2026/5/29
なぜ「姫街道」と呼ばれる?東海道の脇道を通ったのは女性だけ?

姫街道について詳しく知りたい。女の人がこっちを通ったのか?
キュリオす
東海道の脇往還「姫街道」は、見付宿と御油宿を結ぶ約60kmの道。女改めや縁起を嫌って女性が多く通ったとされるが、険しい峠道も存在した。その名の由来と、現代に残る面影を辿る。
姫街道は、東海道の脇往還として、静岡県磐田市見付(見付宿)と愛知県豊川市御油(御油宿)の間、およそ60キロメートルを結ぶ街道である。東海道が浜名湖の南岸を横断し、今切の渡しや新居関所を通過するのに対し、姫街道は浜名湖の北側を迂回する経路を取る。かつて「本坂通(ほんざかどおり)」と称されたこの道は、古くから存在する重要な交通路であった。
姫街道の歴史は古く、奈良時代には既に「二見道(ふたみみち)」と呼ばれ、東国への重要なルートとして機能していたことが万葉集にも詠まれている。戦国時代には今川、武田、徳川といった戦国大名の軍勢が行き交い、軍事的な要衝としても利用された。江戸時代に入ると、徳川家康や家光の上洛の道筋としても使われるなど、幕府公認の街道としての地位を確立する。この時期の正式名称は「本坂通」であった。
この脇往還が脚光を浴びる大きな転機となったのは、宝永四年(1707年)に発生した大地震である。この地震による津波で、東海道の難所であった今切の渡しが壊滅的な被害を受け、通行が困難となった。これにより、参勤交代の大名行列をはじめ、多くの旅人が一時的に本坂通へと迂回せざるを得なくなり、街道はかつてないほどの賑わいを見せたという。東海道の復旧後も、本坂通の利用は続き、その重要性は増していったのである。
「姫街道」という名称が定着したのは、江戸時代末期から幕末にかけてのことだとされている。その由来については複数の説が語り継がれているが、大きく分けて三つの理由が挙げられることが多い。
一つは、東海道の新居関所における「女改め」の厳しさを避けるため、女性たちがこの脇街道を多く利用したという説である。江戸時代、特に女性の通行には厳しい取り調べが課せられ、関所を通過する際には身分や目的を詳細に確認された。この煩わしさを避けるため、比較的取り締まりが緩やかであったとされる本坂通が選ばれたという見方だ。しかし、姫街道沿いにあった気賀関所もまた、「入り鉄砲と出女」の取り締まりを厳しく行っていた記録があり、一概に「緩やかだった」とは言い切れない側面もある。
二つ目は、東海道の今切の渡しが持つ「今切(いまぎれ)」という地名が、「縁切れ」を連想させ、特に女性にとって不吉な響きを持つと嫌われたため、本坂通を選んだという説である。当時の旅において、縁起を担ぐことは重要な要素であり、このような心理的な理由が街道選択に影響を与えた可能性は十分にある。また、今切の渡しにおける船旅の危険性や、天候による足止めを避ける目的もあったとされる。
三つ目は、東海道に比べて「ひなびた」「ひねた」街道であったことから、「ひね街道」が転じて「姫街道」となったという説である。これはロマンチックな響きとは裏腹に、街道の実際の様子を伝えるものかもしれない。さらに、主要な東海道を男性に見立て、脇道である本坂通を女性に見立てたという説も存在する。これらの諸説が混じり合い、いつしか「姫街道」という呼び名が定着していったのだろう。
実際に、八代将軍徳川吉宗の生母である浄円院や、幕末には天璋院篤姫など、歴史上の高貴な女性たちがこの道を通行した記録も残されており、「姫」という名にふさわしい通行者も確かに存在したことは付け加えておくべきだろう。
「姫街道」という名から想像されるような、なだらかな道ばかりではなかった。むしろ、その道程には本坂峠や引佐峠といった、標高200メートルから380メートルにも及ぶ険しい峠道がいくつも横たわっていた。特に引佐峠には、享保年間(1716年~1736年)に将軍吉宗に献上されるベトナムからの象が、あまりの急坂に悲鳴を上げたという逸話から「象鳴き坂」の名が残されているほどである。
東海道の難所である今切の渡しを避けるメリットは大きかったものの、姫街道もまた、独自の難しさを抱えていたのだ。川留めが少ないという利点と引き換えに、旅人は山道の起伏に富んだ地形と向き合うことになった。この事実は、「姫」という名が必ずしも道の容易さを表すものではなく、むしろ特定の困難を回避するための選択として、別の種類の苦労を伴ったことを示している。
現代において、姫街道のルートは国道257号や362号などの幹線道路として利用されており、車でその大部分を辿ることができる。しかし、宇藤坂、長坂、小引佐から引佐峠にかけての区間など、一部には江戸時代の道筋がそのまま残り、往時の面影を偲ばせる場所も存在する。気賀宿には、江戸時代に「入り鉄砲と出女」を取り締まった気賀関所の屋根の一部が今も残り、平成2年には当時の文書を参考に再建された気賀関所が浜松市北区役所西側に位置している。
また、浜松市では毎年「姫様道中」という伝統行事が開催され、当時の絢爛豪華な姫様行列が再現される。これは、姫街道が単なる歴史の遺物ではなく、地域の人々によって語り継がれ、現代に生きる文化として息づいている証左と言えるだろう。ハイキングコースとして整備された石畳の道や、樹齢200年以上のヤブ椿が群生する峠道など、実際に歩いて歴史に触れる機会も提供されている。
姫街道は、東海道という主要な幹線路の存在を前提としつつ、そこに内在する不便や困難を回避するために選択された道であった。新居関所の厳しい取り締まりや、今切の渡しの心理的・物理的負担を避けるという、当時の旅人、特に女性たちの具体的なニーズに応える形で、その存在意義を確立していったのだ。
この道が「姫街道」と呼ばれたのは、単に高貴な女性が通ったからというだけでなく、東海道の「大通り」に対して、より個人的な選択、あるいは細やかな配慮が求められる「裏道」としての性格を象徴していたのかもしれない。険しい峠を越えるという別の困難を抱えながらも、旅人が自らの意思で選び取った道筋。それは、制約の中でいかにして自由を見出すかという、古の人々の知恵と工夫の跡を今に伝えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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