2026/6/13
米が獲れない松前藩は、なぜ本州中堅藩を凌駕する富を築けたのか

松前藩について詳しく教えて欲しい。北前船でだいぶ栄えたはずだ。
キュリオす
江戸時代、米の収穫がほとんどない松前藩は、蝦夷地のニシンや昆布といった資源と北前船による交易で繁栄した。その経済システムと、日本の産業を支えた役割を辿る。
稲穂の波ではなく、銀色の鱗を数えて
北海道の南端、松前城(福山城)の天守に登ると、眼下には津軽海峡の濃い紺色が広がっている。対岸の下北半島が指呼の間にあり、海を渡る風は夏でもどこか冷ややかだ。城下を歩けば、立派な石垣や寺院が並ぶ風景は本州の城下町そのものだが、ある一点において決定的に「普通」ではない。この土地には、武士の経済的基盤であるはずの田んぼが、江戸時代を通じてほとんど存在しなかったのだ。
日本の歴史において、藩の強さは「石高(こくだか)」という米の生産量で測られるのが常識だった。しかし松前藩は、表向きは一万石格(のちに三万石格)とされながら、実質的なコメの収穫は「ゼロ」という異形の藩である。稲穂が実らない最北の地で、彼らは何を信じ、何をもって三〇〇年近い繁栄を築いたのか。その答えは、城の眼前に広がる海と、そこを往来した「北前船」という巨大な物流システムの中にあった。
かつてこの港には、春になると海の色が変わるほどのニシンが押し寄せたという。その銀色の鱗が、松前においては金銀に等しい価値を持っていた。米を諦めた人々が、代わりに海の資源と交易の権利を極限まで研ぎ澄ませた結果、そこには本州の中堅藩を凌駕するほどの富が蓄積されたのである。松前という土地が持つ「無高(むだか)の繁栄」の正体を探ると、近世日本が持っていたもう一つの経済の顔が見えてくる。
蝦夷地を「場所」として切り出すまで
松前藩の歴史は、室町時代に津軽から渡ってきた和人の豪族、蠣崎(かきざき)氏にさかのぼる。当時の北海道南部には「道南十二館(たて)」と呼ばれる和人の拠点があったが、アイヌ民族との激しい抗争を経て、蠣崎氏がその支配権を確立していった。決定的な転換点は、慶長四年(一五九九年)に蠣崎慶広が氏を「松前」と改め、徳川家康から蝦夷地における交易独占権を認められたことにある。
家康が慶広に与えた一六〇四年の「黒印状」は、松前藩の憲法とも呼べる重い意味を持っていた。そこには、アイヌとの交易を松前氏が独占すること、そして他藩の者が勝手に蝦夷地へ入ることを禁じることが記されていた。米が獲れない以上、幕府は松前氏に「土地」ではなく「権利」を安堵したのである。これが、松前藩が幕藩体制の中で極めて特殊な「無高の大名」として存続する法的根拠となった。
藩の経営システムも独特だった。通常の藩であれば、藩主は家臣に「領地」を与え、そこから上がる年貢(米)を給料とする。しかし松前藩では、蝦夷地の海岸線を「場所(ばしょ)」と呼ばれる区画に分け、上級家臣にその場所での「交易権」を与えた。これを「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」と呼ぶ。家臣たちは自ら船を仕立て、担当する「場所」へ赴いてアイヌと交易を行い、手に入れた海産物を本州の商人に売ることで現金を得ていた。
しかし、武士が商売を直接担うことには限界があった。一七世紀後半、一六六九年に起きたシャクシャインの戦いを経て、藩の支配力が蝦夷地全域に及ぶようになると、交易の規模はさらに拡大する。すると、資金力や流通ルートを持たない武士に代わって、近江商人などのプロの商人が経営を代行する「場所請負制(ばしょうけおいせい)」へと移行していった。
商人は藩や家臣に「運上金(うんじょうきん)」という多額の税を納める代わりに、その場所での漁業や交易を丸ごと引き受ける。この仕組みによって、松前藩はリスクを負わずに安定した税収を得ることに成功した。一方で、商人はより効率的な利益を求めて、本州から最新の漁法を導入し、アイヌを労働力として組織化していくことになる。松前城下の繁栄は、こうした北の資源を吸い上げる巨大な装置の上に成立していたのだ。
ニシンが綿花を育てるという循環
松前を語る上で欠かせない「北前船」は、単なる運送船ではなかった。彼らは「買積(かいづみ)」という方式をとっていた。大阪を出発し、瀬戸内、山陰、北陸、東北の各港でその土地の安いものを買い、次の港で高く売る。船そのものが「動く総合商社」として機能していたのである。そして、その終着点であり、最も大きな利益を生む仕入れ先が、松前をはじめとする蝦夷地の港だった。
