2026/5/23
讃岐国はなぜ「上国」と呼ばれたのか?古代から平安時代の発展を辿る

讃岐国の歴史について詳しく知りたい。古代から平安時代まで。
キュリオす
讃岐国は旧石器時代から豊かな生活が営まれ、律令制下で「上国」と評されるほど発展した。海上交通の要衝としての立地、塩や海産物の産業、そして空海による満濃池改修などの土木技術が、その豊かさを支えた。
瀬戸内海に面した香川県、その古称である讃岐国は、地形図を広げると、南北に走る讃岐山脈と、その北側に広がる狭い平野、そして多島美を誇る瀬戸内海という特異な姿を見せる。この地を古代から平安時代にかけて訪れた人々は、何を思い、どのようにこの土地と関わったのだろうか。なぜ、この平野は古くから開発が進み、「上国」と評されるほどの豊かさを築けたのか。その問いは、波穏やかな海と、その背後に控える山々が織りなす、この土地ならではの歴史を紐解くことから始まる。
讃岐の歴史は、旧石器時代に遡る。この地でしか産出されないとされるサヌカイトは、石器の材料として瀬戸内海沿岸に広く流通していたという。弥生時代後期には、現在の善通寺市にあたる地域に吉野ヶ里遺跡に匹敵する規模の集落跡が確認されており、古くから豊かな生活が営まれていたことがうかがえる。 古墳時代には積石塚古墳が多く築かれ、特に全国的にも珍しい双方中円墳(キャンディーのような形)が讃岐の特徴として挙げられる。
大和朝廷の支配が強まるにつれて、讃岐にも国造が置かれ、凡氏、綾氏、佐伯氏といった有力豪族がこの地を治めていた。 白鳳・飛鳥時代という早い時期から多くの寺院が建造されており、畿内中央部を除けばその数は突出していたという。 また、都へ瓦を納めていた記録もあり、瀬戸内海の重要な航路拠点として、高い文化レベルを保持していたことが窺える。
大化の改新(645年)を経て、律令制が導入されると、讃岐は「讃岐国」として確立された。 『延喜式』では「上国」とされ、これは当時の国家にとって重要な位置づけにあったことを示している。 国府は阿野郡(現在の坂出市府中町)に置かれ、国分寺・国分尼寺は高松市国分寺町に建立された。 国府は都から派遣された国司が政務を執る場所であり、約400人もの役人が働く官庁街であったとされる。 讃岐国分寺跡は、創建当時の伽藍の様子が良好に保存されており、四国で唯一の特別史跡に指定されている。 奈良の唐招提寺金堂と同規模の金堂が推定されるなど、その規模は壮大であった。
平安時代初期には、讃岐国那珂郡(現在の香川県善通寺市)に弘法大師空海が誕生した。 15歳で上京し大学寮に入るも、仏教に専念するため退学。31歳で遣唐使として唐に渡り、密教を学んで帰国後、真言宗を開いた。 空海は故郷の治水事業にも貢献し、弘仁12年(821年)には決壊した満濃池の改修を指揮し、わずか3ヶ月余りで完成させたという。 彼が採用したアーチ状の堤防や護岸を強固にする技術は、唐で学んだ先進的な技術が活かされたものと考えられている。 この満濃池は、1200年経った今も使われ続けている。
また、平安時代には菅原道真が讃岐守として4年間赴任している。 彼が残した多くの詩は、当時の讃岐国の状況を知る上で貴重な資料となっている。
讃岐国が古代から平安時代にかけて「上国」と称されるほどの発展を遂げた背景には、地理的条件とそれに起因する経済・文化活動が深く関わっている。まず、瀬戸内海に面した立地は、古くから海上交通の要衝としての役割を担ってきた。 瀬戸内海は一見穏やかに見えるが、実際には潮の流れが速く危険な海域も多く、航海の知識と技術が不可欠であった。 しかし、この海路は畿内と九州を結ぶ主要な交通網として機能し、讃岐は備讃瀬戸の要地として、人や物の往来の中継点となっていた。
経済面では、平野部での米作りの発展に加え、塩の生産が重要な産業であった。沙弥島(さみじま)のナカンダ浜は、製塩遺跡の地として知られている。 また、瀬戸内海の豊富な海産物も生活を支え、交易品となっていたと考えられる。律令制下では、調として絹や塩、雑器を、庸として米や韓櫃(からびつ)などを納めていた。 中男作物には黄蘗(きはだ)なども含まれており、多様な産物があったことがうかがえる。
文化面では、畿内に近い地理的条件から、中央の文化が比較的早く伝播した。白鳳・飛鳥時代から多数の寺院が建立されたことは、その好例である。 讃岐国分寺の瓦が都に納められていたことからも、高い技術力と文化水準を有していたことがわかる。 また、弘法大師空海の誕生は、讃岐の仏教文化に決定的な影響を与えた。満濃池の改修に見られるように、土木技術や教育事業にも多大な功績を残し、その教えは深く根付いていった。
行政の中心としての国府は、単なる役所ではなく、条里制と呼ばれる碁盤の目のような地割の施工や、溜池や河川の改修といった公共事業を積極的に行い、讃岐の国づくりを進める役割を果たした。 これは、讃岐が古くから旱魃に苦しむ土地であったことと無関係ではない。 溜池の造成は、この地の農業生産を支える上で不可欠な営みであった。
古代から平安時代にかけての日本の地方行政区分である令制国は、全国を五畿七道に分け、それぞれに国司を派遣して統治した。 その中で讃岐は南海道に属し、伊予、阿波、土佐といった他の四国諸国と並び称されたが、その実態には独自の特色が見られる。
