農商務省の官僚だった柳田國男は、どのようにして山村の生活と手仕事を歩いて記録したのか?

官僚と詩人のあわいに立った夏
柳田國男がこの飛騨から越中へと続く峻険な山道の旅に出たのは、一九〇九年(明治四十二年)の五月末から六月初旬にかけてのことだった。兵庫県辻川の地に生まれ、一九〇一年(明治三十四年)に東京在住の旧飯田藩士・柳田家の養嗣子となった彼は、東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省の官僚として日本の農政の最前線に身を置いていた。当時の農商務省は、急速な近代化を進める明治政府の中核として、国家の産業振興を力強く支えるため、全国の農業、林業、水産業の効率化や近代化、新技術の導入を強力に推し進める立場にあった。制度の整備や生産性の向上こそが省の至上命令であり、官僚としての柳田には、そうした国家目線の政策を実行に移すための冷静で合理的な視線が当然のように求められていたのである。
しかし、この時期の柳田は、単なる行政上の実務を処理する官僚という枠組みには到底収まりきらない複雑な内面を抱えていた。青年期から文学に深く傾倒し、島崎藤村や田山花袋らとの交遊を通じて詩人や歌人としての感性を鋭く磨いていた彼は、近代化の荒波と制度設計の効率主義からこぼれ落ちていく山村の独自の生活様式や、名もなき民衆の間で細々と語り継がれてきた古い伝承、土地特有の言い回しや感覚に強く惹きつけられていた。国家の近代化が推し進められる一方で、その影で急激に姿を消そうとしている古い日本の生活の基盤や人間の営みに対して、深い哀惜と学問的な関心を同時に寄せていたのである。
彼が選択した旅の行程は、近代的な交通網の発達からは遠く取り残された過酷な山岳地帯を歩破するものであった。一九〇九年五月三十日、柳田は木曽の王滝村を出発し、険しい鞍掛峠を越えて飛騨の国へと足を踏み入れた。険路を歩み進めた彼は、六月一日には山間の要衝である高山の町に無事到着している。高山に滞在した六月二日、柳田は街区をくまなく巡ってその風情を見物し、古い薬種屋に立ち寄って山間部ならではの生薬である熊胆を買い求めている。街の歴史や庶民の交易のあり方に触れた後、六月三日の早朝、高山を出発した柳田は、さらに奥深い山城の地を目指して歩を進めた。郡上街道を辿って三日町まで進み、そこから右に折れて牧ヶ洞から小鳥峠(彼の travel note である本文中では「牧ヶ洞の峠」と記載されている)へと足を踏み入れたのである。
峠の厳しい登りを経てそれを下り、夏厩の集落へと入ると、そこには都ではとうに過ぎ去ったはずの四月頃のみずみずしい若葉がまだ一面の山々を覆い尽くしており、しんとした山気の中に時鳥の澄んだ啼き声が響き渡っていた。都の季節の移ろいとは全く異なる山村の遅い春の気配に包まれながら歩を進める中で、上小鳥の地では、激しい谷川の水力を巧みに利用して板を挽く小さな小屋や、山から採集した黄檗の皮を鍋で煮出す製薬・染色のための小さな作業小屋を観察する。さらに松ノ木峠という険しい峠を越え、午後四時前という早い時刻には六厩の集落へと到達した。高山を出発してから六厩に至るまでの距離は実に約八里、現代の単位にして三十キロメートルを超える過酷な山道であり、この長距離を一日で破破したという事実からは、彼がいかに強靱な脚力と俊足をもって山々を歩き通していたかが極めて鮮明にうかがえる。
六厩の集落をあとにし、さらに先にある軽岡峠にかかる頃、山間の気候は急変して激しい雷雨が彼を襲った。天候の荒れ狂う中、峠を下って三尾河、一色、総則、猿丸、新淵へと次々に集落を通り抜けて進むにつれ、山肌を削って流れる荘川の流れは次第に幅を広げて太くなり、その波立つ淵にはマスを捕らえるための伝統的な竹籠が仕掛けられているのが見えた。雨に濡れながら歩き続けたその夜、柳田は荘川の地に佇む運送屋の奥座敷に身を寄せ、静かに宿をとったのである。
