2026/6/2
つくば市はどのようにして研究都市になったのか?

つくば市はどのようにして研究都市になったのか?経緯を知りたい。
キュリオす
高度経済成長期の東京過密緩和と科学技術振興のため、国家プロジェクトとして計画されたつくば研究学園都市。その経緯と、インフラ整備、つくば万博やTX開業による変化、他の学術都市との比較、そして現在の課題について辿る。
つくばの地に降り立つと、広々とした並木道と、その奥に点在するモダンな建物群が目に飛び込んでくる。都市の喧騒とは一線を画す、どこか整然とした風景だ。ここは単なる地方都市ではない。世界有数の研究機関が集積し、日々新たな知が生まれる「研究都市」としての顔を持つ。なぜ、東京から北東へ約50キロメートル離れたこの平坦な土地が、日本の科学技術の心臓部となったのか。その成り立ちを辿ると、戦後の国家的な課題解決と未来への明確な意志が見えてくる。
つくばが研究都市となる構想は、戦後の日本が抱えていた二つの大きな課題に端を発している。一つは、高度経済成長期における首都東京への人口・機能の一極集中だ。1950年代から東京の人口は急増し、1962年には1000万人を超えていた。この過密状態を緩和するため、機能上必ずしも東京に置く必要のない官庁や研究機関を地方へ移転させる検討が始まった。
もう一つは、日本の科学技術の振興と高等教育の充実である。 当時、国立の試験研究機関の多くは老朽化した施設や狭隘な敷地にあり、研究環境の改善が急務だった。 科学技術会議は1962年の答申で、「過大都市を離れた地域に、国立試験研究機関を集中的に移転させる必要がある」と提言した。 これらの背景から、新たな「研究学園都市」の建設が国家的なプロジェクトとして浮上したのである。
1963年9月、政府は富士山麓、赤城山麓、那須高原、筑波の四つの候補地の中から、東京からの距離、霞ヶ浦からの水源確保、安定した地盤という条件を満たす筑波地区を新都市の建設地とすることを閣議了解した。 そして、この研究学園都市の中核施設の一つとして、東京教育大学(現在の筑波大学の前身)の移転が構想された。 東京教育大学はキャンパスが分散し、敷地も狭かったため、自力での移転を検討していたが困難な状況にあった。 この国家プロジェクトへの参画は、大学にとって抜本的な改革と発展の機会となったのだ。
1970年5月には「筑波研究学園都市建設法」が制定・公布され、都市建設の法的基盤が整った。 この法律は、試験研究と教育に適した研究学園都市を建設し、首都圏の過度な人口集中を緩和することを目的としていた。 建設は日本住宅公団(現・都市再生機構)が用地買収と造成を担当し、1980年3月には当初計画された43の研究教育機関の移転が完了し、「概成」を迎えた。
つくばが研究都市として形成された背景には、明確な都市計画と、それを支えるインフラ整備が不可欠だった。初期のマスタープランでは、研究施設と大学を都市の中核に据え、それらを取り囲むように住宅や商業施設を配置する「分散型市街地」の骨格が形成された。 約2,700ヘクタールの「研究学園地区」には、国の研究・教育施設、公務員宿舎を含む住宅、商業施設などが計画的に配置されたのである。
しかし、この計画は当初から順風満帆ではなかった。 特に、移転初期にはインフラの整備が研究機関や公務員宿舎の建設に先行し、生活利便施設が後手に回るという課題があった。 例えば、日常の食料品店やゴミ処理体制の整備が遅れ、「陸の孤島」と揶揄されることもあったという。 研究者やその家族が新しい環境に順応するには時間が必要だった。
転機の一つは、1985年に開催された「国際科学技術博覧会(つくば万博)」である。 この万博は「つくば」の名を世界に広める契機となり、常磐自動車道が東京と直結したことで、外部からのアクセスが大幅に改善された。 さらに、2005年にはつくばエクスプレス(TX)が開業し、秋葉原とつくばを最速45分で結ぶことで、東京からの交通利便性は飛躍的に向上した。 TXの開業は、沿線地域の人口増加と宅地開発を促進し、つくばを首都圏のベッドタウンとしても機能させる大きな変化をもたらした。 このように、交通網の整備は、研究機関の集積効果を最大限に引き出す上で重要な要素だったと言える。
