高台寺和久傳は、なぜ丹後の「野趣」を都の真ん中に持ち込めたのか?

炭の匂いが揺れる東山の門前で
京都、東山の高台寺へと続く「ねねの道」を歩くと、石畳の風情に溶け込むように一つの門が現れる。看板は控えめで、一見すると名士の邸宅か、あるいは由緒ある寺院の塔頭のようにも見える。ここが「高台寺和久傳」である。門をくぐり、打ち水がなされた路地を進んで建物の中へ入ると、まず鼻をくすぐるのは、洗練された京懐石の店には似つかわしくない、力強い「炭」の匂いだ。
案内された座敷の、その中央には囲炉裏が切られている。備長炭が真っ赤に熾り、その上で冬であれば大きな蟹が、春であれば山菜や川魚が、素材の形をそのままに炙られている。この光景に、多くの客は一瞬の戸惑いと、それ以上の高揚を覚えるだろう。なぜなら、ここは京都の料亭文化の極北とも言える場所でありながら、供されるのは都会的な技巧を凝らした料理ではなく、どこか「野」の匂いを感じさせる直截なもてなしだからだ。
通常、京都の老舗料亭といえば、何代も続く家系が「都の味」を守り抜く姿を想像する。しかし、和久傳のルーツは京都市内にはない。彼らの故郷は、京都府北部、日本海に面した丹後半島の峰山町である。1982年にこの高台寺の地に移転してくるまで、彼らは百年にわたり、地方の料理旅館として歩んできた。
だとすれば、なぜ彼らは、老舗がひしめく東山の中心部でこれほどまでの地位を築くことができたのだろうか。京都の伝統に染まるのではなく、あえて「田舎の野趣」を都のど真ん中に持ち込んだその戦略は、単なる逆張りだったのか。それとも、そこには地方産業の衰退という冷徹な現実を突破するための、緻密な計算と覚悟があったのだろうか。この「移転」という決断の裏側を紐解くと、私たちが抱く「京都の料亭」という固定観念が、静かに崩れ始める。
丹後ちりめんの繁栄と北丹後地震
和久傳の歴史の始まりは、明治3年(1870年)にまで遡る。初代・和久屋傳右ヱ門が、丹後峰山の地に興した料理旅館がその原点だ。屋号は、傳右ヱ門と妻・久の名から一字ずつ取り、「和らかに、久しく、傳える」という願いが込められたという。当時の峰山は、江戸時代から続く「丹後ちりめん」の産地として、空前の活況を呈していた。
丹後ちりめんは、京都の和装文化を支える重要な素材であり、峰山の町には日本全国から絹の買い付け商人が集まった。商談の場としての料理旅館は、町の経済の心臓部でもあったのだ。和久傳は、そうした商人たちを迎え入れる迎賓館のような役割を担い、当時は珍しかった木造三階建ての壮麗な宿を構えていた。しかし、その繁栄を揺るがす大きな試練が訪れる。昭和2年(1927年)の北丹後地震である。
この大地震により、和久傳の建物は全壊した。町全体が壊滅的な打撃を受ける中で、再建を主導したのが二代目であった。彼は驚くべきことに、自ら新しい旅館の設計を手がけたという。再建された建物には、当時としては最先端の自家発電設備や電気冷蔵庫が導入された。この二代目は、非常に「ハイカラ」な人物として知られており、地方の旅館でありながら、わざわざ京都から一流の料理人を招聘するなど、常に新しい価値を地方に持ち込もうと腐心した。
この時期に確立されたのが、今も和久傳の代名詞となっている「間人(たいざ)蟹」を囲炉裏で炙るというスタイルである。間人港で水揚げされる蟹は、その希少性と鮮度から、今でこそ超高級ブランドとして知られているが、当時はまだ地方の隠れた名産に過ぎなかった。それを、座敷の囲炉裏で客の目の前で焼くという、野趣と洗練が同居するもてなしに変えたのは、二代目の独創的な感性によるものだった。
しかし、高度経済成長期を経て、和装文化の衰退とともに丹後ちりめん産業は陰りを見せ始める。町の活気が失われれば、当然、商人たちの宿であった和久傳の経営も厳しくなる。1960年代から70年代にかけて、和久傳は大きな岐路に立たされていた。このまま丹後の地で、緩やかな衰退とともに消えていくのか。それとも、全く別の道を探るのか。その時、三代目当主の夫人として和久傳に嫁いでいた桑村綾(現会長)が、ある一念発起をする。それが、京都進出という、周囲からは無謀とも思われた大勝負だった。
中村外二が手がけた数寄屋建築
1982年、和久傳は丹後での旅館業を畳み、京都市内の高台寺へと拠点を移した。現在「高台寺和久傳」として知られるその場所は、もともと日本舞踊の五大流派の一つ、尾上流の家元の邸宅であった建物だ。この建物自体が、和久傳の都での成功を決定づける重要な要素となった。
この邸宅を手がけたのは、昭和の数寄屋建築を代表する名工・中村外二である。中村外二は、伊勢神宮の茶室やニューヨークのロックフェラー邸、京都迎賓館などの普請にも携わった伝説的な棟梁だ。彼が昭和20年代に手がけたこの建物は、過剰な装飾を削ぎ落としながらも、木材の質感を極限まで引き出した、静謐で凛とした空気を纏っていた。