その後、旅を続けた柳田は六月五日に白川村に達し、急流として知られる庄川の谷沿いに北上を続け、飛騨と越中の境をなす境界の川・境川を越えて富山県の五箇山へと足を踏み入れて抜けていく。この飛騨・越中への過酷な旅路を完遂した翌年である一九一〇年(明治四十三年)、柳田はあの日本民俗学の金字塔となる『遠野物語』を世に送り出すことになる。『木曽より五箇山へ』に記録された歩行と観察の軌跡は、後年の日本民俗学の創始者が、自らの学問としての思想や調査手法の形を本格的に確立する直前の時期に残した、きわめて重要な過渡期の足跡だったのである。
薙畑の煙と頭の上の板
『木曽より五箇山へ』という記録の中に緻密に描き出されているのは、旅情を誘うような観光名所の美麗な風景でもなければ、名所旧跡の通り一辺倒な解説でもない。そこに描かれているのは、厳しい自然環境に囲まれた山間部に確かに暮らし、生きている普通の人々の具体的な手仕事であり、土地の傾斜や資源を極限まで活用しようとする土地利用の切実な形態そのものであった。
その観察の筆頭として挙げられるのが、「薙(なぎ)」と呼ばれる山村独特の焼畑農法の精緻な観察である。六厩の集落周辺に差し掛かった際、柳田の目に飛び込んできたのは、急峻な山々の傾斜地を切り拓き、火を放って樹木や草むらを焼き払い、その灰を肥料として作物を力強く育てる農民たちのたくましい姿であった。柳田はこの飛騨の山間地域において、焼畑という行為が単に一般的な農作業としてではなく、「薙」という土地特有の固有の名称で呼ばれていることを聞き留めて現場で確認し、その焼き払われた傾斜地において衣料の原料となる麻が盛んに栽培されている様子を観察してノートに書き留めている。荘川の谷沿いに点在する村々においては、平坦で豊かな田畑はほんのわずかしか存在せず、米や野菜の十分な収穫が望めない環境下にあって、人々の日常の衣料の大部分は、この急傾斜の薙畑で手間暇をかけて収穫された麻の繊維によって自給自足されていたのである。
水資源や森林資源の利用方法に関しても、柳田の観察の目は驚くほど微細かつ具体的に及んでいる。上小鳥の集落で彼が目撃した、急流の水力を動力として利用する挽き物の作業小屋や、山から採取した黄檗の皮を煮出す現場のあり様は、規模こそ小規模でささやかなものではあるが、近代的な工場設備を持たない山村が独自に作り上げ、維持してきた生産基盤の確かさを明確に示していた。また、荘川の深く波打つ川面に巧みに配置されたマス捕りの竹籠や、軽岡峠の激しい雷雨の中で目撃した「頭の上に板を載せて雨をしのぐ」という現地の人々の特異な身振りや所作もまた、同様の価値を持つ観察記録である。そこには、都市部のような近代的な雨具や傘などが容易に手に入らない深い山中において、手近にある森林資材や木板を柔軟に活用し、荒天という自然の脅威に対して身を守りながら適応していく、現地の人々の生々しい生活の工夫と知恵がそのまま鮮明に記録されている。
柳田の観察が同時代の他の記録と較べて著しく際立っているのは、近代国家が作成する制度としての農業統計や行政文書の数字の中には決して表れてこない、生活の生の細部を丁寧に拾い上げている点にある。彼がもし純粋な農商務省の官僚としてのみ現地を訪れ、省に提出するための公式の業務報告書を作成しようとしたのであれば、書かれるべき内容は米の年間収穫量や森林の木材積載量、あるいは道路の改修コストといった数値化可能なデータが重視されたはずであった。しかし、彼が個人的なノートに丹念に書き留めたのは、途中で峠の名を聞きそびれてしまった自らの思慮や、山内に響き渡る時鳥の啼き声、道ばたの傾斜地に広がっていた麻畑の広がり、そして激しい雷雨の夜に身を寄せた荘川の運送屋の奥座敷に漂う独特の気配であった。
こうした一見すると非効率的で個人的な記述の集積は、山村を単なる「未開発の遅れた地域」として一方的に切り捨てるような、中央都市からの高圧的な視線とは明確に一線を画している。柳田は土地の人間が使う生の言葉を慎重に聞き取り、人々の微細な動作や身振りを採集し、それを文字としてノートの上に固定することによって、中央政府の行政文書からは決して見えてこない山村の複雑で豊かな現実をありのままに提示しようとした。後に柳田は、自らが歩き歩破して書き残したこれらの紀行文や観察記録が、いつの日かその土地に暮らす後世の人々によって読まれ、自らの郷土の過去を知るための重要な記録として役立つことを心から願っていたと回想している。文字による独自の文書記録が極めて乏しかった山村地域において、外部から徒歩で訪れた一人の歩行者が残したこの極めて具体的な観察は、そのまま土地の失われた歴史を補完し、証明する貴重な証言となったのである。
