2026/7/2
鳴尾浜は競馬場・飛行場・野球場を経て工業団地へ変貌した

鳴尾浜の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
武庫川の三角州に位置した鳴尾浜は、明治以降の埋め立て事業により工業団地へと姿を変えた。競馬場、飛行場、野球場といった多様な施設が時代と共にその役割を変え、現在の姿に至るまでの変遷を辿る。
武庫川の三角州から工業地帯へ
鳴尾浜の歴史を紐解くには、まずその地理的条件から始める必要がある。鳴尾は、武庫川と、かつてその分流であった枝川・申川が形成した三角州上の地域に位置する。古くは「鳴尾の浦」や「鳴尾の一本松」として知られ、緩やかな傾斜地を意味する「ナル」と河口端を意味する「尾」が合わさった地名とされる。 この地が大きく変貌を遂げるのは、明治以降の近代化の波と、それに伴う大規模な埋め立て事業によってである。鳴尾村は1951年(昭和26年)に西宮市に編入されたが、鳴尾浜の埋め立てはそれ以降、1967年(昭和42年)5月16日から本格的に始まったとされる。 埋立事業の主体は東洋建設株式会社であり、元々は昭和初期に工場建設用地の造成を目的として計画されていたが、第二次世界大戦によって中断されていた経緯がある。 戦後、日本の高度経済成長期に入ると、港湾整備予算の増加と「浚渫・埋立ブーム」が到来する。 この動きを受け、東洋建設は1967年に鳴尾埋立事業を再開し、1976年(昭和51年)に最終工区の埋め立てを完了させた。 この埋立地が「鳴尾浜」と命名され、多くの企業が立地する産業団地として新たな歴史を刻み始めることとなる。
競馬場、飛行場、そして野球場が重なる地層
鳴尾浜の歴史を語る上で、競馬場の存在は欠かせない。1907年(明治40年)、鳴尾浜の鳴尾川西側に「関西競馬倶楽部」による「鳴尾競馬場」が開場した。 翌1908年(明治41年)には、鳴尾川の対岸東側にも「鳴尾速歩競馬場」が開設された。 当時、政府が軍馬の改良・育成のために馬券を黙許したことで、全国に競馬場が相次いで誕生した背景がある。 しかし、風紀の乱れが問題となり、馬券発売は急遽禁止され、競馬団体は統合されることとなる。 鳴尾の二つの競馬団体も1910年(明治43年)に「阪神競馬倶楽部」として統合され、西側の鳴尾競馬場が存続した。
この鳴尾競馬場の広大な敷地は、その後の時代の変遷とともに多様な顔を見せることになる。1914年(大正3年)からは、阪神電気鉄道が競馬場の馬場内を借用し、1916年(大正5年)には陸上競技場、野球場、テニスコート、プールを備えた鳴尾運動場を開設した。 特に野球場は、1917年(大正6年)の第3回全国中等学校優勝野球大会の開催地となり、現在の阪神甲子園球場が誕生する前の「聖地」としての役割を担った。 さらに、鳴尾競馬場は日本の民間飛行発祥の地という側面も持つ。 1911年(明治44年)3月に関西で初めてカーチス式複葉機が飛行を披露した後、鳴尾競馬場では大正初期にかけて複数回の飛行大会が開催された。 大正3年(1914年)6月には日本初の民間飛行大会が催され、27万人もの観客を集めたという記録も残る。 しかし、太平洋戦争が激化すると、鳴尾競馬場は1943年(昭和18年)に海軍基地として接収され、「鳴尾飛行場」として利用されることになった。 戦後、この飛行場跡地は昭和32年(1957年)12月まで米軍キャンプとして使われた後、浜甲子園団地へと姿を変えていく。 このように、鳴尾の地は、時代ごとの要請に応じて、娯楽施設、スポーツの殿堂、軍事拠点、そして住宅地へと、その役割を劇的に変化させてきたのである。
埋め立てと再開発の連鎖がもたらした地形
