2026/7/2
山深い但馬の要衝・養父市、街道と鉱山が育んだ経済圏の変遷

兵庫県の養父の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
兵庫県養父市は、古代の交通路から中世の武家支配、近世の街道・舟運、近代の鉱業と、多様な歴史を刻んできた。明延鉱山の栄枯盛衰や農業改革の取り組みを通して、山間地域の持続可能な未来を探る。
山懐に抱かれた但馬の要衝
兵庫県北部の但馬地域、そのほぼ中央に養父市は位置する。京阪神から車で2時間圏内というアクセスの良さを持ちながら、市域の東部には円山川が流れ、西部には氷ノ山や鉢伏山といった県下最高峰の山々が連なる。この地を訪れると、山と川が織りなす地形が、単なる自然の風景にとどまらず、人々の営みと深く結びついてきた歴史の重層性を感じさせる。なぜこの山深い地域が、古くから但馬の要衝として多様な歴史を刻んできたのか。その問いは、豊かな自然と、それに寄り添いながら生きてきた人々の足跡を辿ることで、少しずつ輪郭を結んでゆくのだ。
古代から中世、変転する支配
養父の歴史は古く、縄文時代の土器や石器、洞穴祭祀跡が発見されており、古墳時代には大規模な古墳群が築かれた。大薮古墳群に見られる直径35メートルを超える円墳や方墳は、当時の但馬国における有力な支配者の存在を示唆している。奈良・平安時代には、山陰道が整備され、養父郡内には郡部駅(ぐんべえき)が置かれ、交通の要衝としての役割を担った。
平安時代末期から中世にかけて、この地は但馬国の守護であった山名氏の支配下に置かれるが、実際には八木氏や太田垣氏といった有力な国人たちが地域の実権を握っていた。八木氏は養父郡朝倉郷に配された日下部氏一族を祖とし、八木城を拠点に勢力を拡大したという。室町時代中期以降、八木氏は但馬守護山名氏に従い「山名四天王」の一人としてその地位を確立するが、戦国時代に入ると半独立的な動きを見せるようになる。
戦国時代末期、織田信長の但馬侵攻が始まると、この地域は大きな転換点を迎える。信長は生野銀山の存在を重視し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を但馬へ派遣した。天正5年(1577年)以降、秀吉は播磨・但馬方面での軍事行動を本格化させ、弟の羽柴秀長が但馬平定に重要な役割を担った。八木城主であった八木豊信は当初、毛利氏と織田氏の間で曖昧な態度を取っていたが、最終的には羽柴方に降伏したとされる。天正13年(1585年)には別所重棟が八木城主として入封するものの、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で西軍に与したため改易となり、八木城は廃城となった。これにより、養父における中世以来の武家支配は終焉を迎えることになる。
街道と鉱山が育んだ経済圏
江戸時代に入ると、養父の地は新たな経済的発展を遂げる。円山川と八木川が合流する盆地に位置する八鹿町八鹿は、山陰街道の宿場町として、また舟運の拠点として栄えた。特に「八鹿舟」や「宿南舟」と呼ばれる舟運は、日本海の海産物や塩を内陸部に運び、養父に集積された炭や板などの特産品が他地域へ送られる物流の要衝となった。元禄年間(1688-1704年)以降は年に2回定期市が立ち、多くの人や物資が行き交い、八鹿の町は活況を呈したという。
養父市場の地域もまた、山陰街道の宿場町として栄え、江戸時代からの陣屋屋敷が現存している。かつては出石藩への分岐点に位置し、大名の参勤交代もこの道を通ったとされる。この宿場町では、豊富な水量と養蚕が盛んだったことから鯉の養殖も行われ、「鯉の里」として知られるようになった。洗いや鯉こくといった郷土料理として供され、後に観賞用の鯉の溝飼いも盛んに行われたという。
一方、大屋町明延地域には、古くから明延鉱山が存在した。伝承によれば、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏鋳造に明延の銅が献上されたとされ、大同4年(809年)には開坑の記録もある。江戸時代には銀山として栄え、安土桃山時代には家屋が急増して「千軒町」と呼ばれる賑わいを見せた時期もあった。豊臣秀吉が明延を訪れたという伝承も残っている。
明治期に入ると、明延鉱山は近代化の波に乗る。明治42年(1909年)に錫鉱脈が発見されて以降、日本一の錫産出量を誇る鉱山へと発展した。採掘された鉱石は、約6km離れた朝来市神子畑の選鉱場まで「明神電車」、通称「一円電車」と呼ばれる鉄道で輸送された。この明神電車が通った明神隧道(第三隧道)は、昭和4年(1929年)に完成した全長3,937mのトンネルであり、但馬地域で最も長いトンネルとして現在もその存在を残している。鉱山は地域に雇用の機会をもたらし、最盛期には人口が4,000人を超える鉱山町を形成した。
鉱山の盛衰と地域の変容
養父の歴史を特徴づける要素として、鉱山の盛衰が挙げられる。明延鉱山は、かつて日本一のスズ鉱山として栄えたが、その運命は世界の金属市場と日本の近代化政策に翻弄されてきた。明治維新後、明治政府は生野鉱山を皮切りに、神子畑、明延、中瀬といった但馬の鉱山を官営とし、国家プロジェクトとして開発を進めた。フランス人技師を招聘し、最新の採掘・精錬技術が導入され、日本の鉱業近代化の模範となったのである。
しかし、その発展は永遠ではなかった。昭和62年(1987年)、円高と金属価格の下落により、明延鉱山は閉山を余儀なくされる。最盛期には4,000人以上が暮らした鉱山町も、閉山後は急速に人口が減少し、現在では往時の面影を残しつつも、かつての賑わいは失われた。この鉱山の盛衰は、養父市だけでなく、日本の多くの鉱山町が経験した共通の歴史でもある。たとえば、石見銀山(島根県)は江戸時代には世界有数の銀山として栄えたが、明治以降は産出量が減少し、大正時代には閉山に至った。また、足尾銅山(栃木県)も近代化を牽引する一大鉱山であったが、鉱毒問題や資源枯渇により閉山している。これらの事例に共通するのは、鉱物資源に依存した地域経済が、国際情勢や技術革新、環境問題など、外部要因によって大きく左右される脆弱性である。
