2026/6/23
甲斐源氏と武田氏、鎌倉・室町時代の山梨で権力争いを繰り広げた人々

山梨県の歴史について詳しく教えてほしい。鎌倉・室町時代。
キュリオす
鎌倉・室町時代の山梨(甲斐国)は、甲斐源氏、特に武田氏が中央政権とどのように関わり、勢力を拡大していったのかを辿る。守護職の変遷や、畿内と東国の狭間での複雑な力学が、この地の歴史を形作った。
巨岩と古道が語る甲斐の気配
甲府盆地の東端、大和町には、巨岩が折り重なる「羅漢寺山」がそびえている。その山腹にひっそりと佇む羅漢寺は、平安時代末期に創建されたと伝わる古刹だ。鬱蒼とした杉木立のなか、苔むした石段を登りきると、鎌倉時代から室町時代にかけて、この地が中央とどのような関係を築き、いかに自らの姿を形作っていったのか、その重い問いが静かに浮かび上がってくる。峻厳な山々に囲まれ、交通の要衝でもあった甲斐国は、歴史の表舞台に立ちながらも、常に独自の道を模索してきた。その足跡を、鎌倉・室町という動乱の時代に辿ることは、現代の山梨の奥底に流れる気質を知る手がかりとなるだろう。
甲斐源氏の系譜と鎌倉幕府
甲斐国は、古くから京都と東国を結ぶ重要な交通路である甲斐路が通る地であり、また、富士川水系が豊かな水をもたらす農業生産地でもあった。鎌倉時代に入ると、この地の歴史は「甲斐源氏」抜きには語れない。甲斐源氏は、源頼朝と同じ清和源氏の流れを汲む一族であり、平安時代末期に源義清が常陸国から甲斐国に移り住んだことに始まる。義清の子孫たちは甲斐国内に勢力を広げ、武田氏、小笠原氏、南部氏など、後の歴史に名を残す有力武士団へと発展していく。中でも武田氏は、甲斐源氏の嫡流として、源氏宗家が鎌倉幕府を開く過程で重要な役割を担った。源頼朝の挙兵に際しては、武田信義が頼朝の元に馳せ参じ、富士川の戦いなどで功績を挙げたことで、武田氏は甲斐国の有力御家人としての地位を確立したのだ。
しかし、その関係は常に平穏だったわけではない。頼朝は、同族である甲斐源氏の勢力拡大を警戒し、武田信義を駿河守護に任じながらも、後にその職を解くなど、巧みに牽制したとされる。甲斐国は、鎌倉幕府の直轄地である関東御領と隣接しており、その軍事的・経済的価値は高かった。幕府は、甲斐国内に地頭を設置し、御家人たちに土地を給与することで支配を強化する一方、甲斐源氏の動向には常に目を光らせていたのである。武田氏は、幕府の支配下で甲斐の守護職を得ることはなかったが、一族の結束と武力を背景に、甲斐国内での影響力を維持し続けた。彼らは、甲斐の豊かな資源と、御家人としての立場を活かし、徐々にその基盤を固めていったのだ。
守護職の変遷と武田氏の台頭
鎌倉幕府が滅亡し、室町時代に入ると、甲斐国は新たな動乱の時代を迎える。建武の新政を経て、足利尊氏が室町幕府を開くと、甲斐国は鎌倉府の管轄下に置かれることになった。鎌倉府は、関東十カ国を統括する機関であり、甲斐国もその影響を強く受けたのである。室町幕府は、全国に守護を配置して支配を強化したが、甲斐の守護職はめまぐるしく変わった。当初は足利氏の一族や、幕府に強い影響力を持つ有力者が任命されたものの、その支配は安定しなかった。甲斐国内では、守護の支配に反発する国人一揆が頻発し、また、甲斐源氏の流れを汲む有力氏族、特に武田氏と小笠原氏の間で勢力争いが繰り広げられた。
この混乱期に、武田氏は再びその存在感を増していく。武田信武は、足利尊氏に従って各地を転戦し、その功績によって甲斐守護職を得た。しかし、その後も守護職は武田氏と他の氏族の間を転々とし、武田氏の甲斐支配は確立されたわけではなかった。特に「応永の乱」のような中央の政争が地方にも波及すると、甲斐国内でも守護代や有力国人衆が守護に反抗する動きが活発化した。この時期の武田氏は、一族内の内紛や、有力国人衆との抗争に明け暮れ、必ずしも一枚岩ではなかった。しかし、こうした戦乱の中で、武田氏は徐々にその武力と統治能力を高め、甲斐国内での地位を盤石なものとしていったのである。応仁の乱以降、室町幕府の権威が失墜し、全国的に戦国時代へと突入する中で、武田氏は甲斐の守護としての地位を確立し、後の戦国大名としての基盤を築いていくことになる。
畿内と東国の狭間で
甲斐国は、畿内の中央政権と、鎌倉に拠点を置く東国政権の双方から常に影響を受けてきた。この地理的な位置は、甲斐の歴史を特徴づける重要な要素である。例えば、畿内と東国の境に位置する駿河や遠江が、守護大名による支配が比較的安定していた時期があるのに対し、甲斐は鎌倉時代を通じて守護が置かれず、甲斐源氏という強力な在地の武士団がその実権を握っていた。これは、鎌倉幕府が同族である源氏の勢力拡大を警戒し、直接的な支配を避けた結果とも考えられる。
