2026/6/2
筑波山麓の古代から現代まで、信仰と科学が織りなす街の歴史

筑波の街の歴史を詳しく教えて欲しい。古代から順を追って。
キュリオす
筑波山を望むこの地は、古代の信仰の対象から律令国家、武士の時代を経て、近代には科学技術の拠点へと変遷した。八幡塚古墳や平沢官衙遺跡などの史跡が残る一方、つくばエクスプレス開業でベッドタウン化も進む。計画と自然、人々の営みが重層的に存在する街の歴史をたどる。
筑波山を望むとき、その二つの峰が男体山と女体山として並び立つ姿は、古くからこの地の象徴であり続けてきた。関東平野の北東に位置するこの山は、遠い太古の昔から人々の信仰を集め、「西に富士、東に筑波」と称される名山として親しまれてきたという。その裾野に広がるつくばの街は、現代においては「科学技術の拠点」というイメージが強い。しかし、この地がたどってきた歴史は、単なる近代都市の形成物語にとどまらない。山岳信仰の聖地として、あるいは律令国家の一角として、さらには武士の争乱の舞台として、幾重にも重なる過去を持つ。現在のつくば市が、なぜこのような多層的な顔を持つに至ったのか、その歴史の軌跡をたどることは、現代の都市が抱える課題を読み解く手がかりにもなるだろう。
筑波地域に人が住み始めたのは約4万年前の旧石器時代に遡るとされている。縄文時代には、大きな河川に沿って海水が内陸に入り込み、この辺りにも浅い海があった形跡が、田倉貝塚などの貝塚として残されている。やがて農耕が伝播し、権力者が現れると、彼らは大和朝廷と結びつき古墳を築いた。つくば市内では約200基もの古墳が確認されており、県指定遺跡である八幡塚古墳はその代表例である。全長91メートルの前方後円墳で、6世紀前半に築造されたと推定されている。
大化の改新(645年)を経て、この地域は常陸国筑波郡の一部となる。市内平沢には、この筑波郡の郡役所と推定される平沢官衙遺跡が残り、国の史跡に指定されている。また、その近くの北条には、約3キロメートル四方に及ぶ条里制の遺構が確認されており、当時の律令国家の支配が及んでいたことがうかがえる。奈良時代の『常陸国風土記』には、筑波郡に関する記述や、富士と筑波の神の伝説が記されている。 また、『万葉集』にも筑波を詠んだ歌が25首も収められており、古くから人々に親しまれていたことがわかる。
筑波山は、古くから山岳信仰の対象であり、約3000年前の神代の時代に遡るとも伝えられている。 男体山頂には筑波男大神(伊弉諾尊)、女体山頂には筑波女大神(伊弉冊尊)が祀られ、その信仰は『古事記』『日本書紀』にも記される日本の祖神信仰と結びついていた。 奈良時代の延暦年間(782年-806年)には、法相宗の学僧である徳一が筑波山寺(後の知足院中禅寺)を開き、神仏習合の霊場として発展していく。
中世に入ると、律令制の解体とともに武士団が台頭する。10世紀前半には、筑波山麓を舞台に平将門の乱が起こった。これは平氏一族の内紛に周辺武士の勢力争いが絡んだもので、将門は一族の貞盛に敗れた。 鎌倉時代には、有力御家人である八田知家(小田氏の祖)が常陸国の守護職に任じられ、市内の小田に本拠を置いた。小田城は鎌倉時代から戦国時代末まで、この地方に勢力を張った小田氏の居城となり、特に南北朝時代には南朝方の関東における拠点として知られている。 江戸時代には、徳川家康が江戸城の鬼門を護る霊山として筑波山を崇め、知足院を将軍家の祈願所とするなど、その庇護は厚かった。 これにより筑波山は隆盛を極め、門前町として北条の街などが発展していくことになる。
明治時代に入ると、廃藩置県や神仏分離令が筑波地域にも大きな変化をもたらした。筑波山では、壮麗を誇った知足院中禅寺の堂塔が破壊され、仏像や仏具が撤去された。 その跡地は筑波山神社として再興され、1873年(明治6年)には県社となった。 また、江戸時代に土浦藩の陣屋が置かれ、門前町として栄えた北条の街は、防火性能の高い土蔵造りの店蔵が軒を連ねる在郷商人町として発展を続けた。
20世紀半ば、筑波の地に再び大きな転換点が訪れる。1950年代から顕著になった首都東京の過密状態を解消するため、機能上必ずしも東京に置く必要のない官庁や試験研究機関の集団移転が検討され始めたのである。 科学技術の振興と高等教育の充実、そして東京一極集中の緩和という二つの目的を掲げ、新たな研究学園都市の建設が国家プロジェクトとして計画された。 候補地として富士山麓、赤城山麓、那須高原なども挙がったが、最終的に1963年(昭和38年)9月、東京からの距離、霞ヶ浦からの水の確保、安定した平坦地であることなどが決め手となり、筑波山麓地区が選定された。
当初の計画は、約4,000ヘクタールの土地を全面買収するという大規模なものであった。しかし、地元住民の一部からは強い反対運動が起こり、計画規模の縮小や土地区画整理方式の併用が検討されることになった。 最終的には約2,700ヘクタールを研究学園地区とし、周辺開発地区と合わせて発展を図る方針が固まる。 1968年(昭和43年)には最初の建設工事が着工され、1970年(昭和45年)には「筑波研究学園都市建設法」が制定・公布された。
その後、1973年(昭和48年)には東京教育大学の移転を契機に抜本的な改革を行った筑波大学が開学し、研究学園都市の中核を担うこととなる。 1980年(昭和55年)3月には、当初予定されていた43の国の試験研究機関や大学の移転・新設が完了し、都市としての「概成」を迎えた。 この期間、道路や公共施設などのインフラ整備も進められ、新たな都市の骨格が形成されていった。
