2026/6/13
なぜ北海道の古墳は平安時代に築かれたのか?

北海道の歴史について詳しく教えて欲しい。古代から平安時代まで。
キュリオす
北海道の古代史は、本州の歴史区分をそのまま当てはめると「遅れている」と見なされがちだ。しかし、続縄文時代から擦文時代にかけての土器や住居跡からは、寒冷な気候への適応と、本州との交易を軸にしたしたたかな選択が見えてくる。
住宅街の片隅に眠る「平安の古墳」から
江別市の住宅街を歩いていると、ふいにこんもりとした土の盛り上がりに突き当たることがある。江別古墳群だ。案内板を見なければ、それが歴史的な遺跡であることに気づく人は少ないだろう。本州で見慣れた巨大な前方後円墳とは異なり、直径数メートルから十メートル程度の、ささやかな円墳が点在している。
この風景の前に立つと、自分の中にある「日本史」の時計が狂うような感覚に陥る。なぜなら、これらの古墳が築かれたのは、本州ではすでに古墳時代が終わり、平城京や平安京が栄えていた八世紀後半から九世紀にかけてのことだからだ。貴族たちが和歌を詠み、律令国家の体裁が整えられていた時代に、この石狩川のほとりでは、死者を土に埋めて盛り土をするという、かつての「古墳」の形式が再現されていた。
北海道の古代史を紐解こうとするとき、私たちはまず「古代」という言葉の定義を疑う必要がある。本州の歴史区分をそのまま当てはめようとすると、どうしてもこの土地の営みは「遅れている」あるいは「特殊である」という枠に押し込められてしまう。しかし、現地で土器の破片や住居跡を眺めていると、そこにあったのは停滞ではなく、冷徹なまでの環境への適応と、したたかな選択の結果だったことが見えてくる。
なぜ彼らは、本州が稲作と中央集権国家へと突き進む中で、あえて別の道を歩んだのか。その答えは、石狩川の緩やかな流れや、冬の凍てつく風の中に、今も静かに隠されている。
縄を捨て、鉄を求めた転換点
北海道の歴史を語る際、縄文時代の次に訪れるのは「弥生時代」ではない。「続縄文(ぞくじょうもん)時代」と呼ばれる、縄文文化の延長線上にある時代が五世紀以上も続く。本州で稲作が広まった紀元前四世紀頃から、北海道の人々は依然として狩猟採集を生活の基盤に置いていた。
この選択を「寒冷な気候のせいで稲作ができなかった」と片付けるのは、あまりに短絡的だ。近年の研究では、続縄文時代の人々も稲の存在を知っていたことが判明している。それにもかかわらず、彼らは大規模な水田耕作を受け入れなかった。その最大の理由は、秋に確実に遡上してくるサケやマスという「自然の収穫」が、不安定な初期の稲作よりもはるかに信頼に足る資源だったからだ。
しかし、変化がなかったわけではない。三世紀から四世紀にかけて、続縄文文化は決定的な変容を見せる。後北(こうほく)式土器と呼ばれる、粘土紐を貼り付けた立体的な文様を持つ土器が広がり、人々の活動範囲は一気に拡大した。彼らは石狩平野を拠点に、北はサハリン、南は東北地方北部まで活発に往来していたことが、各地から出土する土器の分布によって証明されている。
この「移動性の高さ」こそが、当時の北海道における生存戦略だった。彼らが求めていたのは、食料だけではない。本州からもたらされる「鉄」である。続縄文時代の遺跡からは、石器と並んで鉄製のナイフや矢尻が見つかるようになる。鉄を手に入れるためには、彼らは自らの産物を差し出す必要があった。毛皮や海獣の脂、そして干したサケ。北海道の古代史は、この時点で、自給自足の閉じた世界から、本州との交易を前提とした「輸出型社会」へと舵を切っていたのだ。
六世紀から七世紀にかけて、この傾向はさらに加速する。土器から縄目の模様が消え、表面を木べらで擦って整える「擦文(さつもん)文化」へと移行する。この名称の由来となった「擦った文様」は、実は同時期の本州で作られていた土師器(はじき)の技法を模倣したものだ。彼らは、本州の文化をただ拒絶していたのではない。自らの生活に役立つ技術や様式を、驚くほど冷静に、かつ部分的に取り入れていたのである。
竈の火と乾鮭のネットワーク
七世紀後半、擦文文化が成立すると、人々の暮らしには劇的な変化が訪れる。竪穴住居の壁際に、石や粘土で作られた「竈(かまど)」が登場したのだ。それまでの縄文時代から続く、部屋の中央に置かれた「炉」に代わり、煙突を持つ竈が導入されたことは、本州からの強力な文化的影響を物語っている。
竈の導入は、単なる調理器具の変更ではない。住居内の空間構成を変え、煙のない清潔な環境を生み出し、より効率的な暖房と調理を可能にした。これと時を同じくして、住居の形も円形から隅の丸い方形へと変わっていく。擦文時代の人々は、一見すると本州の農村と同じような風景の中で暮らしていた。しかし、決定的に異なる点があった。彼らの住居の周辺には、広大な水田が広がっていなかったのである。
