2026/5/29
見附宿の粟餅、矢奈比賣神社との意外な関係

見附宿の名物の粟餅について知りたい。矢奈比賣神社との関係は?
キュリオす
東海道見附宿の名物、粟餅。その起源は、人身御供の悲しい習わしと、それを退治した霊犬悉平太郎の伝説、そして見付天神裸祭に深く結びついている。粟餅が宿場の名物となった背景と、現代に受け継がれる信仰の記憶を辿る。
東海道五十三次の宿場町として栄えた見附宿、現在の静岡県磐田市を歩くと、時折、素朴でどこか懐かしい甘い香りが漂うことがある。それは、この土地で古くから親しまれてきた「粟餅」の香りだ。餅といえば米を搗いた白いものを想像するが、見附の粟餅は、少し黄色みがかった独特の色合いと、つぶつぶとした食感が特徴である。なぜ見附の地に粟餅が根付き、そしてなぜそれが「見付天神」として知られる矢奈比賣神社と深く結びついてきたのか。その背景には、この地域の歴史と、ある奇祭の存在が見え隠れする。
見附は古くから遠江国の国府が置かれ、中世には東海道屈指の規模を誇る宿場町として栄えた土地である。江戸時代に東海道が整備されると、日本橋から数えて二十八番目の宿場として多くの旅人が行き交い、その賑わいは五文取り(餡餅)、スッポン、そばなどと共に粟餅を名物としていた。しかし、見附の粟餅が単なる宿場菓子に留まらないのは、矢奈比賣神社、通称「見付天神」との関わりが深く、その歴史は「見付天神裸祭」と分かちがたく結びついているからだ。
矢奈比賣神社の創立年月は不詳とされているが、平安時代の一条天皇正暦四年(993年)には菅原道真公が勧請奉祀されたという記録がある。主祭神は矢奈比賣命で、五穀豊穣、安産、子宝、子育て、縁結びなどに御利益があるとされる。この神社で毎年旧暦8月10日直前の土曜の夜に行われるのが「見付天神裸祭」である。国の重要無形民俗文化財にも指定されているこの祭りは、腰蓑姿の男たちが街を練り歩き、拝殿で乱舞を繰り広げる勇壮な祭として知られている。
この祭りの起源には、鎌倉時代後期、花園天皇の正和年間(1312年から1317年)に始まったとされる人身御供の悲しい習わしがあった。かつて、見附の里には人身御供を求める大猿の妖怪が棲んでおり、毎年8月になると白羽の矢が立った家の娘が生贄として差し出されていたという。その際、娘と共に長持ちに入れられたのが、その年に収穫された新粟で作った粟餅だったと伝えられている。この悲劇を救ったのが、信濃の国から連れてこられた霊犬「悉平太郎(しっぺいたろう)」である。悉平太郎が妖怪を退治した後も、無病息災と五穀豊穣を願う神事として粟餅の奉納は続けられた。江戸時代後期になると、この神事の供物であった粟餅が、祭りの土産物として販売されるようになり、宿場の名物として広まっていったのである。
見附宿で粟餅が定着した背景には、いくつかの要因が重なっている。まず、米が貴重だった時代において、粟は重要な食料源であったという点だ。特に米作に適さない畑地でも栽培が可能な粟は、祭礼や物日といった特別な日に、米の代わり、あるいは米と共に用いられてきた歴史がある。粟餅に使われるのは主に「もち粟」という種類で、これに米を混ぜたり、粟だけで搗いたりする方法がある。もち粟は、その名の通り粘り気があり、餅として加工しやすい特性を持つ。精白したもち粟と米を水に浸して蒸し、臼で搗くという製法は、一般的な餅の作り方と共通するが、粟独特の風味と食感が加わる。
次に、矢奈比賣神社という地域の中心的な信仰と結びついたことが大きい。粟餅は単なる菓子ではなく、人身御供という悲しい歴史を経て、無病息災や五穀豊穣を願う神聖な供物としての意味合いを持っていた。このような背景は、単に美味しいからという理由だけでなく、地域の人々にとって精神的な支えとなる存在だったことを示している。祭りの時期に限定的に販売されるという特別感も、その価値を高めた要因だろう。
