2026/5/28
伊豆・田子で続く「手火山式」鰹節、カネサ鰹節商店の歴史と技

伊豆のカネサ鰹節商店について教えて欲しい。この辺りでも鰹節は作られてきたのか?
キュリオす
伊豆半島西海岸の田子地区で140年以上続くカネサ鰹節商店。カツオの旨味を閉じ込める「手火山式」製法が、なぜこの地で守られ続けているのか。1300年以上のカツオ加工の歴史と、現代に繋がる文化継承の取り組みを辿る。
伊豆半島の西海岸、西伊豆町田子地区を訪れると、潮の香りの合間に、どこか懐かしい薪の煙の匂いが漂ってくることがある。この地で、カネサ鰹節商店が明治15年(1882年)の創業以来、伝統的な鰹節づくりを続けているからだ。伊豆で鰹節が作られてきたのか、そして「手火山式」と呼ばれる製法が、この土地でどのような意味を持つのか。その問いは、かつてカツオ漁で栄えた港町の歴史と、職人の手仕事が織りなす文化の深層へと繋がっていく。
伊豆半島におけるカツオの加工の歴史は古い。奈良時代の733年には、すでに「荒堅魚(あらかつお)」と呼ばれるカツオの塩蔵品が、税として平城京に納められた記録が残されているという。この「荒堅魚」こそが、現在の「潮かつお」の原型であり、カツオの保存食としての歴史の始まりとされる。西伊豆町田子地区では、1300年以上にわたりカツオの加工が行われてきたという歴史があるのだ。
鰹節の製法が確立したのは室町時代に入ってからとされ、江戸時代にはさらに改良が進む。特に17世紀中ごろ、紀州(現在の和歌山県)印南町で焙乾(ばいかん)して水分を抜く製法が確立された。この技術は土佐や薩摩へと伝播し、さらに寛政13年(1801年)には、土佐の与市という職人が西伊豆に招かれ、発酵カビ付けの工程を加えた「改良土佐節」を指導したという。この改良が、伊豆節の誕生に繋がったのである。
明治から昭和にかけて、田子地区はカツオ漁とそれに伴う鰹節加工業で栄えた。昭和初期には40艘ものカツオ船が出入りし、40軒以上の鰹節製造店が軒を連ねていたとされる。 この時期、伊豆田子節は土佐節、薩摩節と並ぶ三大名産品の一つとして評価され、主に贈答用として重宝されたという。 カネサ鰹節商店も、こうした歴史の中で明治15年に初代芹沢里次が創業し、この地のカツオ加工業の一翼を担ってきたのだ。
伊豆の田子地区で受け継がれてきた「手火山式焙乾製法」は、鰹節を最も美味しくする方法の一つと評される一方で、最も効率が悪く、危険な製法とも言われている。 その名の通り、職人が「手」で火加減を測り、熱量を均等に調整しながらカツオを燻し乾かす。 カマドの下に約2メートルほどの縦穴を掘り、そこで薪をくべて火力を強めることで、130℃を超える高温でカツオの表面を一気に燻し固めるのだ。 この高温がカツオの旨味を内部に閉じ込め、独特の香りを生み出すとされる。
この製法が田子地区に残った背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、この地域が古くからカツオ漁で栄え、カツオと深く結びついた生活が営まれてきたことが挙げられる。 新鮮なカツオが豊富に水揚げされる環境が、手間暇を惜しまない伝統製法を維持する土台となったのだろう。 また、手火山式は一度に大量生産ができないため、機械化が進む現代においては非効率に見える。しかし、だからこそ職人の技術と経験が重要視され、それが代々受け継がれてきたという側面もある。 カネサ鰹節商店では、地元のナラ、クヌギ、サクラなどの薪を使い、職人がつきっきりで焦げ付かないよう温度調整を行う。 焙乾は毎日行うのではなく、燻した翌日は鰹節を休ませる工程を挟みながら、約10回繰り返される。この一連の作業に1ヶ月ほどを要し、さらに本枯節になるまでには半年ほどの時間が必要だという。 このような時間と労力をかけることで、濁りのない澄んだ出汁が取れる鰹節本来の味と香りが引き出されるのだ。