鳴尾浜の現在の姿は、埋め立てと再開発の連鎖によって形成されたと言える。昭和初期に計画され、戦後再開された大規模な埋立事業は、武庫川が運んだ土砂が堆積してできた自然の海岸線を大きく沖合へと押し広げた。 1967年(昭和42年)に東洋建設によって鳴尾地区の埋め立てが再開され、1976年(昭和51年)に最終工区が完成するまでの間に、広大な人工島が形成されたのである。 この埋立地は当初から「一大工業団地を造成する」という明確な目的を持っていた。 実際、昭和40年代には埋め立てが完了し、「鳴尾浜産業センター」として多くの地元企業や新規進出企業が立地し始めた。 食品製造業や流通業など、多様な事業者が集積する臨海産業地区として、西宮市の経済を支える拠点となっている。 しかし、単なる工業地帯に留まらないのが鳴尾浜の特徴である。産業団地としての機能に加え、鳴尾浜臨海公園やリゾ鳴尾浜(2020年閉鎖、再整備中)といったレクリエーション施設も整備されてきた。 かつてこの地にあった「甲子園娯楽場」(後の浜甲子園阪神パーク)も、1929年(昭和4年)に現在の鳴尾浜公園の海側に建設され、動物園や遊園地施設を備えた一大レジャー施設として賑わった歴史がある。 これは、阪神電気鉄道が沿線開発の一環として、甲子園地域を一大レジャーゾーンと位置付けていたことと無関係ではない。 さらに、鳴尾浜にはプロ野球・阪神タイガースの二軍本拠地である阪神鳴尾浜球場が1994年(平成6年)に開場し、「タイガース・デン(虎の穴)」の愛称で若手選手の育成の場として機能してきた。 このように、鳴尾浜は工業、レジャー、スポーツといった異なる機能が、埋め立てという共通の基盤の上に多層的に積み重ねられてきたのである。
湾岸部の人工地盤が持つ共通性と差異
日本の湾岸部における大規模な埋め立てや開発は、鳴尾浜に限らず多くの地域で見られる現象である。例えば、東京湾岸の臨海副都心や大阪湾の人工島群は、高度経済成長期以降の経済活動の拡大と都市機能の再編によって生まれた。これらの地域は、新たな産業や居住空間を創出する目的で、広大な埋立地を造成し、計画的なインフラ整備を進めてきた点で鳴尾浜と共通する。 しかし、鳴尾浜の歴史にはいくつかの特異な点がある。一つは、戦前から中断と再開を繰り返した埋立事業の息の長さだろう。 昭和初期の計画が戦時中に中断され、戦後高度経済成長期にようやく結実するという経緯は、単なる経済的要請だけでなく、時代の大きなうねりに翻弄されながらも、長期的な視点での開発構想が存在したことを示している。 また、鳴尾浜が競馬場、飛行場、野球場といった多様なスポーツ・レジャー施設を内包してきた歴史も特徴的だ。 これは、阪神電気鉄道による沿線開発戦略と深く結びついており、単なる工業地帯としてではなく、娯楽や文化の発信地としての役割も期待されてきたことを物語る。同時期の他の埋立地が工業専用地として開発されるケースが多かったことを考えると、鳴尾浜の多機能性は際立っていると言える。 さらに、近隣の甲子園浜と比較すると、鳴尾浜の特性がより鮮明になる。 甲子園浜は広大な砂浜を有する自然海浜としての側面を強く残し、マリンスポーツや自然保護に配慮した開発が進められてきた。 一方、鳴尾浜は、産業団地としての機能が前面に出つつも、臨海公園や海づり広場などのレクリエーション施設が共存する。 この違いは、それぞれの埋立計画の目的と、その後の土地利用の方向性が異なっていたことを示唆している。鳴尾浜は、産業とレジャーの複合的な需要に応える形で、人工的な地形の上に多様な機能が重ねられていったのである。
現代の鳴尾浜に残る開発の痕跡