例えば、畿内からの距離という点では、讃岐は四国の中でも最も畿内に近い位置にあった。この地理的優位性は、中央からの情報や文化、技術の流入を促進した。白鳳・飛鳥時代に畿内中央部を除けば突出して多くの寺院が建造されたこと や、都へ瓦を供給していたこと は、その証左である。他の四国諸国が、より山深く、あるいは太平洋に面した地理的条件から、畿内との直接的な交流に制約があったのと比較すると、讃岐の瀬戸内海を介した開かれた性格が際立つ。
また、讃岐の特筆すべき点は、その水利条件から来る溜池文化の発展である。 「うどん県」として知られる現代の香川県が、古くから少雨に悩まされてきた歴史は、古代にまで遡る。このため、大規模な溜池の造成が各地で行われ、特に空海による満濃池の改修は、その技術的・社会的重要性において他の追随を許さない。 他の豊かな平野を持つ国々が、自然の河川を利用した水利に依存していたのに対し、讃岐は人工的な水利施設を高度に発達させることで、農業生産を安定させた。これは、厳しい自然条件を克服し、持続可能な社会を築こうとする、この地の先人たちの知恵と努力の結晶と言えるだろう。
さらに、讃岐は古代豪族の系譜において、明法道(律令を講義する学問)の学者を輩出した讃岐氏の存在が挙げられる。 律令国家の運営に不可欠な法学の知識を持つ氏族が、地方の国から中央で活躍したことは、讃岐が単なる辺境の地ではなく、中央政権との深い結びつきを持っていたことを示している。これは、例えば律令制下で独自の文化を育んだ出雲や、軍事的な要衝であった九州の諸国とは異なる、知識・文化面での貢献という点で、讃岐のユニークな側面を示している。
これらの比較から見えてくるのは、讃岐が単に地理的に畿内に近かっただけでなく、その地理的条件を最大限に活用し、厳しい自然環境を技術と知恵で克服しながら、中央との密接な関係を築き、独自の文化と産業を発展させてきた「上国」としての姿である。
古代から平安時代にかけて讃岐国が築き上げた基盤は、現代の香川県にも色濃くその痕跡を残している。まず、香川県を代表する風景の一つである「ため池」の多さは、古代から続く水不足との戦いの歴史を物語っている。 空海が改修した満濃池は、現在もその姿をとどめ、地域の水がめとして重要な役割を果たし続けている。 その堤防が1200年もの時を超えて現役であるという事実は、当時の土木技術の高さと、それを支えた人々の労力を現代に伝えている。
また、律令制下の讃岐国の中心であった国府や国分寺の跡は、現在も史跡として大切に保存されている。 坂出市府中町に推定される讃岐国府跡は、2020年に国の史跡に指定され、発掘調査が現在も進められている。 広大な敷地からは、当時の建物群や貴重な出土品が見つかっており、古代の官庁街の様子を今に伝えている。 高松市国分寺町にある讃岐国分寺跡は、四国で唯一の特別史跡であり、奈良時代の伽藍の礎石が良好な状態で残る。 現代の国分寺は四国八十八ヶ所霊場の札所として、多くの巡礼者が訪れる場所となっており、古代の信仰が現代にも受け継がれていることを示している。
さらに、弘法大師空海ゆかりの寺院は、香川県内に数多く点在している。彼の生誕地とされる善通寺は、四国八十八ヶ所霊場の第75番札所であり、真言宗の総本山の一つとして、多くの参拝者を集めている。 これらの寺院は、単なる観光地としてではなく、古代の仏教文化や空海の教えが、今も人々の精神的な拠り所となっていることを示している。
「東讃」「中讃」「西讃」といった現代の地域区分も、古代の郡名に由来するものがあり、歴史の連続性を感じさせる。 古代の道や集落の痕跡は、地名や地形の中に静かに息づき、現代の風景の中に古代の面影を読み取ることができる。これらの遺跡や文化財は、過去の讃岐の人々の営みや思いを、現代に伝える貴重な宝なのである。
讃岐国が古代から平安時代にかけて築き上げた歴史をたどると、単なる地方の一国という枠には収まらない、多層的な姿が見えてくる。柿本人麻呂が「玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き」と詠んだとされるように、この地は古くからその風土が人々に称賛されてきた。
瀬戸内海という地理的条件は、時に厳しい航海を強いる一方で、畿内と西国を結ぶ重要な動脈として、讃岐に経済的・文化的な恩恵をもたらした。他の内陸の国々が中央との交流に陸路の制約を受けていたのに対し、讃岐は海を介して、より広範な情報や技術を取り入れることができた。これは、白鳳・飛鳥時代に都へ瓦を納めるほどの技術力を持ち、畿内中央部を除けば突出して多くの寺院を建立できた背景の一つだろう。
また、旱魃という自然の厳しさに直面しながらも、それを克服するために溜池の造成という大規模な土木事業を推し進めたことは、この地の住民が持つ実直さと協調性を示している。空海による満濃池の改修は、その象徴的な出来事であり、単なる治水事業を超えて、人々の生活と精神を支える基盤となった。
讃岐の歴史は、中央の律令国家体制に組み込まれながらも、その地理的・自然的条件を最大限に活かし、独自の発展を遂げてきた過程である。明法道の学者や弘法大師空海といった傑出した人物を輩出したことは、この地が単なる地方の拠点ではなく、中央の文化や学術、信仰に大きな影響を与える力を持っていたことを物語っている。 讃岐の歴史は、瀬戸内海の波間に、そして讃岐平野の風の中に、今も静かにその軌跡を刻み続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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