彼らはアワやキビといった雑穀を小規模に栽培してはいたが、それはあくまで補助的な食料に過ぎなかった。生活の核心にあったのは、やはり川と海である。擦文時代の集落は、石狩川や十勝川といった大河の流域に集中している。特にサケが獲れる秋から冬にかけて、彼らは河口近くに大規模な集落を形成した。
ここで生産されたのが「乾鮭(からさけ)」だ。塩を使わずに乾燥させたサケは、軽量で保存性が高く、本州の律令国家にとって重要な交易品となった。平安時代の記録『延喜式』には、北方からの貢納品として鮭の名が記されている。擦文時代の人々は、サケを獲るプロフェッショナルとして、本州の国家システムと深く結びついていた。
この交易の対価として、北海道には大量の鉄器や須恵器(すえき)、そして漆器が流れ込んだ。江別古墳群から出土した「蕨手刀(わらびてとう)」や、美しい装飾が施された帯金具は、彼らが単なる「北の住人」ではなく、律令国家の官人と対等に渡り合い、時にはその地位を象徴する品を授かるほどの有力な首長層を形成していたことを示している。
彼らが稲作を選ばなかったのは、それができなかったからではない。サケを獲り、乾鮭という価値に変換して本州と交易する方が、この土地においてはるかに効率的で、豊かな暮らしを維持できると判断したからだろう。国家の枠組みに組み込まれ、重い租税としての米を納める生活よりも、交易のパートナーとしての自立を選んだのだ。そこには、中央政権の論理とは別の、北の民としてのプライドと合理性が透けて見える。
境界線の上で踊る二つの影
北海道の古代史を語る際、擦文文化と並んでもう一つ忘れてはならない存在がある。五世紀頃からサハリンを越えて南下し、北海道のオホーツク海沿岸に定着した「オホーツク文化」だ。彼らは、擦文文化の住人とは全く異なるルーツを持つ人々だった。
オホーツク文化の人々は、海獣狩猟のスペシャリストだった。彼らの住居からは、クジラやトド、アザラシの骨が大量に出土する。住居の形は五角形や六角形という独特の形状をしており、部屋の奥にはクマの頭骨を並べた「骨塚」が作られていた。このクマを崇拝する儀礼は、後のアイヌ文化における「イオマンテ」の源流の一つになったと考えられている。
興味深いのは、このオホーツク文化と擦文文化が、数世紀にわたって北海道という同じ島の中で共存していたという事実だ。道央や道南を拠点とする擦文文化と、道北や道東の海岸線を支配するオホーツク文化。両者は単なる隣人ではなく、激しい対立と、それ以上に深い交流を繰り返していた。
この関係を、本州の「律令国家と蝦夷(エミシ)」の関係と比較してみると、北海道の特殊性がより鮮明になる。当時の東北地方北部では、多賀城や出羽柵といった城柵が築かれ、律令国家による武力制圧と教化が進められていた。東北の蝦夷たちは、国家の「内」か「外」かという二者択一を迫られていたのである。
対して、北海道の擦文文化の人々は、南に律令国家、北にオホーツク文化という二つの巨大な勢力に挟まれていた。彼らは、どちらか一方に隷属することを選ばなかった。南からは鉄器や漆器を、北からは海獣の皮や大陸の文物を手に入れ、その結節点として機能することで独自の地位を築いたのだ。
九世紀頃になると、両文化の境界線であった道東地域において、両者が融合した「トビニタイ文化」という不思議な様式が生まれる。オホーツク文化特有の土器の文様を持ちながら、擦文文化の住居形式を採用するという、ハイブリッドな生活様式だ。最終的にオホーツク文化は擦文文化に吸収される形で消滅していくが、その過程で彼らが持っていた高度な航海技術や動物儀礼は、擦文文化の中へと深く溶け込んでいった。
この「境界領域における融合」こそが、北海道古代史の真骨頂といえる。本州のように一つの中心が辺境を飲み込んでいく構造ではなく、異なる文化がぶつかり合い、混ざり合いながら、新しい形へと脱皮していく。平安時代末期、擦文文化がアイヌ文化へと移行していく背景には、このような北と南のダイナミックな交流の歴史が積み重なっていたのである。
埋もれた遺跡が語る「定住」の定義
現在、私たちが訪れることのできる北海道の古代遺跡は、その多くが静かな森や公園として整備されている。伊達市の北黄金貝塚や、函館市の大船遺跡などは、縄文時代から続く定住の歴史を今に伝えているが、擦文時代の遺跡となると、その姿を地上で確認するのはさらに難しくなる。
