2026/6/12
水木しげるはなぜ妖怪に魅せられたのか? 境港の路地から見えたもの

水木しげるについて詳しく教えて欲しい。なぜ妖怪についてそんなに関心があったのか?
キュリオす
水木しげるが妖怪に惹かれたのは、幼少期の体験と戦争での凄惨な経験が根底にある。貧困や漫画界の状況といった偶然も重なり、彼は「妖怪漫画家」となった。その作品は現代の妖怪文化に大きな影響を与えた。
妖怪の足跡を辿る路地から
鳥取県境港市に足を踏み入れると、まず目に入るのは奇妙な姿をしたブロンズ像の群れだ。商店街の軒先、公園の片隅、あるいは水路のほとり。それらは「妖怪」と呼ばれる存在であり、そのほとんどが故・水木しげるが生み出し、あるいは世に知らしめたものだ。この町は「水木しげるロード」として、年間を通じて多くの訪問者を集めている。しかし、なぜ水木しげるはこれほどまでに妖怪という存在に魅せられ、生涯をかけてその姿を描き続けたのか。単なる創作の題材としてではなく、彼にとって妖怪とは何だったのか。その問いは、境港の潮風の中に、あるいは彼の作品の底に、静かに横たわっている。
黒潮と山風が交わるまで
水木しげる、本名・武良茂は1922年、大阪で生まれたが、幼少期を境港で過ごした。当時の境港は漁業が盛んな港町で、周囲には山や森が広がり、自然が身近な環境だった。水木の妖怪への関心は、この幼少期の体験に深く根ざしていると言われている。特に彼に影響を与えたのは「のんのんばあ」と呼んだ近所の老婆だった。彼女は水木少年に対し、夜な夜な妖怪や幽霊、あの世の話を語り聞かせたという。目に見えない存在が日常のすぐそばにいるという感覚は、水木の幼心に深く刻み込まれた。のんのんばあの語る世界は、当時の境港の生活の中に息づく民間信仰や口承文学の延長線上にあるものだっただろう。
しかし、妖怪への関心は、単に幼い頃の記憶だけで説明できるものではない。水木の人生を決定づけたのは、第二次世界大戦中の南方戦線での経験である。彼はニューブリテン島のラバウルに出征し、凄惨な戦いを経験した。マラリアに罹患し、左腕を失う重傷を負う。極限状況の中、彼は死と隣り合わせの毎日を送り、日本軍の無謀な作戦や兵士たちの不条理な死を目の当たりにした。この体験は、水木の死生観に大きな影響を与えたとされる。戦後、彼は「死んでいった兵隊たちの霊が、妖怪となって現れるのではないか」という思いを抱いたという。また、現地の人々との交流の中で、彼らが持つ独特の精霊信仰や、自然と共生する世界観に触れたことも、水木が目に見えない存在に目を向けるきっかけとなった可能性がある。戦争という理不尽な現実と、幼少期に培われた異界への想像力が、彼の中で結びついていったのだ。
三つの偶然が重なった
水木しげるが妖怪を自身の表現の中心に据えるに至ったのは、戦後の苦しい生活と漫画家としての模索の中で、複数の要因が偶然に重なり合った結果だと考えられる。まず、戦後の極貧生活があった。復員後、水木は紙芝居画家として生計を立てるが、生活は安定せず、極度の貧困に苦しんだ。貸本漫画の分野に進出してからも、ヒット作に恵まれず、常に経済的な困窮と隣り合わせだった。このような状況下で、彼は自身のオリジナリティを確立する必要に迫られていた。
次に、当時の漫画界の状況がある。1960年代初頭の漫画雑誌は、手塚治虫らが牽引するSFや冒険活劇が主流であり、妖怪というテーマは一般的ではなかった。しかし、この「一般的ではない」という点が、逆に水木にとっての活路となった。既存のジャンルで勝負するのではなく、彼自身の内面にある、幼少期からの妖怪への関心と、戦争体験から生まれた死生観を表現する場として、妖怪が浮上してきたのだ。
そして、決定的な転機となったのが、1960年代半ばの貸本漫画から週刊誌への移行期である。この時期、少年漫画誌は新しい題材を求めており、水木しげるの描く独特の妖怪の世界が編集者の目に留まった。「週刊少年マガジン」に掲載された『ゲゲゲの鬼太郎』(連載開始当初のタイトルは『墓場の鬼太郎』)は、当初は子供向けとしては異色とされたが、その不気味さとユーモラスさが読者に受け入れられ、瞬く間に人気を博した。この成功は、水木が長年培ってきた妖怪への深い知識と、それを漫画表現として昇華させる才能が、時代と合致したことを示している。貧困、漫画界の模索、そして時代の要請という三つの偶然が、水木しげるを「妖怪漫画家」として確立させたと言えるだろう。
削り節ではなく本枯節として
水木しげるの妖怪観は、日本の伝統的な妖怪研究や他のメディアにおける妖怪の描かれ方と比較すると、その特異性が際立つ。例えば、民俗学者の柳田國男は、妖怪を「常民」の信仰や伝承の中から生まれたものとして捉え、その体系化と学術的な分析を試みた。柳田の視点は、地域ごとの伝承を丹念に収集し、共同体の精神構造や生活習慣との関連を探ることにあった。そこには、妖怪をある種の「学術対象」として客観視する姿勢が見られる。
一方で、水木しげるの妖怪は、単なる伝承の記録や学術的な分類を超えた存在として描かれる。彼は妖怪を、人間の感情や社会の矛盾、そして自然の奥深くに潜む「もうひとつの現実」として捉えていた。彼の描く妖怪は、人間社会の片隅にひっそりと生き、時には人間を脅かし、時には助け、時にはただそこにいる。そこには、柳田が追求したような民衆の集合的無意識の表象としての妖怪像だけでなく、水木自身の人生観や戦争体験が色濃く反映されているのだ。彼は妖怪を、人間が忘れてしまった「大切なもの」を思い出させる存在、あるいは人間には理解しがたいが、確かに存在する「異界」の住人として描いた。