筑波研究学園都市の建設は、特定の目的のために一から設計された「計画都市」という点で、日本の都市史において特異な存在と言える。日本の多くの都市は、城下町や港町、門前町といった形で自然発生的に発展してきた歴史を持つ。例えば京都は、古くから都として計画的に整備された都市であるが、それは政治・文化の中心としての機能が主であり、科学技術に特化したものではない。また、札幌のような開拓によって生まれた都市も計画性は持つが、その目的はあくまで地域の開発と行政機能の集約にあった。
筑波の場合、東京の過密緩和と科学技術の振興という明確な国家目標のもとに、既存の農村地帯に大規模な研究機関と大学を集約するという、他に類を見ない試みであった。旧ソビエト連邦のアカデムゴロドクを参考にしたとも言われる初期構想は、よりアカデミックな集住性を志向していたようだ。 しかし、地元の反対運動や土地買収の難航により、当初の全面買収計画は縮小され、既存集落との共存を余儀なくされた。この経緯は、計画都市が直面する理想と現実の乖離を示す典型的な事例とも言える。
一方で、筑波の計画都市としての特徴は、その広範なエリアに研究機関や教育施設、そしてそれらを支える住宅地が分散して配置された点にある。これは、戦後の日本において、都市の機能分散と緑豊かな住環境を両立させようとした思想の表れでもある。初期のマスタープランでは、直交する二つの都心軸が考えられていたが、最終的には南北に伸びる「複合都市軸」へと見直された経緯がある。 このような計画の変遷は、単一の理念ではなく、社会状況や地域の実情に応じて柔軟な修正が加えられてきたことを示している。
また、筑波は単なる研究施設群ではなく、「田園都市」としての性格も重視された。広大な緑地や公園が計画的に配置され、研究者とその家族が快適に生活できる環境が目指されたのである。これは、都市の機能性だけでなく、居住者の生活の質をも考慮した、近代都市計画の一つの到達点を示すものと見ることができる。しかし、この分散配置が、後の交通問題や中心市街地の形成の遅れといった課題を招く側面もあった。
筑波研究学園都市は、1980年代の「概成」以降も進化を続けてきた。1985年には「国際科学技術博覧会(つくば科学万博)」が開催され、「つくば」の名は世界に広く知られることとなる。 この万博は、研究学園都市の存在意義を国内外にアピールする大きな契機となった。しかし、この時期のつくばは、まだ東京からのアクセスが常磐線とバスに頼る状況で、約2時間を要したという。
大きな転機となったのは、2005年8月のつくばエクスプレス(TX)開業である。 これにより、秋葉原からつくば駅までが約45分で結ばれるようになり、東京圏からのアクセスが飛躍的に向上した。 TXの開業は、研究学園都市に新たな活気をもたらす一方で、その性格を大きく変えることにもなった。かつては研究者中心の街であったが、都心への通勤圏内となったことで、マンション建設が進み、ベッドタウン化が急速に進行したのである。
現在、つくば市は日本最大級のサイエンスシティとして、約2万人の研究従事者を擁し、多くの外国人研究者が活動している。 産業技術総合研究所や筑波大学をはじめとする150以上の研究機関が集積し、ノーベル賞受賞者も輩出するなど、世界的な科学技術拠点としての実績を積み重ねている。 また、1,000を超えるベンチャー企業が育つなど、研究成果の実用化に向けた動きも活発化している。
しかし、その一方で、開発当初からの課題も残る。広大な敷地に分散配置された研究機関や住宅地は、自動車なしでは生活しにくいという状況を生み出した。 TX沿線の開発が進む一方で、かつての公務員宿舎跡地の民間売却や、郊外への大型商業施設の進出は、中心市街地のあり方や交通渋滞といった新たな問題も提起している。 「研究学園地区」と「周辺開発地区」が共存する現在のつくばでは、古くからの農村風景と、近代的な研究施設や商業施設が混在する多様な景観が広がっている。ごみ収集が旧町村単位で行われるなど、合併から時間が経った今も、旧町村の区分が生活に影響を与えている地域もある。
筑波の街の歴史をたどると、そこには常に「計画」と「自然」、そして「人々の営み」が複雑に絡み合ってきたことが見えてくる。古代の人々が筑波山を神と仰ぎ、その恵みの中で生活を営んだ時代から、律令国家の支配下に組み込まれ、武士が覇権を争った中世。そして江戸時代には、筑波山信仰が庶民に広がり、門前町が形成された。
しかし、現代のつくばを特徴づけるのは、何よりも戦後日本の国家的な意志によって「創られた」研究学園都市としての側面である。東京の過密緩和と科学技術立国という明確な目標のもと、広大な農地が計画的に整備され、最先端の研究機関が集積した。この大規模な都市計画は、日本の戦後復興と経済成長の象徴でもあった。
だが、その計画は常に順風満帆だったわけではない。地元の反対運動、土地利用の変遷、そしてつくばエクスプレス開業による急激なベッドタウン化は、当初の理想像を修正し、新たな課題を生み出してきた。都市は一度作られて終わりではなく、常に変化し、使われていくものだという視点は、筑波の歴史から得られる一つの教訓だろう。
筑波山を背景に、古代の貝塚や古墳、奈良時代の官衙遺跡、中世の城址、そして現代のサイエンスシティが重層的に存在するつくばの風景は、単なる開発の歴史ではない。それは、自然の条件に根ざした人々の暮らしと、時代ごとの社会的要求に応えようとした国家的な意思とが、時に調和し、時にせめぎ合いながら、この地に独自の姿を与えてきた軌跡である。現代のつくばが直面する多様な課題もまた、この多層的な歴史の延長線上にあると言える。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。