鰹節の製法は、伊豆の手火山式以外にもいくつか存在する。全国的に主流となっているのは、一度に大量生産が可能な「急造庫(きゅうぞっこ)」や「焼津式乾燥庫(やいづしきかんそうこ)」といった機械化された乾燥庫を用いる方法だ。 例えば焼津は、カツオの水揚げ量と加工業で全国有数の産地であり、明治以降に土佐節や薩摩節の技術を取り入れ、製造方法や器具を改良することで品質を向上させてきた。 焼津節の改良型は、全国の標準型として普及するに至っている。
これに対し、手火山式は、カマドの上にセイロを重ねて直火で燻すという、より原始的ともいえる方法を用いる。 枕崎などの大規模産地では、地下に薪を炊く部屋を設け、地上に大きな燻製設備を構えるのに対し、手火山式は比較的小規模な設備で、職人が文字通り「手」をかざして火加減を調整する。 この手作業による繊細な温度管理が、鰹の旨味を閉じ込め、芳醇な香りを生み出すとされているが、その分、職人の負担は大きい。
他の産地が効率化と大量生産へと舵を切る中で、伊豆の田子地区、そしてカネサ鰹節商店が手火山式を守り続けているのは、効率性とは異なる価値を追求しているからだろう。それは、高温で一気に表面を焼き固めることでカツオの旨味を閉じ込めるという、手火山式独特の製法がもたらす品質へのこだわりである。 そして、この製法が「幻の製法」と呼ばれるほど希少になった今、その伝統を守ること自体が、この地域の文化的な価値となっている。
かつて40軒以上あった田子地区の鰹節製造業者は、昭和のオイルショックや200海里問題によるカツオ漁の衰退、さらには漁船の老朽化や大型化、漁法の変化といった複合的な要因により激減した。 21世紀に入るとカツオ船は姿を消し、現在では鰹節製造業者も数軒を残すのみとなっている。 カネサ鰹節商店は、その中でも伝統的な手火山式焙乾製法を守り続ける貴重な存在だ。
カネサ鰹節商店は、創業明治15年(1882年)から140年以上の歴史を持ち、五代目芹沢安久氏がその伝統を受け継いでいる。 同店では、手火山式の本枯節「田子節」の製造販売に加え、伊豆西海岸にのみ残る伝統的な保存食「潮かつお」も手がけている。 この潮かつおは、古くから航海の安全と豊漁を祈願して神棚に供えられたり、玄関先に飾られたりする「正月魚」としての文化的な役割も担ってきた。 しかし、現代の食生活の変化や減塩志向、カツオ漁の衰退により、潮かつおを食べる人も製造する業者も減少している。
こうした状況に対し、芹沢氏は「西伊豆しおかつお研究会」を立ち上げ、「しおかつおうどん」などの商品開発を通じて潮かつおの普及に努めている。 また、地元の小中学校での食育活動や、大人向けのワークショップ、工場見学なども積極的に行い、伝統的な食文化の継承と地域活性化に尽力しているという。 製造工程の見学や削り体験を通じて、手火山式の鰹節づくりを間近で体験できる機会も提供されている。
伊豆西伊豆町のカネサ鰹節商店を巡る旅は、単に鰹節の製法を知るだけでは終わらない。そこには、効率化とは対極にある、職人の手と五感に頼る「手火山式」という製法が、いかにして現代まで生き残ってきたのかという問いが横たわる。全国的な鰹節の生産が効率重視へと移行する中で、この地で手火山式が守られてきたのは、その製法がカツオの旨味を最大限に引き出すという品質への揺るぎない信念と、地域に根差した食文化の継承という意識があったからだろう。
カツオ漁が衰退し、伝統的な保存食である潮かつおの文化すら途絶えかねない状況の中で、カネサ鰹節商店の取り組みは、単なる家業の存続を超えた意味を持つ。それは、地域固有の食文化が持つ価値を再認識し、それを次世代へと繋ぐための静かな、しかし確かな努力である。薪の煙が潮風に混じる田子の港で、鰹節を削る音に耳を傾けるとき、その乾いた音の奥に、土地の歴史と人々の営みが凝縮されているのを感じるのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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