2026/6/13
北海道に「歴史がない」は本当か?戦国・江戸時代の「館」と交易国家・松前藩

北海道の歴史について詳しく教えて欲しい。戦国・江戸時代まで。
キュリオす
北海道の歴史は明治以降の開拓だけではない。戦国時代に築かれた「道南十二館」は交易の最前線であり、江戸時代の松前藩は米に依存しない「交易国家」として存続した。海を介した北と南のダイナミックな関わりを辿る。
渡島半島の断崖に眠る「館」の跡
函館から海岸線を西へ、あるいは北へと辿っていくと、時折、切り立った段丘の上に不自然な平坦地を見つけることがある。地元では「館(たて)」と呼ばれるそれらの場所は、かつて本州から渡ってきた和人たちが築いた中世の城砦跡だ。北海道の歴史といえば、明治以降の開拓使による大規模な開発や、クラーク博士の言葉に象徴される「フロンティア」のイメージが強い。しかし、その華々しい近代史の地層を一枚剥いでみると、そこには土塁と空堀に囲まれた、泥臭くも切実な中世の生存戦略が横たわっている。
道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれるこれらの拠点は、単なる軍事基地ではなかった。そこは北の海産物と南の鉄製品が交差する、文字通りの境界線であり、欲と生存が渦巻く交易の最前線だった。なぜ彼らはわざわざ海を渡り、この厳しい北の大地に拠点を築かねばならなかったのか。そして、なぜその歴史は、今の私たちの目にはこれほどまでに「空白」として映るのだろうか。
現地に立って海を眺めると、津軽海峡は隔絶の壁ではなく、むしろ情報の動脈であったことがよくわかる。対岸の下北半島や津軽半島は、晴れた日には驚くほど近くに見える。中世の和人にとって、蝦夷地(えぞがちしま)は未知の暗黒大陸ではなく、投資に見合うだけの莫大な富を秘めた「海を隔てた隣国」であった。この地で起きたことは、中央の歴史書には断片的にしか現れないが、土の下からは大量の中国銭や陶磁器が顔を出す。そこには、教科書的な「未開の地」という言葉では到底説明しきれない、独自の経済圏と政治力学が存在していた。
擦文とオホーツクが溶け合う時
北海道の歴史を遡る際、まず直面するのは「日本史」という枠組みの限界だ。本州が弥生時代から古墳時代へと進み、稲作を基盤とした律令国家を形成していく一方で、北の大地は全く異なる時計で動いていた。続縄文文化から擦文(さつもん)文化へと至る流れの中で、人々は稲作を選ばず、狩猟・漁撈・採集に特化した高度な生活体系を維持し続けた。
13世紀から14世紀にかけて、この地に決定的な転換点が訪れる。それまで北海道の中南部で栄えていた擦文文化と、サハリンから南下し道東・道北の沿岸部に展開していたオホーツク文化が、互いに影響し合いながら変容を遂げたのだ。この過程で、私たちが今日「アイヌ文化」と呼ぶ独自の文化体系が確立されていった。この時期、住居の構造は竪穴式から平地式へと変わり、土器は姿を消して、本州からもたらされた鉄鍋や漆器が生活の主役となっていく。
同時期、本州側でも大きな地殻変動が起きていた。奥州藤原氏の滅亡後、津軽や下北を拠点とする安東(安藤)氏が「蝦夷管領」として北の海を統べるようになる。彼らはアイヌの人々と交易を行い、サケや昆布、鷹の羽、ラッコの皮などを本州へ流し、代わりに米や布、鉄製品を北へ送った。この膨大な物流の結節点として、渡島半島南部には和人の定住集落が現れ始める。
1454年、南部氏に敗れて津軽を追われた安東政季が、武田信広や河野政通といった配下を引き連れて蝦夷地に渡ったことが、『新羅之記録(しんらのきろく)』に記されている。これが「道南十二館」の体制が整う端緒となった。東は函館の志苔館(しのりだて)から、西は上ノ国の花沢館まで。海岸線に点在するこれらの館は、安東氏という頂点を戴く緩やかな領主連合体を形成していた。しかし、この「和人の進出」は、先住のアイヌの人々との間に深刻な軋轢を生んでいく。
その緊張が爆発したのが、1457年の「コシャマインの戦い」である。きっかけは、志濃里(しのり)の鍛冶屋とアイヌの青年との間での、一振りの小刀(マキリ)を巡る口論だったと言われている。品質と価格の不当な扱いに対する怒りは、瞬く間に全島へ広がり、コシャマインを首領とするアイヌ軍は、わずか数ヶ月のうちに十二館のうち十館を陥落させた。和人側が絶体絶命の危機に瀕する中、花沢館の客将であった武田信広がコシャマイン父子を射殺し、辛うじて戦況を覆した。この勝利が、後の松前藩の祖となる蠣崎(かきざき)氏の台頭を決定づけることになった。
米なき領地を支えた交易の法