北前船が松前から本州へ運んだ最大のヒット商品は、意外にも食用ではなく「肥料」としてのニシンだった。一八世紀以降、大阪周辺(河内地方)や瀬戸内では、綿花(木綿)や藍などの商品作物の栽培が爆発的に広まっていた。しかし、これらの作物は土地の養分を激しく消耗する。そこで求められたのが、強力な窒素分を含む「ニシン粕(かす)」であった。
ニシンを巨大な釜で煮て油を絞り、残ったカスを乾燥させたニシン粕は、当時の農業において革命的な肥料となった。松前の海で獲れたニシンが、北前船によって大阪へ運ばれ、それが河内の綿花を育て、その綿花が江戸や大阪の人々の衣服になる。この壮大な経済循環の起点が、松前の港だったのである。一回の航海で千両(現在の価値で一億円近く)を稼ぎ出すといわれた北前船の富は、この「魚による工業肥料」という新しい需要によって支えられていた。
また、昆布の存在も重要だ。蝦夷地の昆布は松前を通じて本州へ運ばれ、大阪で加工されて日本の出汁文化を決定づけた。さらに、昆布の一部は「昆布ロード」を経て長崎へ運ばれ、清(中国)への重要な輸出品となった。中国では甲状腺疾患の予防のために昆布が求められており、松前の資源は国際貿易の決済手段としても機能していたのである。
松前藩の経済は、このように「北の資源」を「南の産業」へ接続することで成り立っていた。彼らが扱っていたのは、単なる食べ物ではない。日本の衣食住を根底から支える「産業資材」だったのである。松前城下に、京都の公家文化や華やかな祭礼が持ち込まれたのは、この圧倒的な物流量がもたらした富の余剰があったからに他ならない。米が獲れないという欠落が、皮肉にも日本で最も先進的な商業ネットワークを呼び込む結果となったのだ。
三つの「口」にみる境界の統治
松前藩の特異性を浮き彫りにするには、江戸幕府が設けた「四つの口」という対外窓口と比較するのが分かりやすい。幕府は長崎でのオランダ・中国貿易を直轄としたが、それ以外の境界地域については、特定の藩に「外交と交易」の代行を委ねていた。朝鮮との窓口となった対馬藩(宗氏)、琉球王国を介して中国とつながった薩摩藩(島津氏)、そして蝦夷地のアイヌと向き合った松前藩である。
これら三つの藩には共通点がある。いずれも本州の政治中心から遠く離れた「国境」に位置し、その土地だけでは十分な米が獲れなかったことだ。対馬藩などは松前藩以上に深刻で、山がちで耕地がほとんどなく、朝鮮との貿易仲介による利益と、幕府からの補給金(朝鮮人参などの専売権を含む)がなければ藩を維持できなかった。
しかし、三藩の「稼ぎ方」には明確な違いがある。対馬藩は、銀や朝鮮人参といった「高級品・希少品」を扱う仲介貿易が主だった。いわば、外交特権を利用したブローカー的な性格が強い。一方、薩摩藩は琉球を支配下に置くことで、中国から入る絹織物などの贅沢品を扱うとともに、自領で「砂糖」という強力な商品作物を生産し、それを大阪市場へ流すことで莫大な利益を上げた。
これらに対し、松前藩の経済は「天然資源の直接採取」に依拠していた点が際立っている。ニシン、昆布、サケ、さらには江戸初期には砂金。これらは仲介貿易というよりは、広大な蝦夷地というフロンティアから得られる一次産品である。松前藩の役割は、アイヌという異民族との接触を管理しつつ、そこから生まれる資源を「日本国内の産業需要」に適合させて送り出すことにあった。
対馬が「外交の藩」、薩摩が「生産と密貿易の藩」であったとするなら、松前は「資源供給の藩」であったと言えるだろう。対馬や薩摩が扱う品物は、武士や富裕層向けの嗜好品が多かったが、松前が供給したニシン粕は、前述の通り一般庶民の衣類となる綿花の肥料である。松前藩の繁栄は、日本の大衆消費社会の成立と密接にリンクしていたのだ。この「実需」に根ざした強固な繋がりがあったからこそ、米が一粒も獲れずとも、松前は幕藩体制の中で不可欠な存在であり続けた。
潮風に耐えた最後の一石
現在の松前町を訪れると、かつての栄華を伝える痕跡がいたるところに残っている。松前城のすぐ近くには、江戸時代の町並みを再現した「松前藩屋敷」があり、そこには当時の問屋や民家が立ち並ぶ。しかし、最も強い印象を与えるのは、再現された建物よりも、城下を囲むように配置された寺院群かもしれない。これらのお寺の多くは、本州から運ばれた立派な木材や瓦で造られており、当時の松前がどれほど「外からの富」で潤っていたかを無言で語っている。
