2026/6/14
なぜ函館の星形城郭は「ヴォーバン方式」で築かれたのか

五稜郭について詳しく教えて欲しい
キュリオす
黒船来航後の国防強化のため、函館に日本初の西洋式星形要塞「五稜郭」が築かれた。蘭学者・武田斐三郎が最新の軍事思想「ヴォーバン方式」を基に設計し、死角のない交錯射撃を可能にする構造が特徴である。
星形要塞が北の大地に刻んだもの
函館の街を見下ろす五稜郭タワーの展望台から、眼下に広がる星形の城郭を見たとき、多くの人がまず抱くのは「なぜ、この北の地に、これほど特徴的な西洋式の要塞が築かれたのか」という問いではないだろう。雪に覆われた冬にはその幾何学的な美しさが際立ち、桜が咲き誇る春には、かつての厳めしい軍事施設であったことが信じられないほどの穏やかな風景となる。しかし、その独特な形状は、単なる美しさのためではなく、切迫した時代の要請と、当時の最新の軍事思想が結実した結果であった。この星形の城郭は、日本の近代化の胎動期、そして激動の幕末史を象徴する存在として、北の地に静かに横たわっている。
黒船来航と北辺の防衛線
五稜郭が築かれた背景には、江戸時代末期の国際情勢が大きく関わっている。1853年(嘉永6年)の黒船来航以降、日本は欧米列強からの開国要求に直面し、国防体制の強化が喫緊の課題となった。特に蝦夷地(現在の北海道)は、ロシアの南下政策の脅威にさらされており、その防衛は幕府にとって喫緊の課題であった。1854年(安政元年)に日米和親条約が締結され、箱館(現在の函館)が開港されると、幕府は箱館奉行所を設置し、外国との交易と北辺防衛の拠点とした。しかし、従来の奉行所は防御施設としては不十分であり、開港場防衛のための新たな要塞建設が計画されたのである。
この計画を主導したのは、箱館奉行として蝦夷地を統治した竹内保徳や村垣範正らであった。彼らは、箱館の地勢を考慮し、当時最新の西洋式築城術を取り入れることを決断する。設計を任されたのは、蘭学者の武田斐三郎である。武田は、オランダの築城書などを参考に、ヨーロッパで発展した「ヴォーバン方式」と呼ばれる星形要塞の築城術を研究した。その思想は、フランスの軍事技術者セバスチャン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンが確立したもので、死角をなくし、効率的な砲撃を可能にする点に特徴があった。築城は1857年(安政4年)に着工され、幕府の財政難や厳しい気候条件の中、約7年の歳月をかけて1864年(元治元年)に完成した。当初の計画ではさらに大規模なものとなる予定だったが、財政と時間の制約から、現在の規模に落ち着いたと言われている。この要塞は、箱館奉行所の移転先としても機能し、蝦夷地の政治・軍事の中心となった。
砲火を交錯させる幾何学
五稜郭の最も特徴的な点は、その星形の平面構造にある。これは、当時の最新の軍事技術である大砲の攻撃に対応するために考案された防御システムであった。従来の日本の城郭が、石垣や天守閣といった垂直方向の防御を重視していたのに対し、五稜郭は水平方向の防御に重点を置いている。星形の角にあたる「稜堡(りょうほ)」は、隣接する稜堡からの側面援護射撃、すなわち「交錯射撃」を可能にする。これにより、敵兵が堀を越えて土塁に取り付こうとしても、どこからも死角なく銃砲による攻撃を受ける構造となっていた。
さらに、要塞の周囲には幅約30メートルの広大な堀が巡らされ、その外側には半月形の「半月堡(はんげつほ)」が配置された。この半月堡は、主郭への直接的な攻撃を防ぐとともに、敵が堀を渡る際の足止め役も果たした。土塁の高さは、砲弾の威力を吸収するために低く抑えられ、内部からの砲撃に適した傾斜がつけられていた。土塁の上には、兵士が身を隠しながら射撃できる胸壁が設けられ、防御側の兵が有利に戦えるよう設計されていたのである。このような構造は、石垣を主体とする日本の城郭とは根本的に異なり、「砲弾の時代」に対応すべく考案された築城術であった。五稜郭は、単に西洋の設計図を模倣しただけでなく、日本の地形や当時の技術水準を考慮し、武田斐三郎が工夫を凝らして完成させた、日本初の西洋式城郭として評価されている。
伝統と革新の対比
