騨古川の町並みが現在の姿に至るまでには、いくつかの複合的な要因が重なっている。まず、その地理的条件と豊富な資源が挙げられる。飛騨盆地は周囲を高い山々に囲まれ、古くから豊かな森林資源に恵まれてきた。この地の木材は「飛騨の匠」と呼ばれる優れた木工技術を持つ職人たちを育み、彼らの技術は古くは奈良時代の都の造営にも貢献したと記録されている。 大化の改新で確立された税制において、飛騨国だけは庸と調を免除される代わりに、木工職人である匠丁を都に派遣することが定められていたという。 これは、中央政権がいかに飛騨の匠の技術を高く評価していたかを物語るものであり、彼らの技術が古川の町並み形成の基盤となった。
次に、金森氏による都市計画と、その後の天領化という政治的な背景がある。金森可重が増島城を中心に整備した碁盤目状の町割は、武家町と町人町を明確に分離しつつ、統一された都市景観の基礎を築いた。江戸時代に飛騨が天領となったことで、代官所が置かれず武士の数が少なかったため、町民による自治が活発になった。これにより、商業が保護育成され、町人文化が花開く土壌が形成されたのだ。 細長い敷地に奥深い建物が連なる「うなぎの寝床」と呼ばれる町家の構造も、間口の広さに応じて課される「間口税」を避けるための工夫から生まれたとされる。
そして、飛騨古川の町並みを特徴づける最大の要因は、地域に根ざした独自の精神性「そうば」であろう。これは一般的な金融用語の「相場」とは異なり、「町の総意」や「周囲との調和を重んじる気風」を意味する。 「そうば崩し」とは、周りとの調和を乱す建物を建てることを指し、古川の人々はこの行為を避ける傾向があるという。 この不文律は、寺院や屋台蔵よりも高い建物を建てない、地元の大工に依頼して古川らしい意匠を用いるといった、景観法以上の細かな取り決めを生み出した。 町家の軒下に見られる「雲」と呼ばれる木彫りの装飾も、その一つだ。これは深い軒を支える肘木に施された木の葉や唐草模様で、棟梁のシンボルとされ、大工一人ひとりによって形が異なり、古川の町中だけで170通りもの意匠が見られるという。 「雲」は、飛騨の匠の技術と誇りを象徴するものであり、町の景観に統一感と同時に個性をもたらしている。
さらに、明治37年(1904年)に町の大半を焼き尽くした古川大火からの復興も重要な節目であった。 この甚大な被害にもかかわらず、人々は江戸期の建て方を踏襲して町を再建したため、城下町の面影が失われずに残ったのだ。 円光寺の本堂が類焼を免れたのは、屋根の妻に彫られた「水呼びの亀」のおかげだと信じられ、復興の精神的な支えとなったという逸話も残る。 このように、地理的条件、政治的変遷、そして何よりも住民の強い共同体意識と伝統技術が複合的に作用し、現在の飛騨古川の町並みが形成されていったのだ。
飛騨古川の歴史を、他の地域の町並みと比較することで、その独自性がより明確になる。しばしば「飛騨高山」と並び称され、「双子の城下町」と呼ばれる飛騨古川だが、両者には異なる歩みが見られる。 金森氏によって同じく碁盤目状の町割りが整備された高山に対し、古川はより生活の匂いが色濃く残り、観光地化された高山とは異なる印象を与えるという見方もある。 高山の古い町並みが国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されているのに対し、飛騨古川はそうではない。 これは、外部からの指定による保存ではなく、地域住民の内発的な「そうば」という意識が、町並み保存の大きな原動力となってきたことを示唆している。
また、全国各地に存在する城下町や宿場町と比較しても、飛騨古川の「飛騨の匠」の存在は特異だ。多くの地域で職人集団は存在したが、飛騨国のように庸と調を免除する代わりに匠丁を都に送るという全国唯一の制度は、飛騨の木工技術が古代からいかに特別視されてきたかを物語る。 都の造営に携わった飛騨の匠の技術は、各地の寺社建築にその痕跡を残し、その系譜は現代の古川の大工たちにも受け継がれている。 特に、町家の軒下に見られる「雲」の装飾は、個々の大工の署名とも言えるもので、地域全体の建築様式に統一感を与えつつ、職人個人の技と誇りを表現する独特の文化として根付いた。これは、他の地域の職人文化にはあまり見られない特徴だろう。