現在の鳴尾浜を訪れると、その歴史が多層的に積み重なった風景が見えてくる。広大な埋立地には、食品製造業や流通業を中心とした企業群が軒を連ね、西宮市の経済を支える臨海産業地区としての役割を担っている。 阪神高速道路湾岸線が走り、鳴尾浜出入口が設けられるなど、交通インフラも整備され、物流の拠点としての機能が強化されている。 一方で、この人工的な土地には、人々の生活やレクリエーションの場も共存している。鳴尾浜臨海公園は、海づり広場や芝生広場、フラワーガーデンなどを備え、市民の憩いの場となっている。 かつて「リゾ鳴尾浜」として親しまれた温浴施設も、2020年(令和2年)11月に閉鎖されたが、鳴尾浜臨海公園南地区再整備事業として、2028年(令和10年)4月からの順次オープンを目指して新たな姿へと生まれ変わろうとしている。 また、プロ野球・阪神タイガースの二軍本拠地である阪神鳴尾浜球場は、約30年にわたり若手選手の育成を担ってきたが、2024年(令和6年)をもってその役割を終え、2025年(令和7年)3月には尼崎市の新球場へ本拠地を移転した。 この球場が閉鎖されたことは、鳴尾浜のスポーツ文化の一時代が終わったことを象徴する出来事と言えるだろう。 さらに、鳴尾浜では、2026年(令和8年)4月1日から新しいゴミ処理施設「東部総合処理センター(みやっこリサイクルパーク)」が稼働を開始した。 これは、老朽化した西宮浜の施設を統合移転したもので、単なる処理施設に留まらず、環境学習の場としても活用されるという。 このように、現代の鳴尾浜は、産業、レジャー、スポーツ、そして環境施設といった多様な要素が、埋め立てという人工的な基盤の上に複雑に配置され、常にその姿を更新し続けているのである。
変貌の裏に潜む開発の意思と自然の記憶
鳴尾浜の歴史を振り返ると、その変貌の激しさに驚かされる。かつての風光明媚な海岸線は大規模な埋め立てによって姿を消し、その上に工業団地やレジャー施設、そしてスポーツの拠点といった多種多様な機能が築かれてきた。この劇的な変化の背景には、時代の経済的要請と、阪神電気鉄道のような民間事業者の開発への強い意思があったことは明白である。 しかし、埋め立てられた土地の記憶は完全に消えるわけではない。大潮の干潮時には、かつての浜甲子園阪神パークや戦時中の鳴尾飛行場の遺構が海中から姿を現すこともあるという。 これは、人工的に作られた土地の下に、その前の時代の痕跡が確かに存在していることを示唆している。 また、鳴尾という地名そのものが、武庫川が運んだ土砂が堆積してできた緩やかな傾斜地という自然の地形に由来している。 現在の鳴尾浜はほとんどが人工地盤であるが、その根底には河川が作り出した地形がある。開発によって形を変えられても、その土地が持つ本来の性質や、過去の記憶が完全に失われることはない。鳴尾浜の歴史は、人間が土地を開発し利用する一方で、その土地が持つ自然の記憶や、過去の人々の営みの痕跡が、形を変えながらも残り続けるという、ある種の普遍的な関係性を静かに示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 西宮神社前のお布団屋 初一寝具店|オーダーメイド布団hatsuichi-futon.com
- 鳴尾浜(ナルオハマ)はどこ? わかりやすく解説 Weblio辞書weblio.jp
- 鳴尾 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 鳴尾浜の埋め立ての経緯を知りたい | レファレンス協同データベースcrd.ndl.go.jp
- 鳴尾村 (兵庫県) - Wikipediaja.wikipedia.org
- toyo-const.co.jp
- 2:「阪神電鉄」沿線の観光開発 ~ 西宮・宝塚 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産smtrc.jp
- [西宮ペディア] 鳴尾競馬場その後 – 西宮流 (にしのみやスタイル)nishinomiya-style.jp