2026/6/11
瀬戸焼はなぜ「せともの」と呼ばれるほど多様なやきものを作り続けられたのか

瀬戸の歴史について詳しく教えてほしい。
キュリオす
瀬戸の焼き物は、猿投窯の須恵器から始まり、古瀬戸の施釉陶器、そして陶器と磁器の両方を生産する総合産地へと発展した。良質な土と、外来技術を柔軟に取り込む姿勢がその多様性を支えてきた。
瀬戸の焼き物の歴史は、5世紀後半、現在の名古屋市東山丘陵周辺で須恵器の生産が始まった「猿投窯」にその源流を求めることができる。須恵器は朝鮮半島から伝来した高温焼成の技術を用いたもので、堅牢な器であった。その後、10世紀後半になると猿投窯の技術が周辺地域に拡散し、瀬戸市南部の幡山丘陵でも灰釉陶器の生産が開始される。これが「瀬戸窯」の成立とされる。平安時代後期には、灰釉陶器は一度衰退し、無釉の日用雑器である「山茶碗」の生産へと移行する時期もあった。
しかし、瀬戸窯が他の地域とは一線を画す存在となるのは、鎌倉時代初期、12世紀末から13世紀にかけての時期である。この頃、中国・宋から伝わった施釉陶器の技術を取り入れ、「古瀬戸」と呼ばれる新たな施釉陶器の生産が始まるのだ。当時の日本では釉薬を用いた陶器を本格的に生産していたのは瀬戸窯が唯一であり、その技術的な優位性は際立っていた。古瀬戸の器種は、中国から輸入される青磁や白磁などの陶磁器を模倣したものが多く、鎌倉や東海地方の寺院からの瓦、仏具、蔵骨器といった需要に応える形で発展した。特に鎌倉幕府の中枢部とも関係が指摘され、印花文や貼花文などの華やかな文様が施された特注品も生産され、都市生活者層に受容されていった。
「陶祖」として名高い加藤四郎左衛門景正(通称:藤四郎)の伝説もこの時代に位置づけられる。伝承によれば、景正は貞応2年(1223年)に曹洞宗の開祖である道元に随行して中国(宋)へ渡り、そこで陶法を学んで帰国後、仁治3年(1242年)に瀬戸で良質な土を発見し窯を開いたとされる。しかし、考古学的な調査では瀬戸窯の始まりが平安時代中期まで遡ることが明らかになっており、景正の開窯説については諸説ある。それでも、景正あるいはそのモデルとなった人物が、中国の先進的な施釉技術を瀬戸にもたらし、古瀬戸様式の基礎を築いた可能性は否定できないとされている。江戸時代以降、瀬戸の窯屋は景正からの正統性を示すものとして、この陶祖伝記を語り継ぎ、その功績を称えてきたのだ。
瀬戸が日本を代表する陶磁器産地として発展した背景には、この地に特有の自然条件と、それに適応し技術を磨き続けた人々の営みがある。最も重要な要因の一つは、焼き物の原料となる良質な陶土が豊富に産出されたことだろう。瀬戸層群と呼ばれる地層からは、耐火性が高く可塑性に富む「木節粘土」や「蛙目粘土」、そしてガラスの原料となる「珪砂」が採取できた。これらの粘土は鉄分がほとんど含まれないため、白く焼き上がる素地を得ることができ、多様な釉薬の発色を可能にした。
また、焼き物の焼成に不可欠な燃料となる森林資源が、周囲の山間部に豊かに存在したことも見逃せない。古くから窯の燃料として使われた松などの樹林は、安定した生産を支える基盤となった。良質な土と豊富な燃料という二つの条件が、瀬戸の窯業発展の大きな支えであったことは確かだ。
さらに、瀬戸が中世において日本で唯一の施釉陶器生産地であったという点が、その後の発展を決定づけた。釉薬は器の表面をガラス質で覆うことで、耐水性を高め、色や光沢、模様を多様に表現することを可能にする。この技術は、中国陶磁を手本としつつも、瀬戸独自の発展を遂げた。鎌倉時代後期には灰釉に加え鉄釉が登場し、印花文や貼花文、画花文といった装飾技法も開花した。室町時代には、明の海禁政策によって中国陶磁器の輸入が一時的に減少した時期があり、この空白を埋める形で古瀬戸は中国陶磁器に代わる高級施釉陶器としての地位を確立し、全国へと流通範囲を広げたのである。
このように、瀬戸の歴史は、恵まれた自然資源と、外来の技術を積極的に取り入れ、それを自らのものとして発展させる柔軟な姿勢によって築かれてきた。土と火、そして技術が密接に結びつくことで、瀬戸は他の追随を許さない独自の地位を確立していったのだ。
日本には中世から現代まで生産が続く代表的な6つの窯元があり、「日本六古窯」と総称される。瀬戸焼もその一つに数えられ、他に常滑焼、信楽焼、丹波焼、備前焼、越前焼がある。しかし、この六古窯の中でも瀬戸が持つ独自性は、陶器と磁器の両方を生産し続けてきた点にある。
