2026/5/29
掛川城と東海道が紡ぐ、遠江の歴史と産業

静岡の掛川の歴史について詳しく知りたい。どういう場所だったのか??
キュリオす
静岡県掛川市は、古代から争乱の地であり、中世には掛川城が築かれた。江戸時代には東海道の宿場町として栄え、城下町と一体となって発展。現代では、木造復元された掛川城や、茶、葛布、ピアノ製造といった多様な産業が歴史と共に息づいている。
東海道新幹線が掛川駅に停車するたび、車窓からは小高い丘に立つ掛川城の姿が目に入る。白い天守が青空に映えるその風景は、旅人の目に「古き良き城下町」として焼き付くだろう。しかし、この土地がただの観光地として消費されるには惜しいほどの、幾重にも重なった歴史を抱えていることを知る者はどれほどいるだろうか。なぜこの地は、古来より人々の往来と争いの舞台となり、時に「東海の名城」と称されるほどの城を築き、そして現代に至るまでその姿を保ち続けてきたのか。その問いの答えは、遠江の風土と、そこに生きた人々の営みの中にこそ見出せる。
掛川の地は、遠江国(とおとうみのくに)の一部として、古くからその歴史を刻んできた。約1万3千年前の旧石器時代から縄文時代への移行期には、和田岡や堂山遺跡で槍の先に取り付ける石器が発見されており、狩猟採集の生活が営まれていたことがうかがえる。弥生時代には、原川遺跡で米作りが始まったとされ、高田遺跡からは弥生時代の米も出土している。大井川以西の静岡県西部にあたる遠江国は、奈良時代には都から見て遠くにある淡水湖、すなわち浜名湖を指す「遠淡海(とおつあわうみ)」に由来すると言われている。国府は現在の磐田市に置かれ、掛川周辺もその影響下にあったと考えられる。
中世に入ると、遠江国は斯波氏や今川氏といった有力な守護大名が支配を巡って争う舞台となる。特に室町時代後期、駿河の守護大名であった今川義忠が遠江進出を狙い、重臣の朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に命じて掛川古城を築かせたのが、掛川城の始まりとされている。築城は1497年(明応6年)から1501年(文亀元年)の間とも伝えられ、当初の掛川城は現在の位置から東へ500mほど離れた子角山(ねずみやま)にあったという。
その後、今川氏の勢力拡大に伴い、1500年代初頭には朝比奈泰能(やすよし)によって現在の龍頭山(りゅうとうざん)に新たな掛川城が築かれた。 しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏は急速に衰退する。義元の息子である今川氏真(うじざね)は、武田信玄に駿河を追われ、永禄11年(1568年)に掛川城に立てこもった。 翌年には徳川家康が掛川城を攻め、半年にも及ぶ攻防の末、氏真は開城を余儀なくされる。 この後、家康の重臣である石川家成(いしかわいえなり)・康通(やすみち)親子が城代となり、掛川城は武田氏の侵攻に対する防衛の要としての役割を担うことになる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が全国を平定し、徳川家康を関東へ移封すると、掛川城には豊臣氏の家臣である山内一豊(やまうちかずとよ)が入城した。 一豊は、掛川城の大規模な改修に着手し、天守や大手門などを建造して近世城郭としての体裁を整え、「東海の名城」と称されるほどの威容を誇る城へと生まれ変わらせた。 また、城下町の整備や大井川の治水工事にも尽力し、現在の掛川の街並みの原型を築いたとされる。
江戸時代に入ると、関ヶ原の戦いの後、山内一豊が土佐一国を与えられて高知城に移ると、掛川城には徳川家康の異父弟である松平定勝(まつだいらさだかつ)が入城し、掛川藩が成立した。 以降、掛川藩は譜代大名が入れ替わりで入る藩となり、幕末までに13もの家が藩主を務めることになる。 これは、江戸時代の「国替え」という制度を考慮しても稀なことであり、掛川が東海道の要衝であったがゆえに、幕府が親藩や譜代といった格の高い大名を短期間で配置し、その支配を安定させようとした意図がうかがえる。