五稜郭のような西洋式要塞は、日本の築城史において異質な存在である。日本の城郭は、古くから地形を巧みに利用し、石垣や堀、複雑な曲輪配置によって敵の侵入を阻むことを目的としてきた。例えば、姫路城に代表されるような近世城郭は、高大な石垣と壮麗な天守閣によって権威を示しつつ、狭い通路や枡形虎口といった構造で敵を内部で分断し、各所で集中攻撃を加えることで防御力を高めていた。これに対し、五稜郭は防御の思想が根本的に異なる。権威の象徴としての天守は存在せず、外周の土塁と堀、そして砲火の交錯によって、広範囲にわたる敵の進攻を阻止することに特化しているのだ。
しかし、五稜郭だけが日本における西洋式築城の試みだったわけではない。幕末期には、江戸湾防衛のために品川台場が築かれたり、長崎には高島炭鉱の砲台など、各地で西洋式の技術を取り入れた防御施設が建設されている。これらは、既存の日本の城郭を改修するのではなく、全く新しい概念に基づいて設計された点が共通している。五稜郭がそれらと異なるのは、単なる砲台ではなく、奉行所を内包する行政拠点としての機能も持ち合わせていた点だろう。つまり、防御力だけでなく、居住性や統治機能も兼ね備えた「城塞都市」に近い性格を持っていたのである。それは、西洋式の軍事技術を導入しつつも、日本の社会システムの中にいかに組み込むかという試行錯誤の跡を示していると言える。
戦いの記憶を抱く公園
五稜郭は、築城からわずか数年後の1868年(明治元年)から1869年(明治2年)にかけて繰り広げられた箱館戦争の舞台となった。戊辰戦争の最終局面において、旧幕府軍が蝦夷地を占領し、「蝦夷共和国」を樹立した際、その本拠地として利用されたのである。榎本武揚や土方歳三らが率いる旧幕府軍は、この要塞に立てこもり、新政府軍と激しい攻防を繰り広げた。しかし、圧倒的な兵力と近代兵器を持つ新政府軍の前に、五稜郭はついに陥落し、蝦夷共和国はわずか半年で瓦解した。五稜郭は、その設計思想とは異なり、外国からの攻撃ではなく、日本国内の内戦においてその防御力が試されることになったのである。
戦後、五稜郭はしばらく放置された後、1914年(大正3年)に「五稜郭公園」として一般に開放された。現在では、春には約1600本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所として知られ、多くの観光客が訪れる。堀ではボート遊びができ、かつての箱館奉行所は2010年(平成22年)に復元され、当時の姿を偲ぶことができる。また、要塞の外周には散策路が整備され、市民の憩いの場となっている。1952年(昭和27年)には国の特別史跡に指定され、その歴史的価値が認められている。五稜郭タワーからの眺めは、そのユニークな形状を一望できる絶好のポイントであり、多くの人々がその歴史と景観に触れることができる。
防御を超えた「形」の継承
五稜郭が示すのは、単に西洋の軍事技術が日本に導入されたという事実だけではない。それは、激動の時代において、日本がどのようにして世界と向き合い、自国の防衛と近代化を図ろうとしたか、その試行錯誤の痕跡を今に伝えるものだ。本来、外敵からの防衛を目的とした要塞が、内戦の舞台となり、最終的には平和な公園として人々に親しまれているという経緯は、歴史の皮肉とも言えるだろう。
しかし、その星形という独特の「形」は、時代を超えて人々の記憶に残り続けている。それは、軍事的な合理性から生まれた機能美でありながら、同時に北の地に刻まれた異文化との出会い、そして新しい時代への適応の物語を象徴している。五稜郭は、その堅牢な防御構造が実際に果たした役割以上に、日本の近代化の過程で生まれた数少ない西洋式城郭として、その存在自体が歴史の転換点を示す指標となっているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 五稜郭の戦い(箱館戦争)古戦場:北海道/ホームメイトtouken-world.jp
- 函館に歴史を刻んだ偉人③武田斐三郎 | 特集一覧 | はこぶらhakobura.jp
- 五稜郭の歴史と縄張り・石垣/ホームメイトhomemate-research-castle.com
- 箱館戦争と西洋式銃(鉄砲)/名古屋刀剣博物館・名古屋刀剣ワールドmeihaku.jp
- 五稜郭の歴史(築造から大政奉還) | 函館市city.hakodate.hokkaido.jp
- 文化財デジタルコンテンツダウンロード機能cb.bunka.go.jp
- 英語ページ – 箱館奉行所hakodate-bugyosho.jp
- emb-japan.go.jpfr.emb-japan.go.jp