2026/6/2
飯名神社、巨石信仰と弁財天が息づく筑波の古社

つくばの飯名神社について詳しく教えて欲しい。古い神社だったはず。
キュリオす
『常陸国風土記』に記された飯名神社は、巨石信仰を源流とし、後に弁財天信仰と結びついた。式内社ではないが、地域に根差した信仰が現代まで受け継がれている。
飯名神社の創建年代は不詳とされているが、その歴史は極めて古い。和銅から養老年間(708年〜724年)に編纂された『常陸国風土記』には、「其ノ里ノ西ニ飯名ノ社。此即筑波ノ岳ニ所有飯名ノ神ノ別属也。」という記述が見られる。これは、この地域に「飯名ノ社」が存在し、それが筑波山に宿る飯名神の「別属」、つまり分社のような存在であったことを示している。この記録から、飯名神社は風土記が編纂される以前から鎮座していたと推定され、筑波山域では最も古い神社のひとつとも言われているのだ。
この神社の信仰の根幹にあるのは、社殿の背後に鎮座する巨大な磐座、すなわち巨石信仰である。特に、大きな割れ目を持つ「女石」と呼ばれる岩は、女性器を象徴するものとして、古くから安産や子孫繁栄、生産の神として崇められてきた。その上には「男石」とされる立石も配され、陰陽の対比によって、より明確に生命の生成に関わる信仰が形成されていたことが窺える。このような自然物に対する直接的な信仰は、神社の形式が整う以前の、より原始的な段階からの連続性を示している。
中世に入ると、飯名神社は「飯奈野神社」や「稲野宮」とも呼ばれるようになった。神社の由緒を記した「飯名神社由來記」や、神官である長戸家に伝わる古文書には、康正2年(1456年)に既に社殿が築かれ、保食神が勧請された記録が見られる。また、筑波山中腹で発見された鰐口には、文明11年(1479年)の銘があり、「常陸国北条郡臼井村稲野宮鰐口壇那衆」と刻まれていることから、この時期には「稲野宮」として地域の人々の信仰を集めていたことがわかる。
江戸時代に入ると、この巨石信仰は新たな展開を見せる。万治3年(1660年)には、弁財天(市杵嶋姫命)が造立され、以降、弁財天信仰が強く結びつくようになるのだ。弁財天は水神としての性格も持ち、水辺に祀られることが多い神である。飯名神社の社地の西側には、筑波山双峰の間を源流とする男女の川が流れ、清流が近くにあることから、「銭洗」の場としても利用されてきた。こうした水との関連性も、弁財天との習合を促した一因と考えられる。この習合によって、神社は「稲野の弁天様」「飯名の弁天様」「臼井の弁天様」という愛称で地域に深く浸透し、現代に至るまでその呼び名で親しまれている。
明治以降、近代社格制度においては社格を持たない「無格社」とされたが、地域における信仰の中心としての役割は失われなかった。昭和27年(1952年)には宗教法人を設立し、平成24年(2012年)には東日本大震災で被災した鳥居や石段などの復興事業が竣工するなど、時代ごとの変遷を経て今日に至っている。その歴史は、国家の枠組みを超えた、より古層の信仰の継続と変容の物語を語る。
飯名神社が『常陸国風土記』に記されながらも、『延喜式神名帳』にその名が見えない背景には、古代の国家による神社管理体制と、地域固有の信仰形態との関係性がある。
『延喜式神名帳』は延長5年(927年)に編纂された、当時の朝廷が幣帛(神への供え物)を奉る「官社」を国郡別に列挙したもので、国家公認の神社リストであった。このリストに載る神社は「式内社」と呼ばれ、国家祭祀体系に組み込まれたことを意味する。一方、飯名神社は「式外社」であり、この国家的な枠組みには入らなかった。しかし、その存在は『常陸国風土記』という、より早期の地方行政文書に明記されており、その古さは疑いようがない。
