2026年5月21日
薩摩藩の財政を支えた奄美の黒糖、その「黒糖地獄」の歴史
奈良時代に薬として伝来した砂糖は、江戸時代に奄美大島などで生産が本格化。薩摩藩は財政難打開のため黒糖生産を強制し、島民は過酷な労働を強いられた。現代では加工品としても多様化し、地域文化を象徴する存在となっている。
琉球から薩摩への道
日本における砂糖の歴史は古く、奈良時代に中国から薬として伝来したのが始まりとされる。鑑真和上が持ち込んだという説や、遣唐使が持ち帰ったという説があるが、当時の砂糖は貴族階級の薬用であり、庶民が口にするようなものではなかった。国内での砂糖生産が始まったのは17世紀初頭で、鹿児島県に属する奄美大島、そして琉球(現在の沖縄県)がその最初期の地とされている。
奄美大島には、慶長年間(1600年前後)に川智という人物が中国からサトウキビの苗と栽培法を伝えたという伝承が残る。 一方、琉球では1623年に儀間真常が中国に人を派遣し、製糖技術を学ばせたことが記録されている。 しかし、この甘蔗栽培が本格的に拡大する背景には、政治的な大きな転換があった。慶長14年(1609年)、薩摩藩は琉球王国に侵攻し、その支配下に置く。この時、奄美大島、徳之島など五つの島が琉球から薩摩藩に割譲され、直轄地となった。 当初、薩摩藩は奄美で本土と同様に稲作を奨励したが、大坂市場で高値で取引される黒糖の経済的価値に気づくと、その政策を大きく転換していくことになる。
財政を支えた「黒糖地獄」
薩摩藩が黒糖生産に傾倒していった最大の理由は、藩の深刻な財政難にあった。江戸幕府から命じられた木曽川の治水工事(宝暦治水)や、将軍家との縁組に伴う多額の出費などにより、薩摩藩は莫大な借財を抱えていた。 その金額は時に約500万両に上り、年間物産高14万両という藩の収入をはるかに超えるものであった。 この窮状を打開するため、藩は奄美の黒糖に目をつけた。黒糖は「打ち出の小槌」とまで言われるほどの換金作物となり、藩財政再建の柱とされたのである。
薩摩藩は黒糖からの収益を最大化するため、奄美の島々に極めて苛烈な政策を敷いた。元禄8年(1695年)には黒糖製造を監督する「黍検者」を派遣し、さらに2年後には在地役人である「黍横目」を設置して生産体制を厳しく管理した。 享保年間(1716年~1735年)には、島民に一定量の砂糖を強制的に買い上げる「定式買入糖」や「買重糖」といった制度が導入された。 そして延享2年(1745年)、年貢を米ではなく黒糖で納める「換糖上納制」が開始される。 これにより、島民は食料となる米や芋の栽培を後回しにし、サトウキビの生産を優先せざるを得なくなった。さらに天保3年(1832年)には「砂糖総買い入れ制度」が再開され、薩摩藩が黒糖を独占できるよう、貨幣の流通も停止された。 島民は年貢として定められた黒糖を納めるだけでなく、「余計糖」と呼ばれるそれ以外の黒糖も、不平等な比率で米などの日用品と交換することを義務付けられた。 密売者は死罪、質の悪い黒糖を作れば足枷、サトウキビを舐めただけでも鞭打ちという厳しい罰則が適用され、島民は「」と呼ばれるほどの過酷な労働と搾取に苦しんだのである。
