2026/6/12
米子城の「自分手政治」が育んだ「山陰の大阪」の商都

島根の米子の歴史について詳しく教えてほしい。
キュリオす
米子は、中海と街道が交差する地理的条件と、江戸時代の荒尾氏による「自分手政治」という特殊な統治形態により、商業都市として発展した。この歴史的経緯が、進取の気性に富んだ開放的な気質を育んだ。
湊山から見下ろす水と城下
鳥取県西部に位置する米子市を訪れ、湊山に立つと、広がる視界にまず中海と日本海、そして秀峰大山が目に飛び込んでくる。かつてこの山頂には米子城の天守がそびえ、眼下の城下町を見守っていたという。城の姿は失われたが、その立地が今も変わらず米子の風景を決定づけている。なぜこの土地が「山陰の商都」と呼ばれ、独自の発展を遂げてきたのか。その問いは、水辺と街道が交錯するこの地の歴史を紐解くことから始まるだろう。
砦から城下町へ、権力の変遷
米子の歴史を遡ると、その始まりは室町時代の応仁から文明年間(1467年から1487年)に、飯山に築かれた砦に求められる。これは伯耆国守護の山名氏の一族、山名宗之が築いたと伝えられる簡素なものであった。戦国時代に入ると、この地は出雲の尼子氏と毛利氏の間で争奪が繰り返される戦略上の要衝となる。文明2年(1470年)には、伯耆の山名軍が尼子清定に逆襲され、米子城に籠もったという記録も残る。
本格的な城郭としての米子城が築かれ始めたのは、安土桃山時代の天正19年(1591年)頃のことである。豊臣政権下で出雲・伯耆西部を領した毛利一族の吉川広家が、湊山を中心に築城を開始した。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍についた結果、広家は岩国へ転封となり、城の完成を見届けることはなかった。
関ヶ原の戦い後、伯耆国17万5千石の領主として駿府から中村一忠が入国し、米子藩が立藩される。一忠は吉川広家が着手していた築城事業を引き継ぎ、慶長7年(1602年)頃には五重の大天守と四重の副天守を持つ壮麗な城郭を完成させた。米子城は全国的にも珍しい双頭の天守を持つ城であったとされる。
しかし、中村一忠は幼少であり、藩政を巡る「横田騒動」を経て、慶長14年(1609年)に20歳で急死し、中村家は断絶。米子藩は短期間で廃藩となる。その後、加藤貞泰が短期間城主を務めた後、寛永9年(1632年)からは鳥取藩主池田家の家老である荒尾成利が米子城預かりとなり、以降、明治維新まで荒尾氏が代々米子城代を務めることとなる。この荒尾氏による統治は「自分手政治」と呼ばれ、米子のその後の発展に大きな影響を与えた。
中海と街道が結んだ商都の条件
米子の地が商都として発展した背景には、その地理的条件と、荒尾氏の「自分手政治」が大きく関わっている。まず地理的な要素として、米子は中海に面した港町である。中海は日本海と境水道で繋がり、さらに大橋川を通じて宍道湖とも繋がる汽水湖であり、古くから水上交通の要衝であった。米子湊には多数の廻船が出入りし、北前船の寄港地としても栄えたという。
また、陸路においても、米子は山陰道と出雲街道、さらに境港へと通じる境港往還が交差する交通の要所であった。これらの街道が交わることで、米子は物流の結節点となり、人や物資の往来が活発化した。
そして、荒尾氏の「自分手政治」が、米子を商業都市へと導く決定的な要因となる。鳥取藩の筆頭家老である荒尾氏は、米子に常駐することは稀で、実質的に城下町を治めていたのは藩から派遣された家臣と荒尾氏の家来たちであった。このため、城下を統治するためには町人の経済力に頼らざるを得ない状況が生まれたとされる。この特殊な統治形態は、政治都市としての鳥取城下とは対照的に、米子湊を中心とした商業都市としての発展を促した。
加茂川沿いには、廻船問屋の後藤家住宅(国の重要文化財)など、豪商の屋敷や土蔵が立ち並び、往時の繁栄を今に伝えている。こうした背景から、米子の町では自由闊達で進取の気性に富んだ商人が育まれ、「山陰の大阪」と称されるほどの商業都市へと成長していったのである。
