2026年5月19日
錦帯橋の錦川での鵜飼はいつから?篝火と鵜舟の夜を追う
岩国・錦帯橋の錦川で「う飼い」は行われているのか。江戸時代初期に藩主が奨励した伝統漁法は、幾多の危機を乗り越え、現代も観光資源として息づく。長良川鵜飼との比較や、現代に続く鮎と人の関わりにも触れる。
錦川の夜に揺れる篝火を追って
岩国、錦帯橋のたもとに立つと、その五連のアーチが夕暮れの空に静かに浮かび上がる。木造の優美な橋と、その下を流れる錦川。この風景の中に、かつて川と共生した人々の営みを見出すことは難しいことではない。鮎を愛する者にとって、清流と名橋の組み合わせは、自然と「う飼い」の存在を連想させるだろう。果たして、この錦帯橋の地で、あの幻想的な漁法は今も続けられているのか。その問いを胸に、錦川のほとりを歩いた。
江戸の藩主が愛した川漁の伝統
錦帯橋が架かる錦川でのう飼いは、その歴史を江戸時代初期にまで遡ることができる。岩国藩の初代藩主である吉川広家が、清流錦川で獲れる鮎を好み、その漁法としてう飼いを奨励したのが始まりとされる。広家は、現在の岐阜県にあたる美濃国から鵜匠を招き、技術を伝習させたという記録が残っている。これは、単なる食料確保のためだけでなく、藩主の娯楽や、鮎を将軍家や朝廷に献上するための特別な漁として位置づけられていたことを示唆している。
その後、岩国藩では歴代の藩主がう飼いを保護し、その伝統は連綿と受け継がれていく。特に、錦帯橋が架けられた1673年以降、その優美な橋を背景に行われるう飼いは、岩国の象徴的な風景の一つとなっていった。藩政時代を通じて、う飼いは「御料鵜飼」として特別なものとされ、一般の漁師が行うことは許されなかった。これは、鮎漁の資源管理という側面もあっただろうが、むしろ、その希少性と格式を保つための措置であったと考えられる。
明治維新後、藩の庇護を失ったう飼いは一時衰退の危機に瀕する。しかし、地元の有志や住民の努力によってその伝統は守られ、観光資源としての価値が見出されていく。昭和に入ると、錦帯橋の風景と一体となったう飼いは、再び脚光を浴びるようになる。特に、1950年に錦帯橋が台風で流失した後の再建期には、地域の復興の象徴としても位置づけられた。錦帯橋の歴史がそうであるように、錦川のう飼いもまた、幾度かの危機を乗り越えながら、その姿を変えずに現代へと繋がっているのだ。
篝火と鵜舟が織りなす錦川の夜
錦帯橋のたもとで行われるう飼いは、錦川鵜飼と呼ばれ、毎年6月1日から9月10日まで実施される。日没後、鵜舟が錦川の中央に進み、船首に掲げられた篝火が川面を照らす。この篝火の明かりに誘われて集まる鮎を、熟練の鵜匠が巧みに操る鵜が捕らえるのだ。