桑村綾は、この建物と出会った瞬間に「ここだ」と直感したという。しかし、単に美しい建物を受け継ぐだけでは、京都の分厚い料亭文化の壁を崩すことはできない。和久傳が選択したのは、建物の持つ「数寄屋の洗練」と、丹後で培った「野の力」を衝突させることだった。具体的には、中村外二が精緻に作り上げた座敷の中に、あえて武骨な「囲炉裏」を持ち込んだのである。
京都の伝統的な料亭において、料理は調理場で完成され、仲居の手によって静かに運ばれてくるものだ。客の目の前で火を使い、煙を上げ、食材を焼くという行為は、当時の京都の常識からすれば、あまりに粗野で「下品」と映るリスクがあった。しかし、和久傳は引かなかった。彼らは、丹後の厳しい冬を象徴する間人蟹や、山から届く瑞々しい山菜を、最も美味しい状態で提供する手段として、囲炉裏の火を最優先した。
この「洗練された空間での、豪快な炭火焼き」というコントラストが、本物を知る京都の旦那衆や、文化人たちの心を捉えた。彼らにとって、既存の京料理はあまりに形式化し、驚きを欠いたものになりつつあった。そこに現れた、地方の力強さを失わない和久傳のスタイルは、新鮮な衝撃として受け入れられたのだ。高台寺和久傳は、単に場所を移した旅館ではなく、丹後の「風景」そのものを都の審美眼の中に再構成した、全く新しい装置となったのである。
この移転劇を支えたのは、丹後から共に京都へ出てきた料理人たちの存在も大きい。彼らは、慣れ親しんだ地元の食材をどうすれば都の客に響かせることができるか、日々試行錯誤を繰り返した。現在、高台寺和久傳の調理場を任されているのは、30代を中心とした若い世代だ。本店をあえて若手に任せ、新しい感性を常に取り入れるという仕組みも、この移転という破壊的創造から生まれた和久傳独自の文化と言えるだろう。
独立者を輩出する組織運営
和久傳の歴史を語る上で欠かせないのが、ここから巣立っていった料理人たちの存在だ。現在、京都だけでなく日本各地で予約の取れない名店として知られる「緒方」「木山」「京天神野口」「ごだん宮ざわ」といった店主たちは、いずれも和久傳での修業経験を持つ。料理界ではいつしか、和久傳は「和久傳学校」あるいは「日本料理界の東大」とまで称されるようになった。
なぜ、これほどまでに独立して成功する料理人を輩出できるのか。その理由は、和久傳が持つ「非・京都的」な構造にある。伝統的な京都の老舗料亭の多くは、家元制度に近い徒弟制を維持しており、技術の継承は極めて保守的だ。一方、和久傳は地方からの「参入者」であり、その組織運営は極めて合理的かつ革新的であった。
和久傳では、若い料理人にも早い段階から重要な仕事を任せる。例えば、本店である高台寺和久傳の料理長を30代の若手が務めるのは、他の老舗ではまず考えられない。また、和久傳は料亭だけでなく、デパートなどで展開する「おもたせ(手土産)」の事業や、カジュアルな飲食店など、多角的な経営を行っている。これにより、料理人は単に包丁を握るだけでなく、経営の視点や、客層に合わせた表現の多様性を学ぶことができるのだ。
また、和久傳の料理そのものが、決まった「型」をなぞるものではないことも大きい。彼らの料理の根底にあるのは「食材そのものの力をどう引き出すか」という一点であり、それは都の伝統的な味付けを再現することとは本質的に異なる。この「素材への向き合い方」を叩き込まれた料理人たちは、独立した際、自らの感性で新しい料理を構築する力を備えている。
他の老舗料亭との比較で言えば、例えば「菊乃井」や「瓢亭」といった店は、京都という土地が育んできた歴史や様式美を、完璧な形で体現することに重きを置く。それに対して和久傳は、京都という舞台を借りながらも、常に「外部」の視点を持ち込み続けている。この「外部性」こそが、硬直化しがちな伝統文化に風穴を開け、次世代のリーダーたちを育む土壌となった。
和久傳の成功は、京都の料亭というジャンルを、「血筋と伝統の継承」から「実力と感性の研鑽」へと構造転換させた点にある。彼らは京都の伝統に敬意を払いながらも、そこに依存しなかった。むしろ、自分たちが「よそ者」であることを自覚し、その違和感を最大の武器に変えたのである。その結果として生まれた「和久傳学校」という現象は、現代の日本料理が、単なる郷土料理の延長ではなく、クリエイティブな表現の場へと進化していく過程そのものを象徴している。
京丹後市久美浜での循環型プロジェクト
