2026/6/23
武田信玄が本尊を移した「甲斐善光寺」はなぜ生まれたのか

甲斐善光寺について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
甲斐善光寺は、戦国時代の武田信玄が川中島の戦いから信濃善光寺の本尊を守るために建立した寺院です。本尊は後に長野へ戻りましたが、甲斐善光寺は独自の信仰と文化財を受け継いでいます。
甲斐の盆地に響く「もう一つの善光寺」の問い
甲府盆地の東端、市街地から少し離れた場所に、定額山浄智院善光寺と称される寺院がある。通称「甲斐善光寺」。その名は、長野県にある信濃善光寺を想起させるが、なぜ、この地にもう一つの善光寺が存在するのか。山梨の地を訪れる旅人の多くが抱くこの疑問は、単なる歴史の偶然だけでは片付けられない、戦国の世の思惑と、信仰の力学が交錯した結果である。境内を歩けば、その堂々たる伽藍が、長野のそれと確かに共通する様式を湛えていることに気づくだろう。
戦乱が移した信仰の形
甲斐善光寺の歴史は、戦国時代の永禄元年(1558年)に始まる。甲斐の武将、武田信玄が、越後の上杉謙信との間で繰り広げられた「川中島の戦い」の最中、信濃善光寺が戦火に巻き込まれることを深く憂慮したことが、その発端であった。 信玄は、信濃善光寺の本尊である善光寺如来像をはじめ、諸仏や寺宝、さらには僧侶たちまでも甲斐へと移し、新たな寺院を建立したのだ。この移転は、単に文化財を保護するだけでなく、善光寺信仰を自身の領国支配の権威として取り込む意図もあったと指摘されている。
信濃善光寺の建立に深く関わったとされる本田善光の葬送地が、この甲斐の地に伝わっていたことも、移転先の選定に影響を与えたという。 永禄8年(1565年)には本堂が完成し、仮堂に安置されていた善光寺如来の入仏供養が執り行われた。 しかし、武田氏が天正10年(1582年)の甲州征伐で滅亡すると、善光寺如来は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉といった時の権力者の間を転々とする数奇な運命を辿る。 慶長3年(1598年)、ようやく信濃善光寺へと帰座したが、甲斐善光寺には新たに前立仏が本尊として定められ、その信仰は引き継がれた。 江戸時代に入ると、徳川家の庇護のもと、本坊三院十五庵を擁する大寺院として栄え、浄土宗の甲州触頭を務めるに至ったのである。
伽藍に刻まれた工夫と残響
甲斐善光寺の伽藍は、その規模と構造において、類を見ない特徴を持つ。現在の山門と金堂は、宝暦4年(1754年)の火災で焼失した後、寛政8年(1796年)に再建されたもので、いずれも国の重要文化財に指定されている。 特に金堂は、東西約38メートル、南北約23メートル、高さ約26メートルにも及ぶ東日本最大級の木造建築物であり、その屋根は「撞木造(しゅもくづくり)」と呼ばれる独特のT字型をしている。
金堂の中陣天井には、巨大な二頭の龍が描かれている。この部分が吊り天井になっているため、その真下で手を叩くと、音が多重反射を起こし、龍が鳴いているかのように聞こえる。これが「日本一の鳴き龍」として知られる所以である。 また、金堂の地下には「お戒壇巡り」と呼ばれる通路が設けられている。これは本尊の真下を通る真っ暗な小部屋で、壁伝いに進み、途中で鍵に触れることで本尊と縁を結べるとされる。 視覚を奪われることで、信仰の本質に迫る体験ができるよう工夫されているのだ。山門の両脇に安置された仁王像が未完成のままであることも、この寺の歴史の一端を物語るかのようだ。
信仰の避難所、その普遍性と固有性
「善光寺」の名を冠する寺院は全国に100以上存在し、善光寺式阿弥陀三尊像を祀る寺院は400を超えると言われている。 その中でも、甲斐善光寺は、戦火を避けるために本尊を一時的に移した「避難仏」としての性格が際立っている。 こうした戦乱による本尊の移動は、各地の寺院で散見される現象ではあるが、信濃善光寺という全国的な信仰の中心から、本尊と寺全体を一時的に「疎開」させた事例は、その規模と背景において特異である。