この「式外」という位置づけの理由はいくつか考えられる。まず、飯名神社の信仰の中心が、社殿や祭神というよりも、むしろ背後の巨大な「女石」に代表される磐座信仰であったことが大きいだろう。古代の信仰は、特定の神を祀る社殿を持つ形式よりも、山や岩、滝といった自然物そのものを神の依り代とする形態が一般的だった。飯名神社の場合、この巨石に対する信仰が極めて強固であったため、朝廷が整備しようとした神社の形式や祭祀体系に必ずしも合致しなかった可能性がある。
また、『常陸国風土記』が飯名神社を「筑波ノ岳ニ所有飯名ノ神ノ別属也」と記している点も重要である。これは、筑波山本体の信仰とは異なる、あるいはそこから派生した、独自の性格を持つ信仰であったことを示唆している。筑波山自体は、男体山と女体山の二峰を神体とする山岳信仰の聖地であり、後に筑波山神社として延喜式内社に列せられることになる。しかし、飯名神社の信仰は、筑波山全体への崇拝とは別に、特定の場所、特定の巨石に宿る神への、より限定的で土着的な信仰であったのかもしれない。
さらに、古代の国家が神社を管理する目的には、地域の統治や豊かな収穫への祈願といった側面があった。しかし、飯名神社の信仰が、主に安産や子孫繁栄といった、より個人的・集落的な願いに特化していたとすれば、国家的な祭祀の対象としては優先順位が低かった可能性も考えられる。つまり、その信仰の性質が、国家が求める「公共性」とは異なる「私的な領域」に属すると見なされたのかもしれない。
加えて、社格制度が確立される以前から、地域の人々によって自律的に維持されてきたという経緯も無視できない。中央集権的な国家の目が届く以前から、その土地の人々にとって不可欠な存在であったため、後になって外部からの公認を必要としなかった、あるいは望まなかったという見方もできるだろう。飯名神社は、国家の視点からではなく、あくまで地域社会の視点からその存在意義を保ち続けたのである。
筑波山周辺には、飯名神社のように古代からの巨石信仰や自然崇拝を色濃く残す神社が他にも見られる。例えば、同じく筑波山麓に位置する月水石神社も、巨石を御神体とする古社である。月水石神社のご祭神は磐長姫命とされ、これもまた筑波山の女神信仰と繋がる。このように、筑波山とその周辺には、山そのものや特定の岩石、水に対する信仰が古くから存在し、それが多様な形で神社として顕在化してきた歴史がある。
一般的に知られる延喜式内社、例えば筑波山神社と比較すると、飯名神社の特異性がより明確になる。筑波山神社は、筑波男大神(伊弉諾尊)と筑波女大神(伊弉冉尊)を祭神とし、男体山と女体山の両山頂に本殿が鎮座する、まさに「神体山」信仰の代表的な神社である。江戸時代には徳川将軍家の庇護を受け、壮麗な社殿や御神橋が整備されるなど、国家的な権威と結びついた歴史を持つ。その規模や格式は飯名神社とは大きく異なる。
しかし、両社の信仰の根源を辿れば、筑波山という「神の山」に対する畏敬の念に行き着く点で共通する。筑波山神社が山全体を神体とし、より広範な地域や国家的な信仰を集めたのに対し、飯名神社は山の「別属」として、特定の場所、特定の巨石に宿る神、そして具体的な生命の生成や繁栄といった、より生活に密着した願いに応える形で発展してきたと言える。これは、古代日本の信仰が、中央集権的な神話体系と並行して、地域ごとの多様な自然観や生活観に基づいて形成されていたことを示している。
また、飯名神社に弁財天が合祀された背景には、巨石信仰が持つ「女性」や「生産」のイメージと、弁財天が持つ「水」や「豊穣」の属性との親和性があったと考えられる。弁財天は仏教の神であるが、日本では古くから水の神や芸能の神、財福の神として信仰され、しばしば多産や豊穣とも結びつけられてきた。飯名神社の「女石」が象徴する生産力と、男女の川の清流がもたらす恵みが、弁財天という仏教由来の女神と結びつくことで、より複合的で地域に根差した信仰が形成されたのだ。これは、神仏習合という日本独自の信仰形態が、単なる融和ではなく、地域固有の信仰と外来の信仰が互いに補完し合い、新たな意味を創出する過程でもあったことを示唆している。
