2026年5月19日
古代日本は百済・新羅の人々をどう受け入れてきたのか。今でも根差している文化は?
古代日本は、朝鮮半島の戦乱を背景に渡来した百済や新羅の人々を、高度な知識や技術を持つ「技能集団」として積極的に受け入れた。彼らがもたらした漢字、仏教、建築、工芸などの技術や文化は、現代の日本社会の基盤となり、風土に深く溶け込んでいる。
淀んだ池に映る遠い影
飛鳥の里を歩くと、見慣れた日本の風景の中に、どこか大陸的な匂いを感じることがある。伽藍の配置、瓦の文様、あるいは石造りの遺構に見え隠れする異国の意匠。これらは一体いつ、どのような経緯でこの地に根付いたのだろうか。特に、古代日本が朝鮮半島の百済や新羅の人々をどのように受け入れ、彼らがもたらした文化が現代にまでどのような痕跡を残しているのか、その問いは日本の成り立ちを考える上で避けて通れない。単なる技術伝来の物語ではなく、人々の移動と定着、そして文化が混じり合う複雑な過程を紐解く必要があるだろう。
大陸の波とヤマトの思惑
古代日本への渡来人の流入は、主に古墳時代中期から飛鳥時代にかけて活発であった。特に朝鮮半島の国家が激しく興亡を繰り返した5世紀から7世紀にかけて、その波は大きくなった。ヤマト政権は、朝鮮半島南部の諸国、特に百済と密接な関係を築いていた時期がある。百済は高句麗や新羅との抗争の中で、ヤマト政権に軍事的な支援を求める一方で、先進的な文化や技術の伝播を通じて関係を深めていったのだ。
渡来人の多くは、朝鮮半島の戦乱や政治的変動を背景に日本列島へ渡ってきた。彼らは単なる難民ではなく、高度な知識や技術を持った集団だった。応神天皇の時代には、百済から阿直岐(あちき)や王仁(わに)が来朝し、漢字や儒教を伝えたと『日本書紀』や『古事記』は記している。これは後の律令国家形成の基盤となる知識であり、ヤマト政権が彼らを積極的に招き入れた理由の一つであった。また、雄略天皇の時代には、養蚕や機織りの技術を持つ人々が百済から渡来し、秦氏の祖となったという伝承もある。
決定的な転換点の一つは、660年に百済が唐・新羅連合軍によって滅亡したことだろう。この時、多くの百済貴族や官人、技術者らが日本へ亡命し、ヤマト政権は彼らを厚く保護した。663年の白村江の戦いでは、日本は百済復興のために出兵するも敗北。この結果、さらなる百済からの亡命者が日本へ流入した。彼らは筑紫(現在の九州北部)や瀬戸内海沿岸、そして畿内各地に配置され、その知識と技術は日本の防衛体制強化や文化発展に大きく寄与した。新羅が朝鮮半島を統一した後も、一部の新羅系の人々が日本へ渡来し、特に仏教文化の発展に貢献したとされる。
