2026年5月18日
呼子の烏賊はなぜ透明?捕鯨から活き造りへ至る港町の変遷
呼子は、古代の海上交通の要衝から中世の水軍拠点、江戸時代の捕鯨で栄えた港町。捕鯨衰退後、昭和後期に「活き造り」を確立し、烏賊の町として全国に知られるようになった。その歴史と、鮮度を保つ独自の流通・調理法を解説する。
呼子、透明な身が語る港の記憶
呼子の港に立つと、潮風とともに、活魚を扱う水槽の微かなモーター音が耳に届く。水面に光が反射し、その下で揺らめく影に、この町が烏賊に生かされていることを肌で感じる。生け簀から揚がったばかりの透明な烏賊が皿の上で躍る「活き造り」は、今や呼子の代名詞だが、この港町が烏賊一色に染まるまでには、長い時間と、幾つかの転換点があった。知らずにいた頃には、ただ烏賊が美味しい町としか映らなかった風景に、歴史という層を重ねてみることにする。
鯨が拓いた海の道
呼子の歴史は烏賊よりもはるかに古い。東松浦半島の北端に位置するこの地は、古くから大陸への海上交通の要衝として機能してきた。奈良時代の地誌『肥前国風土記』には、大陸への玄関口として呼子港近くの「登望駅」が登場するほどだ。天然の防波堤となる加部島に守られた呼子湾は、荒波の玄界灘にあって、船が風待ち潮待ちをするには格好の場所だったのだろう。
中世に入ると、松浦水軍がこの地を拠点とし、その活動は平安末期には中国船との交流にも及んだ。そして、16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として名護屋城を築城すると、呼子はその軍事・生活物資を支える港として急速に発展したと考えられている。
呼子が最も栄華を極めたのは江戸時代中期、捕鯨の拠点となってからだ。特に中尾家が率いる「鯨組」は、呼子や小川島を舞台に大規模な捕鯨を行い、その財力は藩主をも凌ぐほどだったという。当時の呼子には「鯨一頭捕れれば七浦潤う」という言葉が残されており、捕鯨がいかに地域経済を支えていたかが窺える。現在の呼子の町並みも、この捕鯨が盛んだった江戸時代中期に形成されたものが多く、海側の「網元」の家と山側の商人や職人の家とで異なる建築様式が見られる。また、大正時代には、もともと行商が盛んだったこの地で商店街が形成され、活発な商業活動の中から現在の「呼子朝市」が自然発生的に生まれたとされる。
「活き造り」が生まれた港の試行
呼子が「イカの町」として全国に知られるようになったのは、実は比較的近年のことである。江戸時代から明治期にかけて隆盛を誇った捕鯨は、近代に入ると国際的な規制強化により衰退の道を辿る。この転換期において、呼子では新たな海の恵みを探る必要があったのだ。
烏賊の活き造りが呼子の名物として確立されたのは、昭和40年代後半から50年代にかけてと言われている。諸説あるが、そのきっかけは、昭和44年頃に町内の魚料理店が提供を始めたことにあるとされる。あるいは、それよりも少し前、「玄海」という店で客の要望に応えて活きた烏賊を提供したのが始まりという説もある。しかし、この活き造りを看板料理として全国に広めたのは、昭和48年(1973年)に開業した「河太郎」という専門店だったとされる。当時、呼子の名物料理といえば鯛の活き造りが主流であり、烏賊を活きたまま出すという発想自体が画期的なものだったのだ。