擦文時代の人々は、サケの遡上に合わせて集落を移動させる、柔軟な定住スタイルを持っていた。本州の農村が千年以上も同じ場所に留まり続けるのに対し、彼らは数十年単位で、より豊かな漁場や狩り場を求めて生活拠点を移した。そのため、一つの場所に巨大な石造建築や大規模な土木遺構を残すことはなかった。
しかし、地面の下には驚くべき密度で歴史が堆積している。札幌市内の住宅地や地下鉄の工事現場からも、しばしば擦文時代の住居跡や土器が発見される。彼らは、今の私たちが暮らしている場所と全く同じ、水の便が良く、風の穏やかな土地を選んで住んでいた。数千年前の人々と、現代の私たちが、同じ風景を共有しているという事実は、北海道という土地の持つ変わらぬ骨格を感じさせてくれる。
江別古墳群に話を戻せば、あそこに埋葬された人々は、間違いなく当時の北海道における「国際人」だった。副葬品として見つかった須恵器の坏(つき)や、鉄製の鎌、そして東北地方の末期古墳と共通する墓制。これらは、彼らが津軽海峡を越えて本州の官人と交渉し、最新のトレンドを把握していた証拠だ。
今の江別古墳群は、木々に覆われ、注意深く探さなければ見落としてしまうほど控えめな存在だ。だが、その控えめさこそが、当時の彼らの立ち位置を象徴しているようにも思える。彼らは、本州の国家に阿(おもね)ることなく、かといって完全に背を向けることもなく、石狩川という物流のハイウェイを使いこなしながら、独自の経済圏を維持していた。
かつての古墳の周りには、今は整然とした分譲住宅が並び、子供たちの声が響いている。一見すると歴史の断絶を感じる光景だが、実はそうではない。彼らが選んだ「水の豊かな平野での暮らし」は、形を変えながら今もこの地に引き継がれているのだ。
「遅れ」という仮説を捨て去る
北海道の古代から平安時代にかけての歴史を辿り直すと、一つの確信に至る。それは、この土地の歴史は、本州の歴史の「不完全な模倣」ではなかったということだ。
かつて、北海道に弥生時代が訪れなかったことを、文化の伝播の遅れとして捉える見方があった。しかし、事実は逆だ。彼らは、稲作というシステムがもたらす「土地への拘束」や「階級の固定化」というリスクを回避し、より自由で機動的な狩猟採集・交易社会を維持することを選択したのである。その選択を支えたのは、サケという圧倒的な資源と、北と南の勢力を天秤にかける外交感覚だった。
擦文時代の人々が竈を導入し、本州様式の土器を使いながらも、決して米を作ろうとしなかったこと。平安時代になってから、わざわざ本州の古い形式である古墳を築いたこと。これらはすべて、自分たちのアイデンティティをどこに置くかという、自覚的な選択の現れではないか。
彼らは、律令国家の「臣民」になるのではなく、国家の外側に立つ「交易の民」であることを誇りとした。そして、その独立独歩の精神と、オホーツク文化から受け継いだ北方の感性が融合し、十三世紀頃に「アイヌ文化」という独自の華を咲かせることになる。
私たちが学んできた日本史の教科書には、この時代の北海道はほとんど登場しない。だが、石狩川のほとりに立ち、江別古墳群のささやかな盛り土を見つめていると、そこにはもう一つの、強固で豊かな「日本列島史」があったことがはっきりとわかる。
歴史とは、一つの正解に向かって進む一本道ではない。気候や地形、そして隣人との関係の中で、その時々で最善の道を選び取っていく、無数の分岐の積み重ねだ。北海道の古代史が教えてくれるのは、中心から離れた場所にある「豊かさ」の正体であり、国家という枠組みに依存しない生き方の力強さである。
江別の街を去るとき、もう一度古墳を振り返った。背の高いマンションの影に隠れそうな小さな土山は、平安の都が遠い過去となった今も、その場所にあり続けている。そこには、かつて北の海と川を支配し、誇り高く生きた人々の、静かな呼吸が今も閉じ込められている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- hokkaido-digital-museum.jp
- nii.ac.jprekihaku.repo.nii.ac.jp
- 江別古墳群 文化遺産オンラインonline.bunka.go.jp
- 北海道の歴史 – 歴史を旅しよう ~AI World~takaobakufu.com
- sakura.ne.jphomas.sakura.ne.jp
- オホーツク文化と擦文文化が出会う場所で進む土器圧痕調査と考古学実習 | 東京大学u-tokyo.ac.jp
- オホーツク文化の全て!成り立ちや当時の様子を詳しく解説します - 知床情報 | 嶋田漁業部shijimibaka.com
- hokkaido-digital-museum.jp