2026年5月19日
周南の工場夜景、その光と煙の裏側にある歴史とは
周南市は、徳山湾の天然の良港を活かし、海軍燃料基地から発展した重化学工業都市である。個々の企業が連携し、自家発電や水素副生といった独自の強みを持つ一方、公害対策や水資源問題にも取り組んできた。その歴史と現代の課題が、工場夜景に映し出されている。
煙と光が織りなす街の問い
山口県周南市の徳山湾に面した一帯に立つと、巨大なプラント群が目に飛び込んでくる。複雑に絡み合う配管、高くそびえる煙突、そして昼夜を問わず立ち上る白い煙。この光景は、周南が「コンビナートの街」として広く知られる所以だろう。しかし、なぜこの瀬戸内海の穏やかな湾岸に、これほどまでの重化学工業が集中し、発展を遂げたのか。その問いの裏には、一般的なイメージだけでは捉えきれない、この土地固有の歴史と、そこに暮らす人々の選択が隠されている。
海軍の燃料基地から化学工業の礎へ
周南の産業史は、明治時代まで遡る。日露戦争勃発後の1905年(明治38年)、旧日本海軍は石炭燃料基地として「海軍煉炭製造所」を徳山に設置した。山口県内で候補地が検討される中、徳山湾の優れた港湾条件が評価された結果である。徳山出身の陸軍大臣、児玉源太郎の尽力もその誘致に影響したとされる。
その後、海軍煉炭製造所は大正時代に「海軍燃料廠」へと改組・拡張され、石炭から石油へのエネルギー転換に伴い、海軍の軍需用石油精製拠点としての役割を担うようになった。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)には、徳山海軍燃料廠は空襲により壊滅的な被害を受けたものの、この軍事施設としての歴史が、戦後の周南コンビナートの形成に決定的な影響を与えることになる。
戦後、GHQによる非軍事化が進む中で、海軍燃料廠の跡地払い下げを受けた出光興産が、1956年(昭和31年)に当時日本最大規模の徳山製油所の建設に着手した。これが周南における石油コンビナート形成の口火を切った。さらに、この地域には大正時代から苛性ソーダなどのソーダ事業を展開していた徳山曹達(現・トクヤマ)や東洋曹達(現・東ソー)といった企業が既に立地しており、これら既存の基礎化学産業が、後に石油化学コンビナートと連携し、独自の発展を遂げる基盤となったのだ。
天然の良港と自立する産業の連鎖
周南コンビナートの発展を支えた第一の要因は、徳山湾が持つ地理的優位性にある。笠戸島や大津島などに囲まれた徳山湾は、水深が深く穏やかで、大型船舶の入港に適した天然の良港だった。この地の利が、重化学工業の原材料となる原油や鉱石の大量輸入、そして製品の効率的な海上輸送を可能にした。
コンビナートの形成過程には、いくつかの特徴が見られる。全国の主要コンビナートが財閥系や同一資本グループによって主導される例が多い中、周南では個別の企業が混在する形で集積が進んだ。出光興産が石油精製で供給するナフサなどの基礎原料を、トクヤマや東ソーといった化学メーカーが受け入れ、さらにその製品を加工するプラスチック原料メーカーや合成ゴムメーカーなどが集積することで、多角的な産業連鎖が築かれていったのである。