江戸時代に入ると、北海道の支配体制はさらに異質なものへと変化する。徳川家康から蝦夷地の独占交易権を認められた松前氏は、名を蠣崎から松前に改め、日本最北の藩として認められる。しかし、ここで一つの大きな問題が生じる。当時の幕藩体制の根幹は「石高制」、つまり米の生産量に基づく支配であったが、寒冷な北海道では米が全く獲れなかったのである。
松前藩は、全国でも極めて稀な「無高(むだか)の大名」として存続することになった。米が獲れない以上、家臣に与える「知行(ちぎん)」も土地ではなく、特定の場所でのアイヌとの交易権という形をとった。これが「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」である。家臣たちは年に一度、藩主から許可された「商船」を仕立てて自らの知行地(商場)へ向かい、そこでアイヌの人々と交易を行って利益を得た。
この特異な経済システムは、17世紀半ばを境に大きな転換期を迎える。和人商人の資本力が強まり、交易の規模が拡大するにつれ、武士である家臣たちが自ら船を出し、不慣れな商売を行うことが困難になったのだ。代わって登場したのが「場所請負制(ばしょうけおいせい)」である。家臣は交易の運営一切を近江商人などの有力な和人商人に丸投げし、代わりに一定の運上金(税金)を受け取るという仕組みだ。
この制度への移行は、アイヌの人々にとっての悲劇の始まりでもあった。商人は効率と利益を最優先し、交易のレート(交換比率)を一方的に引き下げ、アイヌの人々を漁場での過酷な労働へと駆り立てた。かつては対等なパートナーであった交易関係は、いつしか支配と剥奪の構造へと変質していった。1669年に起きた「シャクシャインの戦い」は、こうした交易条件の悪化や和人による干渉に対する、アイヌ民族の最後の大規模な組織的抵抗であった。
静内(しずない)の首領シャクシャインは、部族間の争いを超えて全島のアイヌに呼びかけ、一時は松前藩を震撼させた。しかし、鉄砲という圧倒的な火力差と、和睦の酒宴を装った卑劣な謀殺によって、蜂起は鎮圧された。この戦いの後、アイヌの人々は松前藩への絶対的な服従を誓わされる「オムシャ」という儀式を強要されるようになる。自由な交易者としての誇りは奪われ、北の海は松前藩と和人商人による独占的な収奪の場へと塗り替えられていった。
琉球と対馬、そして北の境界
松前藩の歴史を考える上で、当時の日本が持っていた「四つの口」という視点は欠かせない。江戸幕府は鎖国をしていたと言われるが、実際には長崎、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、そして松前(蝦夷地)という四つの窓口を通じて、外部世界と密接に繋がっていた。松前藩を、単なる東北の端にある小藩としてではなく、琉球や対馬と同じ「異域との境界を管理する特殊なエージェント」として捉え直すと、その行動原理が鮮明に見えてくる。
例えば、薩摩藩における琉球支配と、松前藩における蝦夷地支配には、驚くほど多くの共通点がある。両藩とも、支配下の先住民(琉球人やアイヌ)に対して、あえて「和風」に染まることを禁じた。琉球の人々には中国風の意匠を保たせ、アイヌの人々には独特の衣服や風習を維持させた。これは、幕府に対して「自分たちは言葉も風俗も異なる異民族を従えている」という権威を知らしめるための、高度な政治的演出であった。
一方で、決定的な違いもある。対馬藩が朝鮮との公的な外交ルートを維持し、薩摩藩が琉球を通じて清との朝貢貿易を仲介したのに対し、松前藩が向き合っていたのは「国家」を持たないアイヌ社会だった。そのため、松前藩の支配は外交というよりも、純粋な資源の独占と労働力の搾取という経済的側面に特化していった。対馬や薩摩が相手国の文明や儀礼を尊重せざるを得なかったのに対し、松前藩はアイヌの社会構造を内側から崩し、自らの経済システムに組み込むことに躊躇がなかった。
また、松前藩が扱っていた交易品も独特だ。昆布や干しアワビ、ナマコといった海産物は「俵物(たわらもの)」と呼ばれ、長崎を通じて清へ輸出される重要な外貨獲得手段であった。つまり、北の大地で生産された品々が、遠く中国の宮廷料理を支えていたのである。北海道は、決して日本列島の終着点ではなく、北東アジアを巡る巨大な環流の一部であった。この視点に立つと、松前藩が必死に守ろうとしたのは単なる土地ではなく、その背後に広がる広大な「情報の海」と「利権の網」であったことが理解できる。
松前城下に残る近世の静寂
