2026年5月16日
大分・豊後国は古代から江戸期までどのように変遷したのか
大分県域の歴史は、旧石器時代に遡り、古墳時代には海の民が繁栄した。律令制で豊後国となり、六郷満山文化が形成された。鎌倉期以降は大友氏が約370年間支配し、宗麟の時代には府内が国際都市として栄えたが、島津氏との抗争や豊臣秀吉の九州平定を経て大友氏は改易された。江戸期には多くの小藩が分立する体制となった。
豊の国の黎明と海人の足跡
大分県域の歴史は、旧石器時代にまで遡る。豊後大野市の代ノ払遺跡では、ナウマンゾウの牙が鋭い刃物で切断された痕跡が発見されており、この地で古くから人類と大型動物が遭遇していた可能性を示唆している。古墳時代に入ると、この地域は独自の文化を育んでいく。特に豊後海峡を支配し、瀬戸内海へと進出した「海の民」が繁栄した時代であり、その首長たちはヤマト王権との密接な関係を築いていたとされる。
大分市には、県下最大級の規模を誇る亀塚古墳や築山古墳といった前方後円墳が点在する。亀塚古墳は5世紀初め頃に築造され、全長116メートルにも及ぶ巨大な墳墓であり、白い石英質の葺石が敷き詰められていたという。これらの古墳は、大分川流域を治めた豪族や、佐賀関半島沿いの海を生業とする「海部(あまべ)」の勢力図を今に伝えている。
7世紀末から8世紀初頭にかけて、律令制のもとで「豊国(とよのくに)」が豊前国と豊後国に分割され、現在の県域の大部分は豊後国となった。国府は大分郡、現在の古国府(ふるごう)地区にあったと推定されているが、その遺跡はまだ見つかっていない。この時代には、国東半島を中心に独特の山岳宗教文化「六郷満山(ろくごうまんざん)」が形成された。養老2年(718年)に仁聞菩薩(にんもんぼさつ)が開基したと伝えられ、古来の山岳信仰と宇佐神宮を中心とする八幡神信仰、さらには天台宗系の修験道が融合し、神仏習合の文化が発展したという。国東半島の地形、すなわち中央の両子山から放射状に伸びる谷筋に沿って六つの郷が拓かれ、そこに多くの寺院が築かれたことが、この文化の基盤となったのだ。
鎌倉から室町へ、大友氏の台頭
平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)で平家が滅んだ後、源頼朝は親平家方であった九州の在地武家を抑えるため、東国御家人の大友氏を守護として豊後国に送り込んだ。初代当主である大友能直(おおともよしなお)は、鎌倉時代初期の1206年に豊後国守護に就任した。以来、大友氏は約370年もの長きにわたり豊後国を支配し、その後の歴史の大きな潮流となる。
室町時代に入ると、大友氏はさらに勢力を拡大していく。7代当主の大友氏泰(おおともうじやす)が現在の大分川河口付近に大友氏館を築き、この居館を中心とした城下町一帯は「府内(ふない)」と呼ばれるようになった。府内は大友氏の拠点として栄え、旧万寿寺の遺構からは貴重な陶磁器が発見されるなど、この頃から先進的で高度な文化が取り入れられていたことが伺える。大友氏は豊後・筑後二国の守護を務め、義鑑(よしあき)の代には肥後国へも進出し、1543年には肥後守護に補任されるなど、その影響力を着実に広げていった。
この時期、大友氏の支配下では、国衆であった丹部氏、漆嶋氏、宇佐氏、大神氏、清原氏、藤原氏、阿南氏、稙田氏、大野氏、臼杵氏、緒方氏、賀来氏、佐伯氏、橋爪氏といった在地勢力が次第に力をつけ、大友氏の下で豊後国の社会を形成していった。彼らの存在が、後に大友氏の支配構造に複雑な影響を与えることになる。
宗麟の時代と「府内」の繁栄
