2026年5月18日
呼子の捕鯨、網取式で栄えた理由と歴史
イカの活き造りで知られる呼子が、江戸時代に大規模な捕鯨拠点となった歴史を解説。紀州太地から伝わった網取式捕鯨の技術、唐津藩の庇護、恵まれた立地、そして中尾家などの鯨組の組織力が、この地の発展を支えた。
呼子、鯨の海を望む
唐津湾の北部に突き出す呼子の港に立つと、潮の香りの奥に、どこか重い歴史の気配を感じることがある。イカの活き造りで全国に知られるこの町が、かつて日本の捕鯨の中心地の一つであったことを知る者は、今では多くないかもしれない。鯨組主中尾家屋敷を訪れた際、その広大な敷地と残された資料から、この地が単なる漁村ではなかったことを改めて認識した。なぜ、この静かな港町が、江戸時代を通じて大規模な捕鯨の拠点となり得たのか。その問いは、呼子の歴史を紐解く上で避けて通れない出発点となるだろう。
鯨組が拓いた肥前の海
呼子における組織的な捕鯨の歴史は、江戸時代初期に遡る。特に「網取式捕鯨」と呼ばれる大規模な手法が確立されると、その規模は飛躍的に拡大した。呼子では、寛永年間(1624-1644年)に、中尾家と並ぶもう一つの有力な鯨組であった深澤家が、当時先進的だった紀州太地(現在の和歌山県太地町)から網取式捕鯨の技術を導入したとされる。この技術は、複数の船団で鯨を網に追い込み、銛で仕留めるというもので、従来の「突取式」に比べ、はるかに効率的かつ安全に多数の鯨を捕獲することを可能にしたのだ。
呼子の捕鯨は、唐津藩の庇護のもとで発展した。藩は捕獲された鯨の一部を「御上り鯨」として徴収し、重要な財源とした。鯨組は藩から捕鯨権を与えられ、周辺海域での操業を独占的に許されたのである。中尾家は、深澤家とともに呼子を代表する鯨組として、その技術と組織力を高めていった。彼らは捕鯨船団の編成、漁場の選定、捕獲後の解体・加工、そして鯨肉や鯨油の流通に至るまで、捕鯨に関わる全ての工程を統括する巨大な組織を築き上げた。その最盛期には、一頭の鯨の捕獲に数百人もの人々が関わり、漁期の間は町全体が捕鯨を中心に動いていたという。
恵まれた立地と組織の力
呼子が捕鯨の拠点として栄えた背景には、いくつかの要因が複合的に絡み合っている。まず、地理的な条件が挙げられる。呼子沖は、対馬暖流に乗って回遊する鯨の通り道にあたり、特に冬から春にかけては多くの鯨が訪れる好漁場であった。さらに、呼子の港は玄界灘に面しながらも、周囲を島々に囲まれ、荒天時にも船団を安全に停泊させることのできる天然の良港であったことも大きい。網取式捕鯨は、網を仕掛けるために穏やかな海域が必要であり、呼子の地形はその条件を満たしていたのだ。
次に、高度に組織化された鯨組の存在が不可欠であった。中尾家のような鯨組は、単なる漁業集団ではなく、資金調達、技術開発、人材育成、そして流通ネットワークの構築までを担う複合企業体であった。彼らは、勢子舟(せこぶね)と呼ばれる小型の追い込み船、突取舟(つきとりぶね)と呼ばれる銛打ち船、そして鯨を絡めとる大網を積んだ網舟など、多種多様な船団を指揮した。鯨組の従業員は、漁師だけでなく、網師、銛師、解体工、加工職人、さらには帳簿付けを行う事務方まで多岐にわたり、それぞれが専門的な役割を担っていた。捕獲された鯨は、鯨肉として消費されるだけでなく、鯨油は灯火や潤滑油として、骨やヒゲは加工品として利用され、余すところなく活用されたのである。この徹底した資源利用と、それを支える組織力が、呼子の捕鯨を支える原動力となったのだ。