例えば、備前焼や信楽焼は、基本的に釉薬を使わない素朴な焼締め陶器を特徴とする。土の質感を活かした力強い作品が多い。一方、九州の有田焼は江戸時代初期に磁器の生産を本格化させ、白く硬質な磁器に華やかな絵付けを施すことで、主に海外輸出向けの高級品として発展した。
瀬戸焼は、平安時代から灰釉陶器を生産し、鎌倉時代には日本で唯一施釉陶器を焼成する窯業地として「古瀬戸」を確立した。その後、桃山時代には茶の湯の隆盛とともに「黄瀬戸」「瀬戸黒」「織部」などの茶器が生まれ、国内の美意識に応える多様な陶器を生み出した。さらに、江戸時代後期になると「磁祖」加藤民吉が九州で磁器の技術を学び、瀬戸に導入したことで、瀬戸でも磁器の生産が本格化した。これにより、従来の陶器を「本業焼」、新たに始まった磁器を「新製焼」と呼び分け、陶器と磁器の両方を手がける稀有な産地となったのである。
この陶器と磁器の両方を生産できる能力は、瀬戸の土が持つ特性に由来する。瀬戸の粘土は鉄分が少なく白く焼き上がるため、陶器の釉薬の発色を良くするだけでなく、磁器の白い素地にも適していた。他の産地が特定の原料や技法に特化する中で、瀬戸は原料の多様性と技術の柔軟性によって、幅広い種類のやきものに対応してきたのだ。この適応力が、「瀬戸でつくれないものはない」とまで言われる多様な製品群を生み出す基盤となった。
現代の瀬戸市は、依然として陶磁器産業が重要な位置を占める「陶都」であり続けている。全盛期であった1978年には1,666もの事業所と14,693人の就業者がいたが、2013年には事業所数189、就業人数2,654人へと減少している。この数字は、時代の変化と産業構造の転換を物語るものだ。しかし、その技術と精神は途絶えていない。
現在の瀬戸では、伝統的な食器や茶道具に加え、多様な製品が生み出されている。セトノベルティと呼ばれる陶磁器製の人形や装飾品は、戦後の日本経済復興期に海外輸出で隆盛を極めた。さらに、衛生陶器、碍子、タイル、自動車部品、さらには人工歯といったファインセラミックスなど、日本の近代化を支える工業製品の分野にまでその技術は応用されている。これは、瀬戸の職人たちが単に器を作るだけでなく、素材と焼成の技術を深く理解し、時代のニーズに合わせて柔軟に技術革新を続けてきた証拠である。
瀬戸の町には、今も多くの窯元や陶芸家が活動しており、伝統的な赤津焼や瀬戸染付焼といった国の伝統的工芸品が継承されている。同時に、若手の陶芸家やデザイナーが移り住み、新しい感性を取り入れた作品づくりや、地域コミュニティを巻き込んだまちづくりに貢献する動きも見られる。例えば、瀬戸川沿いには約200軒の店が並ぶ「せともの祭」が毎年開催され、多くの来訪者で賑わう。
かつて「瀬戸物」という言葉が陶磁器全般を指すほどの影響力を持った瀬戸は、現代においてもその多様性と適応力をもって、ものづくりの可能性を追求し続けている。伝統技術の継承と、新たな素材や技術への挑戦が共存する姿は、この町が単なる歴史の遺産ではなく、生き続ける産業の拠点であることを示している。
瀬戸の歴史を辿ると、単一の土や技法に固執せず、常に新しいものを取り入れ、自らのものとして昇華させてきた柔軟性が見えてくる。中国からの施釉技術、そして有田からの磁器技術。これらをただ模倣するだけでなく、瀬戸独自の良質な土と、それを扱う職人たちの手によって、日本の風土や生活様式に合った「せともの」へと変化させてきた。
他の陶磁器産地が特定の素材や様式に特化する中で、瀬戸が陶器と磁器、さらには工業製品までをも生み出す総合産地となったのは、その土の多様な可能性と、作り手の探求心があったからだろう。白い素地を生かした釉薬の美しさ、そして染付の繊細さ。これらは全て、瀬戸の土が持つ「不純物が少なく白い」という特性から引き出されたものだ。
「せともの」という言葉が陶磁器の代名詞となったのは、単に流通量が多かっただけでなく、瀬戸のやきものが日本の多様な生活文化に深く寄り添い、その時々のニーズに応え続けてきた結果である。それは、豪華絢爛な美術品から、日常の食卓を彩る器、そして現代社会を支える精密部品に至るまで、形を変えながら私たちの暮らしの中に存在し続けている。瀬戸の土は、千年以上の時を超え、今もなお、技術と創造の物語を語り続けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。