さらに、東海道の宿場町という立地も粟餅が名物となった理由の一つである。長旅で疲れた旅人にとって、手軽に食べられる甘い餅は貴重な栄養源であり、地域性を感じさせる土産としても魅力的だった。江戸時代には、盛り場に粟餅を売る店が増え、搗きたての餅をパフォーマンスを交えて提供する「粟餅の曲搗き」が人気を博した記録も残る。見附宿でも、こうした旅人向けの需要が、粟餅の普及を後押ししたと考えられる。
街道沿いの宿場町には、それぞれ固有の名物が存在する。東海道における代表的なものとして、「新居の鰻蒲焼」「丸子のとろろ汁」「桑名の焼蛤」が挙げられる。これらの名物は、いずれもその土地の風土や歴史に深く根ざしている点が共通している。例えば、新居宿が浜名湖に面し、鰻の捕獲が盛んだったこと。丸子宿が山間部に位置し、自然薯が豊富に採れたこと。桑名宿が伊勢湾の恵みを受け、ハマグリが特産だったこと。それぞれの名物は、地域の自然条件や生業と密接に結びつき、旅人の疲労を癒し、土産として持ち帰られることで、その地の文化を広める役割を担ってきた。
見附の粟餅も、米が貴重だった時代に畑作で栽培しやすい粟という穀物を活用し、それを地域の信仰と結びつけた点で、これらの名物と共通する構造を持つ。しかし、見附の粟餅が特に目を引くのは、その起源が「人身御供」という、他ではあまり見られない悲劇的な伝承と結びついている点だろう。他の宿場の名物が、その地の豊かな恵みを直接的に享受する形であるのに対し、見附の粟餅は、厄災を鎮め、無病息災を願うという、より深い精神性が込められている。これは、見附天神裸祭の持つ特異性とも重なる。また、京都の北野天満宮や江戸の目黒不動の門前でも粟餅が名物であったという記録があるが、見附の粟餅は、特定の祭礼と結びつき、その祭りの象徴的な供物としての性格を強く残している点で、より地域固有の色彩が濃いと言える。
現代の見附宿、現在の磐田市見付地区では、東海道の宿場町の面影は薄れつつあるものの、粟餅の伝統は確かに受け継がれている。かつては祭礼時に限定して販売されていた粟餅だが、今では年間を通して購入できる店も存在する。特に「井口製菓」は、見付天神の御用を仰せつかる老舗として知られ、祭りの時期には神社の境内で特設売店を出すこともある。ここでは、粟を粉にして餅に入れ、あっさりとした甘さのこしあんで包んだ伝統的な粟餅が作られている。
粟餅の材料である粟は、かつては地元でも入手できたが、近年では生産農家が減少し、東北地方などから調達することも少なくないという。食生活の変化により、粟の生産量が減少し、粟餅が一般的な存在ではなくなりつつある現状もある。しかし、見付天神裸祭が国の重要無形民俗文化財として保護され、その活気あふれる祭りが続く限り、粟餅もまた、その祭りの欠かせない一部として、地域に根ざした存在であり続けるだろう。観光客が訪れる際も、井口製菓のような店舗で粟餅を手に取り、その素朴な甘さを味わうことで、見附の歴史と文化の一端に触れることができる。祭りの時期には、多くの菓子店が期間限定で粟餅を製造・販売し、町全体がその熱気を帯びる。
見附宿の粟餅を巡る旅は、単なる地方菓子の探求に留まらない。そこには、古代から続く穀物文化、宿場町の賑わい、そして何よりも、人々の信仰と厄災を乗り越えようとする切実な願いが凝縮されている。粟という素朴な作物が、神への供物となり、やがて旅人の心を癒す名物へと姿を変えていった過程は、この土地の歴史そのものを映し出している。
人身御供という、現代から見れば異様な習わしの中に粟餅が存在したという事実は、この餅が持つ意味の重さを物語る。それは単なる甘味ではなく、生命の捧げ物であり、同時に五穀豊穣と無病息災を願う、人々の切なる祈りの象徴であった。現代において、粟餅は日常の菓子として、あるいは土産物として消費されるが、その一口には、遥か昔、見付の里で繰り広げられた悲劇と、それを乗り越えようとした人々の記憶が、静かに息づいている。この粟餅を味わうことは、見付の地に刻まれた、長く深い歴史の襞に触れることなのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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