掛川は、江戸と京都を結ぶ主要街道である東海道五十三次の26番目の宿場町「掛川宿」としても栄えた。 掛川宿は、本陣2軒、旅籠30軒を数え、天保14年(1843年)の記録によれば960軒の家があり、3443人が居住していたという。 宿場の東口には「新町の七曲り」と呼ばれる屈折した道筋があり、これは容易に敵の侵入を許さないための防御構造であったと考えられている。 また、掛川宿は信州に通じる「塩の道」(秋葉街道)とも交差しており、秋葉詣での参詣客で賑わったと記録されている。
掛川の城下町と宿場町としての発展は、その立地条件に深く根ざしている。遠江国の中央部に位置し、東海道という大動脈が貫く地理的優位性、そして平野部にそびえる独立丘陵に築かれた掛川城の存在が、この地を戦略上・経済上重要な拠点たらしめた。城下町は、山内一豊によって大規模に整備され、その後の藩主たちによって維持された。 宿場としての機能は、人々の往来を活発化させ、物資の流通を促した。1691年に東海道を旅したドイツ人医師ケンペルは、その旅行日記に掛川城の威容と宿場の賑わいを記している。 また、1776年にはスウェーデン人植物学者ツュンベリーが「防備された大きな町、掛川」と表現したという。
掛川の産業としては、茶の栽培も古くから行われていた。16世紀後半には、お寺の改築のために京都へ視察に行った檀徒が茶の種子を持ち帰り、吉岡原に播いたのが掛川茶の発祥とされている。 江戸時代から明治時代にかけて、牧之原台地が茶園として開拓され、生産量が増加していったという。
掛川の歴史を紐解くと、東海道という「道」と、掛川城という「城」がその姿を決定づけてきたことがわかる。これは日本の多くの地域に見られる構造だが、掛川の場合はいくつかの点でその特徴が際立っている。
例えば、東海道の宿場町として栄えた地域は数多い。箱根宿のような難所を控える宿場は、その地形ゆえに独自の発展を遂げた。また、京都に近い大津宿や、江戸に隣接する品川宿は、それぞれが持つ政治的・経済的中心地への近接性から異なる性格を帯びていた。これらと比較して掛川宿は、交通の要衝としての重要性はもちろんのこと、城下町としての性格が色濃く、城と宿が一体となって発展した点が特徴的である。 城下町の東口に設けられた「新町の七曲り」のような防御的な道筋は、純粋な宿場町には見られない構造であり、城の防衛と街道の管理という二重の役割を担っていたことを示している。
また、掛川城の築城と改修の歴史も、他の城と対比すると興味深い。山内一豊による大規模な改修は、豊臣秀吉の天下統一期における「権力誇示のシンボル」としての城の役割を強く意識したものであった。石垣や瓦葺きの高層建築が並ぶ近世城郭は、当時の人々にとって驚きであり、その威容は領主の力を示すものであっただろう。 江戸時代には、多くの譜代大名が短期間で藩主を交代した掛川藩の歴史は、幕府がこの地をいかに重要視し、特定の勢力による長期的な支配を避けようとしたかの表れとも見ることができる。 これは、例えば加賀藩のように単一の大名家が長期間にわたり強大な力を保持した藩とは対照的なあり方である。
さらに、掛川城天守の復元が「日本初の本格木造天守閣」として行われた点も特筆される。 多くの城が鉄筋コンクリートで再建される中で、木造での復元にこだわったことは、単なる観光資源としてだけでなく、歴史的建造物としての価値を重視する現代の掛川市の姿勢を象徴している。この復元には、山内一豊が土佐に移った際に築いた高知城の天守が参考にされたという縁も存在する。 遠く離れた二つの城が、一人の武将の記憶を通じて繋がっているという事実は、歴史の連続性を感じさせるものだろう。
現代の掛川市は、その歴史的背景を基盤としつつ、新たな姿を見せている。掛川城は1994年(平成6年)に本格木造で復元され、掛川市のシンボルとして親しまれている。 城内には重要文化財である二の丸御殿も現存しており、幕末に再建された建物として貴重な存在である。 城下町の面影は都市開発によって失われた部分も多いが、仁藤町や連雀町といった当時の町名が今も残されている。
掛川の主要な産業の一つとして、茶の栽培と製造が挙げられる。 特に「掛川茶」は、煎茶の中でも深蒸し茶として知られ、渋みが少なく濃い緑色が特徴である。 大井川水系と天竜川水系に挟まれ、丘陵地に茶畑が広がる自然環境が、カテキン豊富な茶葉の生育に適しているという。 現在では、1970年代に確立された「深蒸し茶」の製法が、掛川茶のブランドを確立している。