つくば研究学園都市の成り立ちは、他の学術都市と比較することで、その独自性がより鮮明になる。例えば、アメリカの「シリコンバレー」は、スタンフォード大学を核としつつも、企業やベンチャーの有機的な集積と成長によって形成された。政府主導のトップダウン型開発というよりは、ボトムアップのイノベーションが連鎖した結果と言えるだろう。
一方、日本国内の他の計画都市としては「関西文化学術研究都市」(けいはんな学研都市)が挙げられる。 けいはんな学研都市は、つくばよりも約15年遅れて構想がスタートし、京都府、大阪府、奈良県の三府県にまたがる広域都市として整備が進められた。 つくばが国の試験研究機関の集中的な移転を主眼とした「官主導型」であったのに対し、けいはんなは学界・財界発意型の「民間活力主導型」の性格が強い。 国の機関の立地は国立国会図書館関西館を除きほとんどなく、大学や民間研究施設が分散して配置されているのが特徴だ。
この対比から見えてくるのは、つくばが「国家プロジェクト」としての色合いを強く持ち、特定の目的(東京の過密緩和と科学技術振興)のために、広大な土地に大規模な研究機関を計画的に集約した点である。 ソビエト連邦のアカデムゴロドクを参考に計画された時期もあったとされ、その集中度合いは、都市構造にも影響を与えた。 けいはんなが多様な主体によるクラスター型開発を進める中で、つくばは一元的なマスタープランに基づき、研究学園地区という明確な中心性を持つ都市構造を形成したのである。
「筑波研究学園都市」として半世紀以上の時が流れ、つくば市は現在、新たな局面を迎えている。かつて「陸の孤島」と揶揄された交通アクセスは、つくばエクスプレスや圏央道の整備により格段に向上し、東京への通勤圏としても認識されるようになった。 これにより、沿線ではマンション建設が進み、人口も増加している。
しかし、その一方で、初期の計画からの変化に伴う課題も顕在化している。国家公務員宿舎の削減計画は、かつて宿舎が担っていたセンター地区の人流を減少させ、中心部の衰退に繋がっているとの指摘もある。 また、研究機関の施設の老朽化対策も喫緊の課題であり、国の予算上の特別枠がない中で、維持・発展のための財源確保が求められている。
現代のつくばは、約300の研究機関や企業が集積し、約2万人の研究者が活動する「我が国最大のサイエンスシティ」へと成長した。 産業技術総合研究所や筑波宇宙センター、筑波大学などの国や独立行政法人の研究機関に加え、多くの民間研究所も立地している。 2011年には「つくば国際戦略総合特区」に指定され、2020年には東京都とともに「スタートアップ・エコシステム・グローバル拠点都市」に採択されるなど、新たなイノベーション創出への取り組みも進む。
つくばが研究都市として歩んできた道のりは、国家による壮大な計画が、いかにして現実の都市として息づいてきたかを示している。東京の過密緩和と科学技術振興という明確な目的のもと、広大な土地に研究機関と大学が計画的に配置され、インフラが整備されてきた。その結果、世界に類を見ない「サイエンスシティ」が誕生したのである。
しかし、その過程は常に理想通りに進んだわけではない。初期の生活利便施設の不足や、分散型都市構造ゆえの自動車依存、そして現在の施設老朽化や中心市街地の活性化といった課題は、計画都市が直面する普遍的な問いを投げかける。都市は一度作れば終わりではなく、時代とともに変化し、柔軟に対応していく必要がある。 つくばの事例は、トップダウンの強力なビジョンと、そこに暮らす人々の生活、そして経済的な現実との間で、常に調整が求められる都市づくりの本質を静かに示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。