他の城下町との比較から
米子の歴史を考える際、近隣の城下町との比較は、その独自性を浮き彫りにする。同じ山陰地方には、松江藩の城下町である松江や、鳥取藩の藩庁が置かれた鳥取がある。松江もまた宍道湖と中海を結ぶ水運の要衝に位置し、城下町として栄えた点では米子と共通する。しかし、松江が藩主直轄の政治・文化の中心地として発展したのに対し、米子は鳥取藩の家老である荒尾氏の「自分手政治」という間接統治のもと、より商業に特化した発展を遂げた点が異なる。
鳥取市が因幡国の中心として政治都市の性格を強く持っていたのに対し、米子市は伯耆国の中心として経済都市の意味合いが強かったとされている。同じ鳥取県内であっても、その発展の軸が異なっていたのだ。米子の豪商たちが藩の財政を支える形で力を持ち、それが自由な商業活動を促進したという構造は、他の直轄城下町では見られにくい特徴だろう。
また、米子の旧市街地は江戸時代から大きな区画整理がなく、大火や戦火に見舞われることもなかったため、全国的にも珍しく当時の小路が点在し、城下町の構造がよく残されているという。しかし、一方で往時の建物自体は加茂川沿いの一部を除いてほとんど残っていない。これは、他の地域で歴史的町並みが保存されている事例と比較すると、米子の発展が必ずしも「古いものを残す」ことに重きを置いてこなかった側面を示唆しているのかもしれない。
鉄道が変えた町の重心
明治時代に入ると、米子の商業はさらなる変化を経験する。海運が中心だった時代、米子の商業の中心地は加茂川に架かる京橋周辺であった。廻船問屋などが軒を連ね、活気にあふれていたという。しかし、明治35年(1902年)11月1日、山陰地方で初めての鉄道が境港から御来屋間で開通すると、米子の交通と商業の重心は大きく動き始める。
鉄道の開通当初は、煙による火事の懸念などから人家から離れた場所に停車場が設けられた。しかし、その後、米子駅を中心とした新しい市街地が形成され、明治45年(1912年)には京都駅から出雲今市駅(現在の出雲市駅)まで山陰本線が全通。これにより、海運から鉄道へと交通手段の主役が交代し、米子は山陰の鉄道網の要衝としての地位を確立する。
戦後、米子はいち早く中心市街地に商店が再開し、昭和34年(1959年)には山陰地方で初めてのアーケード商店街が誕生。デパートなどの大型店舗も進出し、商業都市としての発展を加速させた。現在も米子市は、山陰本線、伯備線、境線の3路線が通る鉄道の拠点であり、米子鬼太郎空港や米子自動車道・山陰自動車道も整備され、陸海空の交通の要衝としての役割を担い続けている。
水辺と街道に刻まれた気質
米子の歴史を振り返ると、この地が常に「交通の要衝」であり続けたことがわかる。中海という水辺の恵み、そして山陰道をはじめとする主要街道の交点という地理的条件が、米子の骨格を形成してきた。しかし、単に地理的な利便性だけでなく、戦国時代の争奪戦、そして江戸時代の荒尾氏による「自分手政治」といった独特の歴史的経緯が、米子を他の城下町とは異なる「商都」へと導いた。
藩政が商人の経済力に依存したことで、米子の人々は外部との交流を比較的自由に保ち、進取の気性に富んだ開放的な気質を育んできた。これは、城下町でありながら殿様が常にいるわけではないという特殊な状況がもたらしたものでもある。
現代において、米子城の天守は失われ、かつての商業の中心地も鉄道駅前へと移り変わった。しかし、中海に面し、大山を望むその立地は変わらず、鉄道と道路が交錯する交通の要衝であり続けている。この土地が持つ本来の条件と、それに応じ柔軟に変化を遂げてきた人々の気質が、今日の米子という都市の姿を形作っていると言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。