松前城そのものも、非常に珍しい歴史を持っている。現在見られる形式の城が完成したのは安政元年(一八五四年)、つまりペリーが来航した直後のことだ。ロシアなどの外国船が北の海に出没し始めたため、幕府が海防の拠点として築城を命じた。日本で最後に築かれた「日本式城郭」である。天守の壁には、大砲の攻撃を逸らすための工夫が凝らされているが、そのわずか十数年後、戊辰戦争(箱館戦争)では土方歳三率いる旧幕府軍の攻撃を受け、皮肉にも北側からの陸路攻めによって落城した。
昭和に入ってから火災で焼失した天守は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたが、本丸御門は江戸時代のまま現存し、重要文化財に指定されている。その門の木肌には、津軽海峡の厳しい塩害と風雪に耐えてきた力強さがある。また、江差や松前には「ニシン御殿」と呼ばれる、漁主たちの豪邸が点在している。そこに使われている太い梁や贅を尽くした内装は、一時期のニシン漁がどれほどの富を生んだかを物語る。
だが、そのニシンも二〇世紀半ばにはパタリと姿を消した。乱獲の影響か、海流の変化か、原因は諸説あるが、かつて海を銀色に染めた群来(くき)は、今や幻の風景となった。現在の松前は、桜の名所として知られ、五月には一万本以上の桜が城跡を埋め尽くす。かつてニシン粕を求めて北前船が押し寄せた活気は、静かな観光地の佇まいに変わったが、町を歩けば今もどことなく、本州の地方都市とは異なる「海を越えてきた文化」の香りが漂っている。
辺境が「起点」であったという逆説
松前藩の歩みを振り返って気づくのは、私たちが抱きがちな「辺境」というイメージの危うさだ。地図の上では日本の北端に位置し、米も獲れない厳しい土地に思えるが、江戸時代の経済地図においては、こここそが巨大な富を生成する「起点」の一つだった。松前は決して中央から恩恵を受けるだけの末端ではなく、大阪や江戸の繁栄を物理的に(肥料や出汁として)下支えする、システムの心臓部だったのである。
松前藩が米の生産を放棄し、交易と資源に特化したことは、当時の日本において極めて高度な「選択と集中」だったと言えるかもしれない。土地の条件に抗って無理に稲作を広めるのではなく、海を介して他地域と補完関係を築く。その結果として生まれたのが、北前船という世界でも稀に見る自律的な流通ネットワークだった。
そして、その繁栄を支えたのが「ニシン粕」という、およそ雅(みやび)とは程遠い、強烈な臭いを放つ魚の粕であったという事実は示唆に富んでいる。松前の城下に咲いた華やかな京都文化も、藩主が愛でた公家風の暮らしも、すべてはその「臭い」のする肥料が、遠く離れた河内の綿花畑で金に換わったことで成立していた。
松前城の石垣の向こうに広がる海は、今も変わらず深く、冷たい。かつてここにあった繁栄は、自然資源という不安定な基盤の上に、人間の知恵と欲望が組み上げた精緻な建築物のようなものだった。米を物差しとする社会の中で、あえて米を捨てたこの藩が残したものは、単なる歴史の余談ではない。それは、土地の制約を「交易」という翼で飛び越えようとした、境界に生きる人々のたくましいリアリズムの記録なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- sakura.ne.jphomas.sakura.ne.jp
- 荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間|日本遺産ポータルサイトjapan-heritage.bunka.go.jp
- 蝦夷の時代45 場所請負制|あなたが選んだ北海道のビューポイントnote.com
- 2004_3/解法のヒントtsuka-atelier.sakura.ne.jp
- “北前船が運んだもの”衣食住などの生活や文化を変えた海の大動脈! | Discover Japan | ディスカバー・ジャパンdiscoverjapan-web.com
- 第三編第一章第七節 |town.fukushima.hokkaido.jp
- 1850年ごろの「東西蝦夷地・場所」位置図 | 森川海のアイヌ先住権を「見える化」するプロジェクトmori-kawa-umi.com
- 大阪と綿花 | 大阪・京都・奈良・神戸の原状回復なら株式会社日本コーキkohki-g.co.jp