室町時代に入ると、甲斐は鎌倉府の管轄下に置かれ、その動向は鎌倉府の意向に大きく左右された。しかし、鎌倉府自体も室町幕府との関係が不安定であり、甲斐の守護職も頻繁に交代した。例えば、斯波氏や今川氏など、畿内の有力守護が甲斐守護を兼任することもあったが、彼らは甲斐に直接赴任することは少なく、守護代を派遣して支配しようとした。しかし、在地の武田氏や有力国人衆がこれに反発し、実効支配はなかなか進まなかったのである。この点において、甲斐は、比較的早い段階から単一の守護大名が強固な支配を確立した周防の大内氏や、安芸の毛利氏といった西国の事例とは大きく異なる。甲斐では、中央の権力構造の変化と、在地の武士団の自立志向が複雑に絡み合い、守護大名がその支配を確立するまでに、より長い時間と多くの抗争を要したのだ。
史跡が語る武田氏の足跡
現在の山梨県には、鎌倉・室町時代の甲斐国の姿を伝える史跡が数多く残されている。甲府市にある「武田氏館跡」は、武田氏が本拠とした場所であり、その後の戦国大名としての発展の基礎を築いた地である。現在は武田神社が建つが、その周囲には土塁や堀の跡が残り、当時の館の規模を偲ばせる。また、甲斐源氏ゆかりの寺社も各地に点在している。韮崎市にある「願成寺」は、武田信義が建立したと伝わる寺院であり、武田氏の信仰の篤さを示すものだ。
さらに、室町時代後期の甲斐国の混乱を物語る史跡として、「要害山城跡」がある。これは、武田信玄の父である武田信虎が、領国統一を進める中で築いた山城であり、甲府盆地を一望できる要衝に位置する。これらの史跡は、当時の武士たちの生活や信仰、そして権力闘争の痕跡を現代に伝えている。また、各地に残る古文書や系図は、甲斐源氏の複雑な血縁関係や、守護と国人衆の間の緊張関係を具体的に示しており、当時の社会構造を理解する上で貴重な手がかりとなっている。観光開発が進む現代においても、これらの史跡は、単なる観光地としてではなく、当時の人々が息づいた生々しい歴史の舞台として、静かに存在感を放っている。
複雑な血脈が織りなす力学
鎌倉・室町時代の甲斐国は、中央の政情に翻弄されながらも、その地理的条件と甲斐源氏という独自の血脈が、特異な歴史を形成した。守護職が安定せず、在地の有力氏族が常にその実権を争う状況は、他の多くの国とは異なる様相を呈していたのである。これは、鎌倉幕府が同族の源氏を警戒し、室町幕府が鎌倉府を通じて間接支配を試みた結果、甲斐国内の武士団が自立性を高めることになったためだろう。
甲斐源氏、特に武田氏が、幾多の抗争を経て甲斐国を統一し、戦国大名へと成長していく過程は、外部からの強い支配を受けにくい、ある種の「独立性」をこの地に与えたとも言える。山々に囲まれた閉鎖的な地形は、外からの影響を遮断する一方で、内部の結束を促し、独自の文化や気質を育む土壌となった。鎌倉・室町時代の甲斐の歴史は、中央集権的な支配が容易ではなかった地方の姿と、その中で自らの道を切り開いていった人々のしたたかさを示す、ひとつの具体例である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 開館5周年記念特別展「甲斐源氏―列島を駆ける武士団―」: 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-museum.pref.yamanashi.jp
- 企画展「甲斐源氏~列島を駆ける武士団~」: 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-museum.pref.yamanashi.jp
- 企画展「甲斐源氏~列島を駆ける武士団~」: 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-museum.pref.yamanashi.jp
- 展示案内 甲斐を往き交う群像:山梨県立博物館museum.pref.yamanashi.jp
- 甲斐源氏とその時代:山梨県立博物館museum.pref.yamanashi.jp
- 願成寺(韮崎市)yamareki.com
- 願成寺(韮崎市)~武田信義の菩提寺:信義の墓~yoritomo-japan.com
- 願成寺/韮崎市観光協会nirasaki-kankou.jp