また、掛川市は工業都市としての側面も持つ。ヤマハ株式会社の掛川工場ではグランドピアノが製造されており、伝統技術と最新技術が融合した製造工程を見学できる施設もある。 これは、古くから培われた職人の技と、近代化の波の中で導入された技術が共存する、この地域の多様な産業構造を示していると言える。
さらに、古くから伝わる「葛布(くずふ)」も、掛川の伝統工芸品として受け継がれている。 葛のツルから作られる葛布は、水に強く、独特の光沢と手触りを持つ。鎌倉時代から続くこの手仕事は、葛の採取から糸作り、機織りまで全て手作業で行われ、自然環境の維持と高い技術力が求められる。 かつては掛川の重要な産業であったが、その制作の過酷さから、現代では限られた工房でその技術が守られている状況にある。
掛川の歴史を辿ると、この土地が常に「道」と密接に関わってきたことが見えてくる。古代の遠淡海、中世の争乱、近世の東海道、そして現代の新幹線。それぞれの時代において、掛川は人や物、文化が往来する結節点であった。
山内一豊が築いた城下町は、単に防御のためだけでなく、街道を通る人々を迎え入れ、流通の拠点とする意図も含まれていた。城の威容は権力の象徴であると同時に、宿場町の賑わいを惹きつける磁力でもあっただろう。しかし、その城は幾度となく地震で倒壊し、藩主もめまぐるしく変わった。その不安定さの中で、この地を支え続けたのは、やはり東海道を往来する人々の存在であり、茶や葛布といった、土地に根ざした産業の営みであったと言える。
掛川は、決して歴史の表舞台で常に中心を担ってきたわけではない。しかし、大井川以西の遠江国という地理的条件が、この地を常に重要な拠点たらしめ、幾多の歴史の波を受け止めてきた。その中で、人々は城を築き、道を整備し、土地の恵みを活かして生きてきた。現代の掛川を歩くと、復元された城の姿とともに、七曲りの道筋や、茶畑の広がり、そして葛布の工房に、そうした重層する道の記憶と、それを受け継いできた人々の静かな熱が宿っていることに気づかされる。## 遠江の風に聞く、掛川の記憶
東海道新幹線が掛川駅に停車するたび、車窓からは小高い丘に立つ掛川城の姿が目に入る。白い天守が青空に映えるその風景は、旅人の目に「古き良き城下町」として焼き付くだろう。しかし、この土地がただの観光地として消費されるには惜しいほどの、幾重にも重なった歴史を抱えていることを知る者はどれほどいるだろうか。なぜこの地は、古来より人々の往来と争いの舞台となり、時に「東海の名城」と称されるほどの城を築き、そして現代に至るまでその姿を保ち続けてきたのか。その問いの答えは、遠江の風土と、そこに生きた人々の営みの中にこそ見出せる。
掛川の地は、遠江国(とおとうみのくに)の一部として、古くからその歴史を刻んできた。約1万3千年前の旧石器時代から縄文時代への移行期には、和田岡や堂山遺跡で槍の先に取り付ける石器が発見されており、狩猟採集の生活が営まれていたことがうかがえる。弥生時代には、原川遺跡で米作りが始まったとされ、高田遺跡からは弥生時代の米も出土している。 大井川以西の静岡県西部にあたる遠江国は、奈良時代には都から見て遠くにある淡水湖、すなわち浜名湖を指す「遠淡海(とおつあわうみ)」に由来すると言われている。 国府は現在の磐田市に置かれ、掛川周辺もその影響下にあったと考えられる。
中世に入ると、遠江国は斯波氏や今川氏といった有力な守護大名が支配を巡って争う舞台となる。 特に室町時代後期、駿河の守護大名であった今川義忠が遠江進出を狙い、重臣の朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に命じて掛川古城を築かせたのが、掛川城の始まりとされている。築城は1497年(明応6年)から1501年(文亀元年)の間とも伝えられ、当初の掛川城は現在の位置から東へ500mほど離れた子角山(ねずみやま)にあったという。
