2026/6/13
なぜ「釣聖」恩田俊雄は、幻のサツキマスを釣り上げたのか

釣聖・恩田敏夫って誰?何の釣りの名人だったの?詳しく知りたい。
キュリオす
岐阜県郡上八幡で「釣聖」と呼ばれた恩田俊雄。教育者でもあった彼は、職漁師の技を昇華させ、細糸と特殊な竿で幻のサツキマスを釣り上げる釣法を確立した。その「生きた川」への思想に迫る。
郡上八幡、水の音に混じる名
岐阜県郡上八幡の町を歩けば、どこにいても水の音が聞こえてくる。町の中央を流れる吉田川の轟々とした響き、民家の軒先を縫うように走る水路の軽やかな音。この町において、水は単なる風景ではなく、生活の骨格そのものであることが肌に伝わってくる。
この水の町で、かつて「釣聖」と呼ばれた一人の男がいた。恩田俊雄。釣りに関心のない人には馴染みのない名かもしれないが、渓流釣りの世界、ことに長良川流域の釣り人にとって、その名は一つの到達点として語り継がれている。
「釣聖」という、どこか浮世離れした響きを持つ称号。しかし、彼が向き合っていたのは、神秘的な儀式ではなく、極めて具体的で泥臭い「川の現実」だった。なぜ、一介の釣り人が聖人とまで称されるに至ったのか。その答えを探ろうとすると、単なる釣技の巧拙を超えた、この土地固有の文化と、一人の教育者としての厳格な眼差しが見えてくる。
彼が愛した「郡上釣り」とは何だったのか。そして、彼が守ろうとした「生きた川」とは、どのような姿をしていたのだろうか。吉田川の岩場に立ち、水面を流れる羽虫を眺めていると、彼が遺した言葉の重みが、静かに、しかし確かな質量を持って迫ってくる。
教育者と川漁師、二つの顔
恩田俊雄の生涯を紐解くとき、まず驚かされるのは、彼がプロの漁師ではなく、教育者としての一生を全うしたという事実である。地元郡上の小学校で教鞭を執り、最後には校長として定年を迎えた。学校では子供たちの未来を導き、放課後や休日には川に立ち、魚の動きに神経を研ぎ澄ませた。
彼が釣りを始めたのは、戦後の食糧難の時代にまで遡る。当時の川は、娯楽の場である以上に、貴重なタンパク源を確保する生活の場であった。恩田もまた、家族を養うために川へ通い、職漁師たちの背中を見て技を盗んだという。しかし、彼が他の釣り人と決定的に違ったのは、魚を「捕る」という行為を、徹底した観察と理論によって再構築した点にある。
昭和の中期、長良川や吉田川には、釣竿一本で生計を立てる職漁師がまだ多く存在していた。彼らの技は「郡上釣り」と呼ばれ、急流の中でアマゴやサツキマスを効率よく釣り上げるための独特の進化を遂げていた。恩田は、この職漁の本質を理解しながらも、それを「遊び」としての釣りに昇華させた。
彼が提唱したのは、単に魚を多く釣ることではない。川の健康状態を知り、魚の生態を敬い、自然の一部として人間が川に立つという姿勢だった。「のめり込みすぎて仕事に差し支えてはいけない」と、現役時代の自分を律し、周囲にも定年後の趣味として釣りを奨励したというエピソードは、いかにも厳格な教育者らしい。
しかし、ひとたび川に立てば、その立ち姿は峻烈を極めた。豪奢な装備を誇るわけではなく、使い込まれた道具を手に、気配を消して水辺に馴染む。その姿は、後年、多くの釣り雑誌や映像メディアを通じて全国に知られることとなる。彼が「釣聖」と呼ばれたのは、その圧倒的な釣果もさることながら、川に対する「気品」と「風格」が、見る者を圧倒したからに他ならない。
サツキマスという「幻」を解く
恩田俊雄の名を不朽のものにした最大の功績は、サツキマスの釣法を確立したことにある。サツキマスとは、川で生まれたアマゴの一部が海へ下り、銀色の巨体となって再び母なる川へ遡上してきたものである。かつて、この魚は「竿では釣れないもの」というのが常識だった。
遡上の途上にあるサツキマスは、餌をほとんど食べない。激流の中を潜むその姿は、職漁師たちが夜間に網で捕る対象であり、日中に釣り糸を垂らして掛かるような相手ではないとされていた。事実、恩田が初めてサツキマスを掛けたとき、愛用の竹竿は二箇所で折れたという。しかし、彼は諦めなかった。
