2026/6/2
水戸城から偕楽園まで、古代から江戸時代への水戸の歩み

水戸の歴史について詳しく教えて欲しい。古代から中世、戦国時代から江戸時代。
キュリオす
水戸の地は、古代の常陸国府の外縁部から、佐竹氏の戦国時代の拠点、そして徳川御三家水戸藩の成立へと変遷した。二代藩主徳川光圀による『大日本史』編纂や水戸学の発展は、その後の歴史に大きな影響を与えた。
水戸の千波湖畔に立つと、その広大な水面は静かに街の歴史を見守ってきたように映る。湖の向こうには、近代的な街並みが広がるが、視線を少し上げれば、かつて水戸城がそびえた高台の面影が残る。この地が、古代から中世、そして戦国から江戸へと、いかにしてその姿を変え、そのたびに異なる役割を担ってきたのか。その問いは、湖に吹く風のように、幾層もの時間の堆積を肌で感じさせるだろう。
水戸の地に人が住み始めたのは古く、旧石器時代にまで遡る遺跡が見つかっている。縄文時代には千波湖周辺に集落が形成され、古墳時代には現在の水戸市域にも多くの古墳が築かれた。特に、水戸市北部の飯富地区にある吉田古墳群は、この地域の豪族の存在を示唆している。奈良時代に律令制が敷かれると、常陸国の国府が現在の石岡市に置かれ、水戸はその外縁部に位置しながらも、やがて交通の要衝としての性格を帯びていく。平安時代後期には、常陸大掾氏の一族である馬場氏が水戸に勢力を築き、この地の開発を進めたと言われている。
鎌倉時代に入ると、常陸国は有力御家人たちの所領となり、特に小田氏や佐竹氏などが勢力を広げた。この頃、水戸には馬場氏が引き続き影響力を持っていたが、南北朝時代を経て、やがて常陸の支配権を巡る争いが激化する。この混乱の中で台頭したのが、常陸北部に本拠を置いた佐竹氏である。佐竹氏は、新羅三郎義光を祖とする清和源氏の流れを汲む家柄で、南北朝時代には南朝方として戦い、室町時代には室利管領の支配下に入りながらも、次第にその勢力を拡大していった。水戸は、佐竹氏の支配領域の南端に位置し、その戦略的な重要性が増していったのである。
戦国時代に入ると、佐竹氏は常陸国における最大の戦国大名としてその地位を確立した。周辺の小田氏、江戸氏、多賀谷氏といった有力な国人領主たちとの間で激しい抗争を繰り広げながら、佐竹義昭、義重、義宣の三代にわたって常陸統一を進めていく。特に佐竹義重の時代には、「鬼義重」の異名を取るほどの武勇を発揮し、領土を大きく広げた。彼らは、現在の水戸城の原型となる城郭を築き、この地を常陸経営の重要な拠点としたのである。佐竹氏による水戸城の本格的な築城は、永禄年間(1558年〜1570年)に佐竹義昭によって始められたとされ、その後の義重、義宣の時代に拡張・整備が進められた。
佐竹氏の支配下で、水戸は城下町としての基盤を築き始めた。城の周囲には武家屋敷が並び、商人や職人も集住して、徐々にその賑わいを増していった。しかし、佐竹氏の隆盛も天下統一の波には抗しがたかった。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、常陸一国を安堵された佐竹義宣であったが、関ヶ原の戦いでは石田三成と通じたとされ、慶長7年(1602年)に出羽国久保田(現在の秋田県)へ減転封されることとなる。これにより、佐竹氏による水戸支配の歴史は終わりを告げ、水戸は新たな時代の転換点を迎えることになった。
佐竹氏の転封後、水戸には徳川家康の五男である武田信吉が入封し、次いで家康の十男である頼宣が、さらに家康の十一男である頼房が入封した。この頼房を初代として、水戸藩は徳川御三家の一つとして確立されることになる。水戸藩は、将軍家を補佐し、万一将軍家に世継ぎが絶えた際には将軍を出す資格を持つという、特別な地位を与えられていた。他の御三家である尾張藩や紀州藩がそれぞれ東海道と紀伊半島という要衝を抑えていたのに対し、水戸藩は江戸の北東、いわゆる「鬼門」に位置し、江戸の守護という政治的・象徴的な役割を強く担っていたと言えるだろう。
水戸藩の歴史において、特に大きな足跡を残したのが、二代藩主の徳川光圀である。彼は「水戸黄門」として広く知られ、儒学を奨励し、藩政改革に努めた。その最も大きな功績の一つは、『大日本史』の編纂事業を開始したことである。これは、日本という国の歴史を、神代から後小松天皇までの通史として編纂しようとする壮大な試みであり、光圀の死後も水戸学の学者たちによって引き継がれ、明治時代に至るまで約250年の歳月をかけて完成した。この『大日本史』編纂を通じて培われた歴史観や尊王思想は、「水戸学」として発展し、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えることになる。水戸の地は、単なる政治の中心地であるだけでなく、日本の思想史においても重要な位置を占めることになったのだ。
水戸藩が徳川御三家として果たした役割は、他の二家と比較するとその特異性が際立つ。尾張藩や紀州藩が、それぞれ広大な領地と豊かな経済基盤を持ち、藩内の統治と将軍家への人材供給という役割を重視したのに対し、水戸藩は江戸との距離が近く、その政治的・思想的な役割がより強調された。石高は尾張や紀州に劣るものの、江戸の「鬼門」を守るという象徴的な意味合いは大きく、歴代藩主も江戸定府を原則とするなど、将軍家との結びつきが非常に強かった。
また、水戸学という独自の学問が発展した点も、他の藩には見られない特徴である。朱子学を基盤としつつも、日本の歴史や国体を重視する尊王思想を育んだ水戸学は、単なる地方学問に留まらず、幕末の政治運動に直接的な影響を与えた。例えば、吉田松陰が水戸学の思想に触発されたり、桜田門外の変に水戸藩士が深く関与したりしたことは、その影響力の大きさを物語る。多くの藩が藩政の安定や経済的発展を追求した時代に、水戸藩が思想的な深掘りを進めた背景には、『大日本史』編纂という長期的な国家プロジェクトを抱えていたこと、そして江戸に近接し、常に中央政治の動向に敏感であったという地理的・政治的条件があったと言えるだろう。
江戸時代を通じて発展した水戸の街は、明治維新を経て、その政治的役割を終えながらも、歴史の痕跡を今に伝えている。水戸城の遺構は、残念ながら明治以降の廃城令や戦災によって多くが失われたが、今も残る土塁や堀、そして復元された櫓門からは、かつての堅固な城郭の姿を偲ぶことができる。また、水戸藩九代藩主徳川斉昭によって造園された偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つとして、その広大な敷地と約3000本もの梅の木が訪れる人々を魅了し続けている。この偕楽園は、藩主自らが設計に関わり、「民と偕(とも)に楽しむ」という斉昭の思想が込められたものであり、単なる藩主の庭園に留まらない、水戸学に通じる精神性が宿っている。
現代の水戸市は、茨城県の県庁所在地として、また交通の結節点として発展を続けている。しかし、街のそこかしこには、古代の古墳、佐竹氏が築いた城の面影、そして徳川御三家としての水戸藩が残した文化や思想の痕跡が、静かに息づいている。千波湖を望む高台に立つとき、あるいは偕楽園の梅林を歩くとき、そこには単なる風景としてではなく、幾多の時代を経て積み重ねられた人々の営みと、その中で育まれた思想の深みが感じられるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。