その後、今川氏の勢力拡大に伴い、1500年代初頭には朝比奈泰能(やすよし)によって現在の龍頭山(りゅうとうざん)に新たな掛川城が築かれた。 しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏は急速に衰退する。 義元の息子である今川氏真(うじざね)は、武田信玄に駿河を追われ、永禄11年(1568年)に掛川城に立てこもった。 翌年には徳川家康が掛川城を攻め、半年にも及ぶ攻防の末、氏真は開城を余儀なくされる。 この後、家康の重臣である石川家成(いしかわいえなり)・康通(やすみち)親子が城代となり、掛川城は武田氏の侵攻に対する防衛の要としての役割を担うことになる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が全国を平定し、徳川家康を関東へ移封すると、掛川城には豊臣氏の家臣である山内一豊(やまうちかずとよ)が入城した。 一豊は、掛川城の大規模な改修に着手し、天守や大手門などを建造して近世城郭としての体裁を整え、「東海の名城」と称されるほどの威容を誇る城へと生まれ変わらせた。 また、城下町の整備や大井川の治水工事にも尽力し、現在の掛川の街並みの原型を築いたとされる。
江戸時代に入ると、関ヶ原の戦いの後、山内一豊が土佐一国を与えられて高知城に移ると、掛川城には徳川家康の異父弟である松平定勝(まつだいらさだかつ)が入城し、掛川藩が成立した。 以降、掛川藩は譜代大名が入れ替わりで入る藩となり、幕末までに13もの家が藩主を務めることになる。 これは、江戸時代の「国替え」という制度を考慮しても稀なことであり、掛川が東海道の要衝であったがゆえに、幕府が親藩や譜代といった格の高い大名を短期間で配置し、その支配を安定させようとした意図がうかがえる。
掛川は、江戸と京都を結ぶ主要街道である東海道五十三次の26番目の宿場町「掛川宿」としても栄えた。 掛川宿は、本陣2軒、旅籠30軒を数え、天保14年(1843年)の記録によれば960軒の家があり、3443人が居住していたという。 宿場の東口には「新町の七曲り」と呼ばれる屈折した道筋があり、これは容易に敵の侵入を許さないための防御構造であったと考えられている。 また、掛川宿は信州に通じる「塩の道」(秋葉街道)とも交差しており、秋葉詣での参詣客で賑わったと記録されている。
掛川の城下町と宿場町としての発展は、その立地条件に深く根ざしている。遠江国の中央部に位置し、東海道という大動脈が貫く地理的優位性、そして平野部にそびえる独立丘陵に築かれた掛川城の存在が、この地を戦略上・経済上重要な拠点たらしめた。城下町は、山内一豊によって大規模に整備され、その後の藩主たちによって維持された。 宿場としての機能は、人々の往来を活発化させ、物資の流通を促した。1691年に東海道を旅したドイツ人医師ケンペルは、その旅行日記に掛川城の威容と宿場の賑わいを記している。 また、1776年にはスウェーデン人植物学者ツュンベリーが「防備された大きな町、掛川」と表現したという。
掛川の産業としては、茶の栽培も古くから行われていた。16世紀後半には、お寺の改築のために京都へ視察に行った檀徒が茶の種子を持ち帰り、吉岡原に播いたのが掛川茶の発祥とされている。 江戸時代から明治時代にかけて、牧之原台地が茶園として開拓され、生産量が増加していったという。
掛川の歴史を紐解くと、この土地が常に「道」と密接に関わってきたことが見えてくる。これは日本の多くの地域に見られる構造だが、掛川の場合はいくつかの点でその特徴が際立っている。
例えば、東海道の宿場町として栄えた地域は数多い。箱根宿のような難所を控える宿場は、その地形ゆえに独自の発展を遂げた。また、京都に近い大津宿や、江戸に隣接する品川宿は、それぞれが持つ政治的・経済的中心地への近接性から異なる性格を帯びていた。これらと比較して掛川宿は、交通の要衝としての重要性はもちろんのこと、城下町としての性格が色濃く、城と宿が一体となって発展した点が特徴的である。 城下町の東口に設けられた「新町の七曲り」のような防御的な道筋は、純粋な宿場町には見られない構造であり、城の防衛と街道の管理という二重の役割を担っていたことを示している。