現在の松前町を訪れると、そこがかつての北海道の政治・経済の中心地であったことが、物理的な風景として迫ってくる。北海道で唯一の日本式城郭である松前城(福山城)は、幕末の1854年に完成した、日本で最後に築かれた城だ。三層の天守は再建されたものだが、現存する本丸御門の重厚な造りは、ここが単なる北の僻地ではなく、一国を成す藩庁であった自負を伝えている。
城の北側には、道内でも極めて珍しい「寺町」が形成されている。龍雲院、法源寺、法幢寺といった古刹が軒を連ねるこの一帯を歩くと、ここが北海道であることを一瞬忘れてしまう。本州の城下町と何ら変わらない、重厚な瓦屋根と石垣の連なり。しかし、それらの寺院の墓所には、交易に命を懸けた商人たちや、過酷な北の海で散った名もなき人々の記録が刻まれている。
松前藩の支配が及んでいたのは、渡島半島南端の「和人地」と呼ばれる狭いエリアに過ぎなかった。そこから北は、依然としてアイヌの人々が暮らす「蝦夷地」であり、和人の立ち入りは厳しく制限されていた。松前城下は、いわばその巨大な異郷への入り口に置かれた、厳重な「検問所」のような町だったのだ。藩はアイヌに日本語を学ぶことを禁じ、和人地への移住も許さなかった。境界を明確に分かつことで、自らの独占権を守ろうとしたのである。
しかし、幕末になるとその境界線は、北から迫るロシアの脅威によって強制的に取り払われることになる。1799年、幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄地とした。いわゆる「第一次幕領化」である。これを機に、それまでの交易中心の支配から、国防のための領土化へと、北海道の性格は劇的に変わっていく。松前城が完成したわずか十数年後には、箱館戦争の戦火がこの町を焼き、松前藩の300年にわたる特異な支配体制は、時代の荒波の中に沈んでいった。
海から見直す北の列島史
北海道の中世・近世史を辿る旅は、常に「境界とは何か」という問いを突きつけてくる。私たちはつい、今の地図を前提に、北海道を日本列島の一部として当たり前のように受け入れてしまう。しかし、戦国・江戸時代のこの地にあったのは、中央集権的な国家の論理とは別の、海を媒介とした多層的な世界の関わりであった。
道南の館跡から出土する膨大な古銭や、松前の寺町に残る本州各地の石材は、この地がかつて、私たちが想像する以上に開かれた場所であったことを物語っている。それは「開拓」という一方的なベクトルではなく、北と南、和人とアイヌ、そして大陸や樺太までもが複雑に干渉し合う、ダイナミックな相互作用の歴史だった。松前藩が行ったことは、確かに先住民族への苛烈な抑圧という側面を強く持っているが、同時に、米という単一の価値観に依存しない「交易国家」としての生存証明でもあった。
明治以降の歴史が「陸」の視点から描かれたものだとすれば、それ以前の北海道の歴史は「海」の視点から語られるべきものだろう。船が情報を運び、昆布が国境を越え、一振りのマキリが歴史を動かした時代。その痕跡は、今も渡島半島の断崖や、静かに佇む寺院の山門の中に、確かな手応えとして残っている。
「北海道には歴史がない」という言葉は、単に私たちの視力が、近代という強すぎる光に慣れすぎてしまった結果に過ぎない。光を少し遮り、目を凝らしてみれば、土塁の影や古い墓碑の銘文から、かつてこの地で生きた人々の、乾いた、しかし熱い息遣いが聞こえてくるはずだ。それは、私たちが知っている日本史を、少しだけ外側から相対化してくれる、もう一つの物語に他ならない。
1854年に完成した松前城の石垣には、六角形に加工された「亀甲積み」が見られる。その堅固な守りの先に、当時の人々は何を見ていたのか。北の海の荒波は、今も変わらずその足元を打ち続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- コシャマインの戦い - Wikipediaja.wikipedia.org
- 中近世の蝦夷地 | AKARENGA(あかれんが)akarenga-h.jp
- 【室町】コシャマインの戦い | 小林党kobayashi10.info
- 【館主たちの支配版図】adeac.jp
- 【オホーツク文化】adeac.jp
- 【コシャマインの戦い】蠣崎家躍進のきっかけとなった和人とアイヌの戦い – 日本史あれこれlove-japanese-history.com
- コシャマインの戦いの発端~三守護体制が招いたアイヌ首長の蜂起~ (2ページ目)articles.mapple.net
- 【商場知行制と場所請負制の違い】簡単にわかりやすく解説!!内容や時期など | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイトnihonsi-jiten.com