現在の飯名神社は、つくば市臼井の集落から急勾配の舗装路を登った先に鎮座している。参道脇には、古びた石の鳥居が立ち、その先には石段が続く。境内は決して広大ではないが、清らかな空気が漂い、背後には注連縄を巻かれた巨石群が威容を誇る。この巨石こそが、神社の信仰の源であり、現代においてもその存在感を強く放っている。拝殿は木造平屋建てで、その裏に本殿が覆屋の中に納められているが、格子の隙間からは精緻な彫刻を垣間見ることができる。
飯名神社の現代における最も顕著な姿は、毎年旧暦正月の初巳の日に行われる「初巳祭」だろう。この日、普段は静かな山間の神社は一変し、多くの参拝者と露店で賑わう。弁財天信仰にちなんだ縁起物のだるま市が立ち、日用雑貨や地域の特産品を扱う露店が参道を埋め尽くす。かつては餅まきも盛大に行われていたが、近年は社会情勢に合わせてパック詰めした餅が配られるなど、形を変えながらも地域の伝統は受け継がれている。
この初巳祭は、飯名神社が国家的な社格を持たない「無格社」でありながらも、地域の人々にとってどれほど重要な存在であるかを物語っている。遠方からも参拝者が訪れ、家内安全や商売繁盛、そして弁財天のご利益とされる金運や縁結びを願う。御朱印も、この初巳祭の時のみ授与されるという希少性があり、それがまた参拝者の足を向かわせる理由の一つとなっている。
境内には、男女の川から引き込まれた清流があり、「銭洗弁天」として小銭を清める参拝者の姿も見られる。これは、弁財天が財福の神としての性格を持つことと、水神としての側面が結びついた信仰の現れである。2011年の東日本大震災では鳥居の一部が損壊する被害もあったが、その後の復興事業によって整備され、地域の信仰拠点としてその姿を保ち続けている。
狭い参道や駐車場の課題はあるものの、飯名神社は今も「飯名の弁天様」として地域の人々に親しまれ、その信仰は脈々と受け継がれている。その姿は、古代から続く自然崇拝と、時代の変遷とともに取り入れられた新たな信仰が、地域社会の中でどのように生き続けてきたかを示す具体的な風景である。
つくばの飯名神社を訪れ、その歴史と現在の姿に触れると、当初抱いた「延喜式に載る古い神社」という先入観が静かに揺さぶられる。この神社が『延喜式神名帳』に名を連ねなかったという事実は、決してその古さや重要性を否定するものではない。むしろ、国家の公式な宗教政策の枠組みに回収されなかったからこそ、より古層の、土着的な信仰形態がそのままの形で維持され、現代に伝えられてきたという見方ができるだろう。
『常陸国風土記』に記された「飯名ノ社」は、中央集権的な国家が形成される以前の、人々と自然が直接的に結びついていた時代の信仰の姿を鮮やかに映し出す。巨石を神の依り代とし、生命の生成と繁栄を願うその信仰は、特定の神話体系や祭祀儀礼に縛られることなく、人々の暮らしに根ざした切実な願いから生まれたものだ。そして、後世に保食神や弁財天といった神々が習合していく過程は、外来の信仰が土着の信仰と出会い、互いに影響を与えながら、新たな意味と役割を獲得していく日本の宗教史の縮図とも言える。
飯名神社は、国家的な公認や格式よりも、地域の人々の生活と深く結びついた信仰の力が、いかに長く、そして力強く継承され得るかを示している。毎年賑わう初巳祭は、単なる伝統行事ではなく、古代から続く巨石への畏敬と、弁財天への願いが現代のコミュニティの中で生き生きと息づいている証左である。つくばの山懐に佇むこの社は、私たちに、歴史が必ずしも文字や記録、あるいは中央の視点だけで語られるものではないこと、そして、足元の土地に宿る「余白」にこそ、見過ごされがちな豊かな物語が隠されていることを静かに教えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。