また、掛川城の築城と改修の歴史も、他の城と対比すると興味深い。山内一豊による大規模な改修は、豊臣秀吉の天下統一期における「権力誇示のシンボル」としての城の役割を強く意識したものであった。石垣や瓦葺きの高層建築が並ぶ近世城郭は、当時の人々にとって驚きであり、その威容は領主の力を示すものであっただろう。 江戸時代には、多くの譜代大名が短期間で藩主を交代した掛川藩の歴史は、幕府がこの地をいかに重要視し、特定の勢力による長期的な支配を避けようとしたかの表れとも見ることができる。 これは、例えば加賀藩のように単一の大名家が長期間にわたり強大な力を保持した藩とは対照的なあり方である。
さらに、掛川城天守の復元が「日本初の本格木造天守閣」として行われた点も特筆される。 多くの城が鉄筋コンクリートで再建される中で、木造での復元にこだわったことは、単なる観光資源としてだけでなく、歴史的建造物としての価値を重視する現代の掛川市の姿勢を象徴している。この復元には、山内一豊が土佐に移った際に築いた高知城の天守が参考にされたという縁も存在する。 遠く離れた二つの城が、一人の武将の記憶を通じて繋がっているという事実は、歴史の連続性を感じさせるものだろう。
現代の掛川市は、その歴史的背景を基盤としつつ、新たな姿を見せている。掛川城は1994年(平成6年)に本格木造で復元され、掛川市のシンボルとして親しまれている。 城内には重要文化財である二の丸御殿も現存しており、幕末に再建された建物として貴重な存在である。 城下町の面影は都市開発によって失われた部分も多いが、仁藤町や連雀町といった当時の町名が今も残されている。
掛川の主要な産業の一つとして、茶の栽培と製造が挙げられる。 特に「掛川茶」は、煎茶の中でも深蒸し茶として知られ、渋みが少なく濃い緑色が特徴である。 大井川水系と天竜川水系に挟まれ、丘陵地に茶畑が広がる自然環境が、カテキン豊富な茶葉の生育に適しているという。 現在では、1970年代に確立された「深蒸し茶」の製法が、掛川茶のブランドを確立している。
また、掛川市は工業都市としての側面も持つ。ヤマハ株式会社の掛川工場ではグランドピアノが製造されており、伝統技術と最新技術が融合した製造工程を見学できる施設もある。 これは、古くから培われた職人の技と、近代化の波の中で導入された技術が共存する、この地域の多様な産業構造を示していると言える。
さらに、古くから伝わる「葛布(くずふ)」も、掛川の伝統工芸品として受け継がれている。 葛のツルから作られる葛布は、水に強く、独特の光沢と手触りを持つ。鎌倉時代から続くこの手仕事は、葛の採取から糸作り、機織りまで全て手作業で行われ、自然環境の維持と高い技術力が求められる。 かつては掛川の重要な産業であったが、その制作の過酷さから、現代では限られた工房でその技術が守られている状況にある。
掛川の歴史を辿ると、この土地が常に「道」と密接に関わってきたことが見えてくる。古代の遠淡海、中世の争乱、近世の東海道、そして現代の新幹線。それぞれの時代において、掛川は人や物、文化が往来する結節点であった。
山内一豊が築いた城下町は、単に防御のためだけでなく、街道を通る人々を迎え入れ、流通の拠点とする意図も含まれていた。城の威容は権力の象徴であると同時に、宿場町の賑わいを惹きつける磁力でもあっただろう。しかし、その城は幾度となく地震で倒壊し、藩主もめまぐるしく変わった。その不安定さの中で、この地を支え続けたのは、やはり東海道を往来する人々の存在であり、茶や葛布といった、土地に根ざした産業の営みであったと言える。
掛川は、決して歴史の表舞台で常に中心を担ってきたわけではない。しかし、大井川以西の遠江国という地理的条件が、この地を常に重要な拠点たらしめ、幾多の歴史の波を受け止めてきた。その中で、人々は城を築き、道を整備し、土地の恵みを活かして生きてきた。現代の掛川を歩くと、復元された城の姿とともに、七曲りの道筋や、茶畑の広がり、そして葛布の工房に、そうした重層する道の記憶と、それを受け継いできた人々の静かな熱が宿っていることに気づかされる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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