彼はサツキマスの動きを徹底的に観察した。川のどの位置に潜み、どのような波のタイミングで口を使うのか。彼が行き着いたのは、0.3号から0.6号という、その魚体の大きさと引きの強さを考えれば、あまりにも細いナイロン糸を使いこなす技術だった。
細い糸を使えば、水流の抵抗を最小限に抑えられ、餌をより自然に魚の口元へ届けることができる。しかし、一度掛かれば、糸は一瞬で切れるリスクを孕む。ここで重要になるのが、郡上特有の「抜き」の技術と、それを支える道具の進化だった。
恩田は、地元の宮田釣具店とともに、カーボン素材を用いた新しい「郡上竿」の開発に心血を注いだ。それまでの竹竿の粘りを持ちながら、瞬時に魚を水面から引き抜くバネのような反発力を持つ竿。彼はこの竿を使い、急流からサツキマスを文字通り「抜き去る」ことで、魚に暴れる隙を与えず、細糸での取り込みを可能にしたのである。
「郡上釣りは、アマゴの抜き釣りのことや。シュッと合わせて、パッと抜く」という彼の言葉はシンプルだが、そこには、水中のわずかな変化を感じ取る繊細さと、一瞬の好機を逃さない決断力が凝縮されている。彼が確立したこの釣法によって、サツキマスは「幻」から「ターゲット」へと変わり、日本の本流釣りの歴史は塗り替えられたのである。
民謡としての釣り、ロックとしての釣り
ここで、恩田が極めた「郡上釣り」を、他の釣法と比較することでその輪郭をより鮮明にしてみよう。釣りという行為は、しばしば音楽のジャンルに例えられることがある。
ルアーフィッシングが派手なアクションと道具の機能美を競う「ロック」であり、フライフィッシングが自然との対話を重んじ、様式美を追求する「フォークソング」であるとするならば、郡上釣りは、その土地の土壌から自然発生した「民謡」に近い。
例えば、全国的に普及している「テンカラ釣り」は、毛針を用いた伝統的な釣法だが、基本的には山奥の源流域や支流を主戦場とする。これに対し、恩田の郡上釣りは、川幅の広い「本流」を舞台とする。障害物の少ない本流では、魚はより警戒心が強く、水流はより複雑だ。
また、現代の主流である「ナチュラルドリフト」という考え方がある。これは、仕掛けを水流に完全に同調させて流す技術だが、恩田の技法はそれだけにとどまらない。彼は、川の表面に現れる波を「男波(おなみ)」「女波(めなみ)」と呼び分け、さらに魚が餌を食う特定の波を「食い波」と名付けた。
彼は、ただ流すのではなく、その複雑な波の「層」の中に、いかに仕掛けを潜り込ませるかを追求した。これは、西洋から入ってきたフライフィッシングの理論とも、単なる経験則に基づいた日本の伝統釣法とも異なる、独自の「川の読み解き方」だった。
他の地域の名人たちが「自分の川以外では自信がない」と謙遜する中で、恩田の理論は、長良川という巨大な水系を通じて磨かれたため、普遍的な説得力を持っていた。しかし、彼は決して自分の技を「唯一の正解」とはしなかった。常に「郡上の釣りは」という断りを入れ、土地の条件が技を作るのだという謙虚さを失わなかった。この相対化の視点こそが、彼を単なる「釣りの上手い人」から、思想を持つ「釣聖」へと押し上げた要因ではないだろうか。
芳花園に遺された気配
現在、郡上八幡の市街地から少し離れた場所に、恩田が営んでいた郷土料理店「芳花園」がある。現在は息子の忠弘氏がその暖簾を守っているが、店内には今も、俊雄氏が愛用した郡上竿や魚籠(びく)、そして彼が川で過ごした日々を物語る写真が飾られている。
店を訪れる釣り人たちは、そこにある道具の「美しさ」に言葉を失う。特に、竹の一本竿で作られた古い郡上竿は、強度を出すために竹の繊維をねじって調整されており、職人の執念が宿っている。恩田は、こうした伝統的な道具の価値を認めながらも、常に「現場で使えるかどうか」を最優先した。カーボン竿の開発に積極的に関わったのも、より多くの人が川を楽しめるように、という教育者としての配慮があったのかもしれない。
