2026年5月21日
盆地の霧と水が育んだ安心院の鼈、その歴史と独自性
大分県安心院盆地で鼈の養殖が盛んになったのは、明治時代の先見性と盆地の豊富な湧き水、寒暖差の大きい気候が要因。露地養殖にこだわり、時間をかけて育てることで、肉質が締まり風味豊かな鼈が全国に知られるようになった。
盆地の霧と水が育むもの
大分県の中央部、宇佐市に属する安心院(あじむ)盆地を訪れると、その地形がまず目を引く。周囲を山に囲まれ、盆地特有の朝霧が立ち込める光景は、どこか閉ざされた箱庭のようだ。この土地で、古くから鼈(すっぽん)の養殖が盛んに行われてきたと聞いても、一般的なイメージとは異なるかもしれない。鼈といえば、どちらかといえば南国の水辺や、あるいは高級料亭の奥座敷で出される食材という印象が強い。しかし、この安心院では、単なる珍味としてではなく、地域に根ざした産業としてその養殖が営まれてきた。なぜ、盆地の奥深く、海から離れたこの地で鼈が育まれ、全国にその名を知られるようになったのか。その問いは、土地の歴史と、そこに暮らす人々の選択を辿ることで、少しずつ輪郭を結んでくる。
明治の先見と盆地の水脈
安心院における鼈養殖の歴史は、明治時代にまで遡る。その端緒を開いたのは、当時の安心院町長であった三浦恒太郎という人物だった。彼は、日清戦争後の台湾視察の際、現地で食用として珍重されていた鼈に着目したと言われる。帰国後、地域の振興策として鼈の養殖を提案し、1902年(明治35年)に試験養殖を開始した。当初は手探りの状態であったが、盆地の気候と豊富な湧き水が鼈の生育に適していることを発見する。
その後、1906年(明治39年)には、三浦恒太郎の尽力により「安心院鼈養殖合資会社」が設立され、本格的な養殖が始まった。これは、全国的にも早い時期での商業養殖の試みであり、その先見性は注目に値する。会社設立後も、養殖技術の確立には多くの苦労があったとされる。試行錯誤を重ねながら、餌の配合や水温管理、病気の予防といったノウハウが蓄積されていった。特に、冬場の水温低下は鼈の活動を鈍らせるため、温泉水や地下水の利用、あるいは温室のような施設を工夫して乗り越えてきたという。
大正から昭和にかけて、安心院の鼈は徐々にその品質の高さで評価を得るようになる。特に、自然に近い環境で時間をかけて育てる「露地養殖」の技術が確立されたことで、肉質が締まり、風味豊かな鼈として知られるようになった。この時期には、全国の料亭や問屋から引き合いが増え、安心院は「鼈の里」としての地位を確立していった。第二次世界大戦中の一時期は養殖が停滞するものの、戦後には再び活発化し、高度経済成長期には高級食材としての需要が高まり、安定した生産が続けられていったのである。