さらに、明治の大火からの復興過程も、飛騨古川の町並みの特性を際立たせている。甚大な被害を受けたにもかかわらず、江戸期の伝統的な建築様式を踏襲して町を再建したことは、単なる復旧を超えた、町並みへの強い愛着と継承の意思を表している。 他の地域では、大火を機に近代的な建築や都市計画が導入されることも少なくなかったが、飛騨古川では「そうば」という共同体意識が働き、伝統的な景観の維持が最優先されたのだ。この内発的な景観保全の意識は、外部からの規制や指定に先行する形で、町並みの「らしさ」を守り続けてきた。
飛騨古川の町は、今もその歴史を色濃く残しながら、現代の営みを続けている。町の中央を流れる瀬戸川には、春から秋にかけて約1000匹の色とりどりの鯉が優雅に泳ぎ、白壁土蔵の景観に彩りを添えている。 晩秋になると鯉は増島城跡の池で越冬し、春に再び川に戻されるという慣習も、地域に根付いた季節の風物詩だ。 この瀬戸川の清掃活動は、1960年代後半に生活雑排水による汚染が進んだ際、地元新聞社の呼びかけと住民の寄付によって鯉が放流されたことを契機に、「瀬戸川愛沿う会」が組織され、現在も住民当番制で続けられている。
町には、江戸時代から続く造り酒屋の渡辺酒造場や蒲酒造場、240年以上の歴史を持つ三嶋和ろうそく店など、伝統的な産業が今も息づいている。 また、町民の50人に1人が伝統技術に関連する職に就いていると言われ、「飛騨の匠」の技は建築だけでなく、指物や一位一刀彫といった木工品にも受け継がれている。 毎年4月に開催される「古川祭」は、ダイナミックな「起こし太鼓」で知られる天下の奇祭であり、町の文化の中心をなしている。 祭当日の屋台巡行を妨げないよう、道路の無電柱化が進められるなど、祭りがまちづくりの重要な軸となっていることがうかがえる。
近年、飛騨古川は「通過型観光」からの脱却を目指し、数日間の滞在を促す取り組みを進めている。地域が中心となってワークショップを立ち上げ、豊かな自然や歴史・伝統文化を活かした地域づくりを目指す中で、谷筋に立つ「朝霧」の美しさに着目し、新たな観光資源として活用する試みも始まっている。 1985年には伝統的な建築様式を取り入れた建物を表彰する「古川町景観デザイン賞」が創設され、1990年代には高層ホテルなどの町並みにそぐわない建築計画が浮上したことを機に、「飛騨古川ふるさと景観条例」も策定された。 これは、住民の自発的な「そうば」の精神を補完し、景観保全の意識を一層強める役割を果たしている。さらに、飛騨古川駅東口では、大学の研究拠点や学生寮、商業施設などを擁する複合共創拠点「soranotani(ソラノタニ)」の整備が進められており、地域の教育、暮らし、余暇を充実させ、新たなコミュニティと交流を生み出すことが期待されている。 人口減少や高齢化といった課題も抱えながらも、地元の中高生や市外からの移住者がまちづくりに関わる事例も増え、地域全体でその未来を模索している。
飛騨古川の歴史をたどると、一つの町がその「らしさ」をいかに保ち、進化させてきたかという問いに対する、具体的な答えが見えてくる。国の重要伝統的建造物群保存地区のような外部からの指定に頼らずとも、地域固有の「そうば」という共同体意識が、町並みの景観を形成し、守り続けてきた事実は、特筆に値するだろう。明治の大火という壊滅的な災害からの復興においても、単なる再建に終わらず、伝統的な様式を継承したことは、この地の住民が持つ文化への深い敬意と、未来への継承の意思を示すものだ。
また、「飛騨の匠」の技術が、奈良時代から現代に至るまで途切れることなく受け継がれ、町の建築や工芸品に息づいていることは、時間軸を超えた文化の連続性を示している。軒下の「雲」の装飾は、個々の職人の技と誇りを表現しながらも、町全体の景観に統一感を与えるという、一見相反する要素を調和させてきた。これは、個人と全体、伝統と革新が共存する、飛騨古川ならではのあり方と言えるだろう。
瀬戸川の清掃活動や古川祭の維持、そして駅前の再開発といった現代の取り組みも、過去からの継承の上に成り立っている。住民たちが「自分たちの町を綺麗にするのは当然」「古川祭のためにも町を綺麗にしていたい」と語るように、日々の生活の中に根ざした誇りや美意識が、結果として町の魅力を高め、訪れる人々を惹きつけている。飛騨古川の町並みは、特定の誰かが作り上げたものではなく、何世紀にもわたる人々の営みと、その中で育まれた「らしさ」を重んじる精神が織りなす、生きた歴史の証左なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。