しかし、彼が晩年に最も心を砕いたのは、道具の進化ではなく、川そのものの変容だった。1990年代、長良川河口堰の建設問題が持ち上がった際、彼は開発に対して慎重な立場を取り、メディアの前でサツキマスを釣り上げることで、この川に宿る命の豊かさを証明してみせた。
「生きた川には夢がある」という彼の言葉は、今も郡上の釣り人たちの合言葉になっている。彼にとって、川が生きているとは、単に水が流れていることではない。海から魚が遡り、山からの栄養が海へ届く、その循環が保たれていることを指していた。
彼が亡くなった2007年以降も、長良川の環境は厳しさを増している。土砂の堆積や水温の上昇、放流魚の質の変化。かつて恩田が「川が真っ黒になるほどいた」と回想した天然アユの群れは、今では見る影もない。それでも、彼の教えを継ぐ人々は、今も川虫の種類を調べ、水温を測り、恩田が見つめていた「食い波」を探して竿を出している。芳花園の座敷で供されるアマゴの塩焼きを口にするとき、その淡白で清涼な味わいの向こう側に、彼が守ろうとした冷たく澄んだ水の記憶が重なる。
聖なるもの、その実体
恩田俊雄という人物を「釣聖」と呼ぶとき、私たちは彼の中に、自然を支配する神のような力を期待してしまう。しかし、彼が遺した膨大な記録や証言から浮かび上がってくるのは、むしろ「徹底して人間であろうとした」一人の男の姿である。
彼は、カメラの前で釣って見せるプレッシャーに胃を痛め、魚が釣れない日には真摯にその理由を考え抜いた。彼の凄みは、超能力のような直感にあったのではなく、何十年もの間、欠かさず川の健康状態をチェックし続け、データを頭の中に蓄積してきた「継続の力」にあった。
「当たり前に思っていたが、実は珍しい」という発見が、彼の釣法には満ちている。例えば、魚をタモ(網)に入れたまま次のポイントへ振り込むという「手返し」の速さ。これは一見、乱暴な行為に見えるが、実は「魚を驚かせない」「ポイントを荒らさない」という極めて合理的な配慮に基づいている。
彼が到達した境地とは、人間が自然に勝つことではなく、人間という異物が、いかにして川というシステムの中に「ノイズ」を立てずに介入できるか、という極限の調整だった。細い糸も、しなやかな竿も、すべてはそのための手段に過ぎない。
読み終えて、再び郡上の町を流れる水の音に耳を澄ませてみる。そこにあるのは、かつての聖人が愛した川そのものではないかもしれない。しかし、彼が指し示した「川を見る眼差し」は、今も私たちの手元に残されている。
「釣聖」とは、魚を神格化した者ではなく、魚を通して「生きた自然」という巨大な夢を見続けた者、そしてその夢を次世代に繋ごうとした教育者の別名だったのではないか。彼が愛用した郡上竿の先が、今もどこかの瀬で、目に見えない魚の鼓動を捉えているような気がしてならない。郡上八幡の夜、水路を流れる水の音は、どこまでも澄んで、どこまでも冷たい。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 渓流釣りの極意を購入されたA・K様とのやりとり抜粋 Vol5 - お釣師者の渓流釣りのサイトだよ。毎年尺あまごを釣り、ワンシーズンで300匹のあまごを釣る、無類の渓流釣り好きのお釣師者が、爆釣方法の極意を釣り方教室で無料公開中。hikatteru.com
- 食い波を見極めてヒレピンの美形アマゴを釣るweb.tsuribito.co.jp
- 恩田さんインタビューwww5c.biglobe.ne.jp
- 恩田さんインタビューwww5c.biglobe.ne.jp
- 二月一日gasagasa.la.coocan.jp
- 郡上八幡を廻り、釣聖恩田俊雄とその釣り文化を感じた一日にenoha-tei.com
- 郡上八幡を廻り、釣聖恩田俊雄とその釣り文化を感じた一日にenoha-tei.com