一方で、養父の農業もまた、その地形的制約の中で独自の発展を遂げてきた。山間部が多く、平地に乏しい中山間地域に位置するため、大規模農業には不向きな条件がある。しかし、この地域では但馬牛の飼育が古くから盛んであった。江戸時代には但馬牛の取引の拠点となり、各地から博労が集まる牛市が開かれ、町は賑わいをみせたという。また、円山川の清流と寒暖差の大きい気候は、良質な米や朝倉山椒、轟大根といった特産品を生み出してきた。特に朝倉山椒は、粒が大きく柔らかく、フルーティーな香りが特徴で、養父市発祥とされる。これらの地域特有の農産物は、近代化の波の中で大量生産・大量消費の経済とは異なる形で、地域の食文化と経済を支えてきたのである。
現代に息づく多面的な生業
平成16年(2004年)に八鹿町、養父町、大屋町、関宮町の4町が合併して誕生した養父市は、その歴史が現代の風景に色濃く反映されている。かつて舟運で栄えた八鹿の町並みには、今も「うだつ」のある古い町家が多く残る。「うだつ」は延焼防止の目的から始まったとされるが、次第に家の格式を示す装飾となり、「うだつがあがらぬ」という言葉の語源にもなった。八鹿に残るうだつは、かつての八鹿商人たちの誇りを物語るものと言えるだろう。
閉山した明延鉱山もまた、近代化産業遺産としてその姿を残している。坑道の一部は「明延探検坑道」として見学が可能であり、かつて鉱石と人々を運んだ「一円電車」も保存・運行されている。これらは、日本の近代化を支えた鉱業の歴史を肌で感じられる貴重な場所となっている。
現代の養父市が直面する大きな課題の一つは、少子高齢化と人口減少である。耕地面積は過去60年間で半減し、農業従事者の高齢化も進んでいる。しかし、養父市はこの課題に対し、平成26年(2014年)に国家戦略特区(農業特区)の指定を受け、新たな挑戦を始めた。企業による農地の取得を可能にする特例や、農業生産法人の設立要件緩和など、これまでの規制を緩和することで、企業の農業参入を促進し、農業の担い手を増やそうとしている。これにより、中山間地域の農業の振興と6次産業化を推進し、地域経済の活性化を図ることを目指しているのだ。
例えば、能座地区では企業の農地取得特例を活用した農業参入が進められ、その風景は「つなぐ棚田遺産」にも認定されている。また、朝倉山椒のように、地域の特産品を活かした加工品の開発や輸出販売も展開されている。これらの取り組みは、単に経済的な側面だけでなく、農業がコミュニティや伝統文化の源であるという認識に基づいている。農地が荒廃することは、美しい日本の原風景だけでなく、先人たちが培ってきた遺産そのものの喪失につながるという危機感が、養父市の挑戦の背景にある。
山里の歴史が問いかけるもの
養父市の歴史をたどると、山深い但馬の地が、決して孤立した場所ではなく、常に外部との交流の中でその姿を変えてきたことが見えてくる。古代の交通路、中世の武家社会、近世の街道と舟運、そして近代の鉱業といった様々な要素が、この地の歴史を形作ってきた。特に、明延鉱山の栄枯盛衰は、グローバルな経済変動が地方の山間部にまで及ぼす影響を如実に示している。日本一の錫産出量を誇った鉱山が、世界経済の波に飲まれて閉山に至った事実は、地域経済の基盤が単一産業に依存することの危うさを物語る。
しかし、養父の歴史は、ただ外部の力に翻弄されてきただけではない。山間部という地理的条件がもたらす制約の中で、人々は但馬牛の飼育や朝倉山椒の栽培といった独自の農業を発展させてきた。宿場町として栄えた八鹿や養父市場の町並みに残る「うだつ」や「鯉の溝飼い」は、当時の人々の生活の工夫と、地域固有の文化が育まれてきた証である。
現代において、養父市が国家戦略特区として農業改革に取り組む姿勢は、過去の歴史を踏まえた上での新たな挑戦と捉えられる。人口減少や高齢化という共通の課題に直面する中山間地域が、いかにして持続可能な社会を築くかという問いに対し、養父市は企業参入の促進や6次産業化といった具体的な方策で答えようとしている。これは、かつて鉱山が日本の近代化を支えたように、現代の養父が日本の農業の未来を背負う可能性を示唆している。山里の歴史が教えてくれるのは、いかなる時代においても、その土地固有の条件と、そこに暮らす人々の選択が、未来を形作るという普遍的な事実である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 【養父市の紹介】 やぶぐらし ~U・Iターン総合サイト~ 国家戦略特区指定 中山間農業改革特区 養父市で新しい生活、始めてみませんか?yabugurashi.jp
- 養父市の概要 / やぶぐらし~U・Iターン総合サイト~yabugurashi.jp
- 養父市の地勢と歴史/養父市city.yabu.hyogo.jp
- 養父市について|養父市6次産業化支援センターyabu-6jika-sc.jp
- 養父市 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 「但馬国」の読み方と位置は? 豊臣兄弟が関わった戦国の舞台を解説 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイトserai.jp
- 養父市・歴史・観光・見所hyoutabi.com
- 八鹿宿(山陰街道:兵庫県養父市)hyoutabi.com