戦国時代、大友氏の歴史は21代当主・大友宗麟(おおともそうりん、本名:義鎮)の時代に最盛期を迎える。享禄3年(1530年)に生まれた宗麟は、天文19年(1550年)に家督相続を巡る「大友二階崩れの変」と呼ばれる内紛を収め、若くして当主となった。彼はその治世において、肥前・豊前・筑前にも進出し、1559年には豊前・筑前の守護にも補任され、九州6ヶ国の守護となるに至った。これにより、宗麟は肥前国の龍造寺氏、薩摩国の島津氏と並び、九州の覇権を争う一大勢力を築き上げたのである。
宗麟の時代を特徴づけるのは、そのキリスト教への深い傾倒と南蛮文化の積極的な受容である。1551年、フランシスコ・ザビエルが豊後を訪れたことを契機に、キリスト教の布教が本格化する。宗麟は宣教師を厚遇し、1578年には自らも「ドン・フランシスコ」の洗礼名で洗礼を受けた。府内には日本で初めて宣教師養成学校(コレジオ)や西洋式の病院、育児院が開設され、ヨーロッパ諸国との南蛮貿易も盛んに行われた。貿易によって得られた莫大な経済力は、鉄砲や大砲といった西洋の武器の輸入にも繋がり、大友氏の軍事力強化に貢献した。府内は、異国情緒あふれる先進的な国際都市として大きく栄えたのである。
しかし、宗麟のキリスト教政策は、家臣団の中に軋轢を生む側面もあった。また、私生活における「暴君」的な振る舞いも指摘されており、重臣の一万田親実(いちまだちかざね)の妻を側室にしたことで、その弟である高橋鑑種(たかはしあきたね)が反旗を翻すなど、内紛の火種も抱えていた。
覇権争いの終焉と豊臣の裁定
宗麟の晩年、大友氏は九州の覇権を巡る島津氏との激しい戦いに巻き込まれる。天正6年(1578年)、日向国(現在の宮崎県)耳川(みみかわ)の戦いにおいて、大友軍は島津軍に大敗を喫し、多くの重臣を失った。この敗戦は、大友氏の衰退を決定づけるものとなり、家臣団の離反や国人衆の独立の動きを再燃させた。島津氏は勢いを増し、豊後国への侵攻を開始、宗麟は臼杵城に追い詰められる事態となった。
この窮状を打開するため、大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めた。秀吉は関白の権威を背景に、天正13年(1585年)に島津氏と大友氏に停戦を命じる「九州停戦令」を出したが、島津氏はこれに従わなかった。そのため、秀吉は天正14年(1586年)から翌15年(1587年)にかけて「九州平定(九州征伐)」を開始。毛利勢や四国勢を先鋒として九州に派遣し、大分県域でも戸次川の戦いなどが繰り広げられた。
最終的に秀吉自らが大軍を率いて九州に上陸すると、島津軍は各地で降伏。天正15年(1587年)5月、島津義久は秀吉に降伏し、九州平定は完了した。この戦後処理において、大友氏は豊後一国のみを安堵されることになった。しかし、その後の朝鮮出兵での失態により、22代当主・大友義統(おおともよしむね)は豊臣秀吉によって改易され、約370年続いた大友氏の支配は終焉を迎える。
九州の「小藩分立」という選択
大友氏の改易は、豊後国に大きな転換点をもたらした。豊臣秀吉は豊後を「豊臣家の蔵入地(直轄地)」とする構想を持っていたとも言われる。そのため、細分化された豊後には多くの代官や大名が送り込まれ、論功行賞や調整の場として利用された。関ヶ原の戦いを経て、江戸時代には豊後国に多くの小藩が分立する体制が確立されることになる。
江戸初期の大分県域には、府内藩、臼杵藩、岡藩、杵築藩、日出藩、森藩、豊後高田藩、そして天領(幕府直轄領)や旗本領などが複雑に入り組んでいた。例えば、大友氏改易後、府内には竹中重利が2万石で入り府内藩を立藩。臼杵には稲葉氏が、佐伯には毛利氏が入るなど、各地に新たな領主が配置された。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。