2026年5月18日
なぜ福岡市には「博多」と「福岡」の二つの地名があるのか
福岡市には「福岡市」と「博多駅」のように二つの地名が共存する。本記事では、古代からの港町「博多」と、江戸時代に築かれた城下町「福岡」の成り立ちの違い、そして明治維新後の市名決定の経緯を解説し、二重の地名が都市の歴史とアイデンティティを物語る様を明らかにする。
那珂川を挟む二つの名、その淵源を辿る
福岡の街を歩くと、「福岡」と「博多」という二つの名が、様々な場所で顔を出すことに気づく。市の名前は「福岡市」でありながら、玄関口たる駅は「博多駅」と称し、名物には「博多ラーメン」や「博多織」が並ぶ。一体なぜ、一つの都市にこれほどまでに異なる、しかし密接な二つの名称が息づいているのか。その問いは、この土地が歩んできた歴史の層を剥がすように、静かに私たちを誘うだろう。
古代の港から武士の城下へ
「博多」の名が歴史に現れるのは、早くも8世紀に編纂された『続日本紀』において、「博多大津」として記されたのが初見とされる。この頃にはすでに、大陸との交流の窓口として重要な役割を担っていたことがうかがえる。博多港の歴史はさらに古く、紀元1世紀には奴国の王が後漢の光武帝から金印を授かったという記録にまで遡る。7〜8世紀には遣隋使や遣唐使、遣新羅使らが博多港から出発し、その後も日宋貿易、日明貿易の拠点として繁栄を極めた。博多は、外来文化の玄関口として、中世には大商人たちが自治を担う「商人の町」として発展していく。
一方、「福岡」の地名が生まれるのは、それからずっと後の江戸時代初期のことである。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に貢献した黒田長政は、筑前国52万3千石を与えられ、この地に入封した。長政は当初、前領主の居城であった名島城に入ったが、城下の平野が手狭であったため、博多の西隣に位置する福崎の地に新たな城を築くことを決意する。1601年(慶長6年)から7年の歳月をかけて築かれたこの城は、黒田家ゆかりの地である備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)にちなんで「福岡城」と名付けられた。これにより、那珂川を挟んで東に「商人の町・博多」、西に「武士の城下町・福岡」という二つの異なる性格を持つ町が並び立つことになる。
「羽形」と「備前福岡」が交差する
「博多」の名称の由来については諸説ある。地形が鳥の羽を広げたような形に見えることから「羽形(はがた)」が転じたという説、あるいは船が泊まる潟に由来する「泊潟(とまりがた)」が変化したという説、さらには、人や物が多く集まり土地が広々としていることを意味する「広博(こうはく)」に由来するという見方もある。いずれの説も、古くから港として栄え、多くの人や文化が行き交った博多の特性をよく表していると言えるだろう。8世紀にはすでに文献に登場するこの地名は、港湾都市としての長い歴史を物語っている。