例えば、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、戦乱を避けて地方に本尊が移された事例は少なくない。しかし、甲斐善光寺の場合、移転の主体が武田信玄という当時の大名であり、単なる避難にとどまらず、新しい宗教的・政治的拠点としての意味合いも持ち合わせていた点が特徴的だ。長野の信濃善光寺が、宗派を問わずすべての信徒を受け入れる「庶民信仰の寺」として発展したのに対し、甲斐善光寺は、武田氏の庇護を受け、後に徳川家とも縁を結ぶことで、より支配層との結びつきが強かった側面も指摘できる。 両寺院が7年に一度の御開帳を同時に行うことは、その深い縁と、信仰が形を変えても継承されてきた証左ともいえるだろう。
現代に息づく歴史と文化財
現在の甲斐善光寺は、その歴史的背景と貴重な文化財によって、山梨を代表する観光地の一つとなっている。年間約20万人が参拝に訪れるとされ、特に首都圏からの観光客が多いという。 境内に設けられた宝物館では、国指定重要文化財である銅造阿弥陀三尊像(秘仏であるため、御開帳時に前立仏が公開される)や、日本最古とされる源頼朝の木造坐像など、多数の貴重な文化財が展示されている。
「鳴き龍」や「お戒壇巡り」といった体験型の要素は、参拝者に歴史をより身近に感じさせる工夫として機能している。 しかし、その維持には多大な費用がかかる。近年では、少子高齢化や若い世代の参拝者減少といった課題に直面しており、大規模な修繕には少なくとも33億円もの総事業費が見込まれるという報道もある。 伝統を継承しつつ、時代に合わせた姿を模索する中で、クラウドファンディングなどの新たな資金調達の試みも行われているようだ。
乱世に灯る信仰の確かさ
甲斐善光寺の存在は、戦国の世において、信仰がいかに動乱の中でその形を変え、しかし根強く生き残ってきたかを静かに示している。武田信玄が本尊を「避難」させた行為は、単なる略奪や保護にとどまらず、信濃善光寺の権威と信仰の力を自らの領国に引き寄せようとする政治的な意図が色濃くあった。しかし、その結果として、甲斐の地に「もう一つの善光寺」が確立され、信玄の死後も徳川家の庇護を受けて存続した事実は、信仰の持つ普遍的な求心力を物語っている。
本尊が長野に戻った後も、甲斐善光寺が独自の信仰を集め続けたのは、単に建物の存在だけでなく、その伽藍に込められた工夫や、人々の心の拠り所としての役割が、地域に深く根付いていたからだろう。暗闇の中を手探りで進む「お戒壇巡り」が、目や耳を遮断されることで「人は平等である」という教えを実体験させる場となっているように、甲斐善光寺は、戦乱の世に人々が求めた心の平安を、現代にまで伝え続けている。 それは、いつの時代も変わらない人間の営みの一側面を映し出す鏡のような存在だ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 甲斐善光寺 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 甲府市/善光寺city.kofu.yamanashi.jp
- 【山梨】もうひとつの善光寺が山梨にある!?『甲斐善光寺』へ参拝! - 旅人サイファのお出かけブログtraveler-cipher.hatenablog.com
- 甲斐善光寺 - 見どころ、アクセス、口コミ & 周辺情報 | GOOD LUCK TRIPgltjp.com
- 甲斐善光寺~武田信玄創建 源頼朝・実朝父子の像~yoritomo-japan.com
- 【甲斐善光寺】武田信玄が創建した「名刹」参拝 - ぶらりうぉーかーburariwalking.hatenablog.com
- 甲斐善光寺kai-zenkoji.or.jp
- 甲斐善光寺 – 日本実業出版社njg.co.jp