また、他のポップカルチャーにおける妖怪の扱いは、しばしば「怖さ」や「キャラクター性」に特化されがちである。子供向けの作品では、妖怪は可愛らしくデフォルメされたり、悪役として単純化されたりすることが多い。しかし、水木しげるの妖怪は、その姿形こそユニークだが、どこか薄暗い影をまとい、人間社会の裏側に息づく存在としてのリアリティを失わない。彼の妖怪は、単なるファンタジーの登場人物ではなく、人間の業や欲望、あるいは自然の摂理と深く結びついた、ある種の哲学的な存在として描かれているのだ。そこには、畏怖と親愛、そして諦念が混じり合った、水木しげる独自の視点が見て取れる。彼は妖怪を、単なるエンターテイメントの道具としてではなく、自身の内面世界を表現するための「本質的な媒体」として扱ったのである。
いま、20軒の製造所が並ぶ町で
水木しげるの作品は、現代の日本における妖怪文化に計り知れない影響を与えた。彼が『ゲゲゲの鬼太郎』を通じて描いた妖怪たちは、それまで地方の伝承や民俗学の領域に留まっていた存在を、広く一般の人々、特に子供たちの間に浸透させた。鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ男、猫娘といったキャラクターは、今や日本を代表するアイコンとなり、妖怪という概念そのもののイメージを大きく変えたと言えるだろう。水木以前の妖怪は、怖ろしい存在として忌み嫌われるか、あるいは地方の奇談として語られることが多かったが、彼の作品は妖怪にユーモアや親しみやすさ、そしてどこか人間的な哀愁を与えた。
その影響は、水木の故郷である境港市に顕著に表れている。1993年に始まった「水木しげるロード」は、当初はわずか15体のブロンズ像からスタートしたが、現在では177体もの妖怪ブロンズ像が設置され、年間200万人以上が訪れる観光地へと発展した。町全体が水木しげるの作品世界を体現しており、妖怪にちなんだ土産物店や飲食店が軒を連ねる。これは、単なる観光地化に留まらず、地域住民が自らの文化資源として妖怪を再認識し、愛着を持って接するきっかけとなった。
しかし、その一方で、現代社会における妖怪の立ち位置は複雑化している。水木しげるが描いたような、自然の中に潜み、人間社会の矛盾を映し出す妖怪の存在感は、都市化や科学技術の進展によって薄れつつある。妖怪は、多くの人にとって、もはや畏怖の対象ではなく、エンターテイメントのキャラクターとして消費される傾向にあるのだ。水木しげるの作品が妖怪を「身近な存在」にしたからこそ、その「神秘性」や「異界性」が希薄になるという皮肉な側面も持ち合わせている。境港の妖怪たちは、今も観光客の好奇の目に晒されているが、水木が作品に込めた、人間と異界の境界線が曖昧だった時代の感覚は、徐々に失われつつあるのかもしれない。
異界の扉が示すもの
水木しげるが妖怪に深く関心を抱いた根底には、彼が自身の人生で経験した「理不尽」や「不可解」な出来事を、目に見えない存在を通して理解しようとする姿勢があった。幼少期ののんのんばあの教えは、世界が合理性だけで成り立っているわけではないという感覚を彼に植え付けた。そして、戦争体験は、人間の常識や倫理が容易に崩壊する現実を突きつけ、死者の魂や異界の存在をより切実に感じさせるものだった。
彼の作品に登場する妖怪は、単なるフィクションのキャラクターではなく、水木自身が抱いた人間社会への疑問や、生と死の境界線への問いかけの具現化であった。それは、科学や合理主義が支配する現代社会において、人間が忘れかけている「畏れ」や「想像力」を呼び覚ます役割を担っていたとも言える。水木は妖怪を通して、人間が理解しきれないもの、制御できないものに対する謙虚な姿勢と、それらを受け入れる心の広さを提示したのではないか。境港の路地を歩き、様々な妖怪像に触れるたび、私たちは、かつて人間が自然や異界とどのように向き合っていたのか、そして、水木しげるという一人の人間が、いかにして理不尽な世界と対峙し、それを自らの表現へと昇華させていったのか、その足跡を追体験することになる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- nii.ac.jpagu.repo.nii.ac.jp
- 「のんのんばあ」と一畑薬師の由縁 | 一畑薬師(総本山一畑寺)ichibata.jp
- のんのんばあとオレ - Wikipediaja.wikipedia.org
- 左手を失っても、飢えても…水木しげるが「描くこと」を手放さなかった理由 | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンラインdiamond.jp
- 「なぜ死なずに逃げたのか」ラバウルで生還した水木しげるさんに上官は言った【戦後77年】 | ハフポスト NEWShuffingtonpost.jp
- 冬の企画展「漫画家 水木しげる(武良茂)と戦争」 | しょうけい館 戦傷病者史料館shokeikan.go.jp
- iucjapan.org
- 水木しげる先生/とりネット/鳥取県公式サイトpref.tottori.lg.jp