京都での地位を揺るぎないものにした和久傳だが、彼らの物語は都での成功で完結しない。2007年、和久傳は創業の地である京丹後市久美浜に、広大な「和久傳ノ森」を拓いた。これは、単なる食品工場の建設ではない。かつて衰退とともに離れざるを得なかった故郷に対して、自分たちが得た果実を還元し、新たな循環を生み出すための壮大なプロジェクトだ。
和久傳ノ森には、植物生態学者・宮脇昭の指導のもと、地域住民や従業員の手によって56種、約3万本の苗木が植えられた。かつては更地だった工業団地の一角が、十数年の歳月を経て、今では鬱蒼とした森へと姿を変えている。この森の中には、看板商品である「西湖(せいこ)」などを作る食品工房のほか、建築家・安藤忠雄の設計による「森の中の家 安野光雅館」や、地元の食材を供するレストランが点在している。
ここで注目したいのは、料亭で出た蟹の殻などを堆肥に変え、森の土を育て、そこで収穫された山椒や柿を再び料理に使うという、徹底した循環の仕組みだ。かつて、丹後ちりめんという単一の産業に依存して衰退した故郷に対し、和久傳は「食と自然」という、より根源的で持続可能な産業の形を提示してみせた。
料理人たちも、入社するとまずこの森で田植えや草取り、稲刈りを経験するという。自分たちが扱う食材が、どのような土で、どのような手間をかけて育まれるのか。その手触りを知ることは、高台寺の座敷で客に料理を出すことと、地続きの行為として捉えられている。この「土から皿まで」を一貫して見つめる姿勢が、和久傳の料理に、他の追随を許さない説得力を与えている。
現在の和久傳は、料亭という枠組みを超え、一つの「文化圏」を形成している。京都駅ビル内の「京都和久傳」や、よりカジュアルな「はしたて」など、店舗の形態は多岐にわたるが、その全ての中心には、常に丹後の風土が流れている。彼らにとって、高台寺の店は都における「出張所」であり、その魂の拠り所は、今も変わらず日本海の風が吹く丹後の森にある。
旅行者が高台寺和久傳を訪れ、あの炭の匂いに包まれるとき、彼らが味わっているのは単なる贅沢な食事ではない。それは、一度は失われかけた地方の記憶が、執念とも言える情熱によって都の真ん中で再生され、さらにそのエネルギーが再び故郷の森へと還っていくという、百五十年にわたる壮大な移動と循環の物語なのだ。
移植された風景が問いかけるもの
高台寺和久傳の歴史を辿ることは、日本の地方が抱える「衰退と再生」のドラマを追体験することに他ならない。彼らが丹後から京都へ移転した1982年という年は、地方の過疎化が深刻な社会問題となり始めていた時期でもあった。その中で、彼らが選んだのは、地方のアイデンティティを捨てて都会に同化することではなく、地方の「野性」を、都会が最も切望する「洗練」へと昇華させることだった。
私たちが和久傳の料理に感じる「新しさ」の正体は、実はこの「移植された風景」の違和感にある。京都という、完成され尽くした美意識の空間に、丹後の厳しい自然や、剥き出しの火、そして土の匂いを持ち込む. その衝突から生じる火花こそが、和久傳を他にはない存在たらしめている。彼らは京都の伝統を模倣したのではなく、京都というキャンバスを使って、自分たちのルーツをより鮮明に描き出したのだ。
「当たり前だと思っていたものが、実は極めて稀有なものである」という気づきは、旅の醍醐味の一つだ。和久傳にとってのそれは、丹後の間人蟹であり、囲炉裏の火であり、そして何より「故郷を思う心」であった。それらは地方にいた頃には日常の風景に過ぎなかったが、都という異境に置かれたことで、誰もが憧れる至高の価値へと変貌を遂げた。
翻って、現代の私たちはどうだろうか。グローバル化が進み、どこへ行っても同じようなサービスや味が提供される世界で、私たちは自らの「足元」にある固有の価値を見落度はいないだろうか。和久傳が示したのは、自らのルーツを深く掘り下げ、それを信じ抜くことが、結果として最も普遍的で強力な価値を生むという事実だ。
高台寺和久傳を後にし、再びねねの道の石畳に立つとき、景色は少し違って見える。目の前の古い町並みは、単に保存された過去の遺産ではなく、外部からの新しい血や、地方からの決死の参入を受け入れながら、新陳代謝を繰り返してきた「戦いの場」であったことに気づかされる。
丹後の森から運ばれた一本の苗木が、都の石垣の間で大樹へと育った。その事実は、かつて丹後ちりめんの商談で賑わった料理旅館が、1982年に高台寺へと場所を移し、今も囲炉裏の火を絶やさずに客を迎えているという歩みとともに、私たちがこれからどこへ向かうべきかを静かに示唆している。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
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