頂を目指す登山者、統計を追う官僚
明治時代の末期という時代背景において、日本の山々を自らの足で歩き、そこで得た体験や観察を文章として記録に残すという行為には、大きく分けて二つの主要な潮流が存在していた。一つは、志賀重昂の『日本風景論』の興隆や、ウォルター・ウェストンをはじめとする外国人登山家らの影響を受けて広がった、近代的な登山の潮流である。彼らは前人未到の山頂を目指して力強く登り進み、眼下に広がる雄大な自然の美しさや、過酷な登頂を成し遂げたことによる達成感、あるいは精神的な高揚感を記述の主軸に置いていた。もう一つは、明治政府の殖産興業政策を推進するために全国へ派遣された官僚や技術者たちによる、産業調査や環境測定のための調査旅行である。彼らは山中に埋もれた鉱脈の位置や森林資源の価値、あるいは新しい道路の開設可能性を冷徹に測り、すべてを数値化された統計データや精密な地図の形へと還元することを目的としていた。
しかし、柳田國男が記した『木曽より五箇山へ』は、これら既存のどちらのカテゴリや範疇にも収まらない、独特の立ち位置を占めている。柳田は山頂の征服を目指して高所からの美観や壮大な景観を謳いあげるわけでもなければ、開発可能な経済的資源の数値を無乾燥に並べ立てるわけでもないからである。
たとえば、同時代に盛んに書かれていた一般的な登山記において、山という存在は「人間が克服し制覇すべき壮大な自然」として対象化されており、そこに古くから暮らしている地域住民は、絵画的な風景の一部か、あるいは登頂をサポートするための無名な案内人に過ぎなかった。しかし、柳田の文章において生き生きとした主役として立ち現れてくるのは、軽岡峠の激しい雷雨の中で雨に濡れながら、頭の上に木板を慎重に載せて歩く名もなき村人の姿であり、谷川の急流や木質資源を活用して板を挽く水力小屋の素朴な仕組みそのものであった。彼は山そのものの美的な鑑賞価値や厳しさよりも、山という特異な地理的・自然的条件の制約の中で、生身の人間がどのように知恵を絞り、工夫を凝らして生き抜いているかという点にこそ、最大の関心と焦点を当てていたのである。
一方で、官僚としての彼自身が関わっていたはずの公的な調査報告書と比較してみても、その語り口や関心の向け方は極めて異質であった。明治政府の公文書は、全国一律に定められた近代的な基準や分類にしたがって地域を等しく裁断し、規格化された行政用語を用いて土地の状況を無機質に記述しようとする。だが柳田は、行政用語に回収されない地域固有の呼び名である「薙」という現地語の響きに強くこだわり、道中で峠の名前を聞き逃してしまったという自らの不完全さや旅の隙をも隠すことなく、ありのまま記述の文脈の中に織り込んだ。
さらに、この旅のわずか翌年に執筆されることになる名著『遠野物語』と比較を行ったときにも、きわめて興味深い独特の対比が浮かび上がってくる。『遠野物語』が山人の伝承や山神、怪異や幽霊といった、民間の精神世界や怪異譚の採集に大きく傾斜しているのに対して、『木曽より五箇山へ』の記述は驚くほど即物的であり、地理的な位置関係や山村の産業、日々の手仕事の観察にしっかりと足場を置いている。怪異や奇談の噂が語られるよりも前に、黄檗の煮出し作業や麻の自給生産という、山村の厳粛な経済的基盤が克明に写し取られているのである。伝承や信仰という精神の世界へ深く潜り込んでいく直前の柳田が、まずは現実の山村が立脚している物質的な基盤をいかに冷徹かつ温かい眼差しで観察していたかが、この二つの著作の対比から鮮やかに浮かび上がってくる。
高速道路の下に埋もれた八里
柳田國男が一九〇九年の初夏にかつて自らの足で歩いた、高山から荘川を通り、白川村を経て五箇山へと至る壮大なルートは、現代の日本においては東海北陸自動車道や国道百五十六号線といった、巨大な幹線道路が貫く近代的な交通の要衝へと大きな変貌を遂げている。かつて柳田が強い脚力を駆使して一日で歩き切った高山から六厩に至る約八里(三十キロメートル余り)の険しい山道も、現代においては山腹を貫く無数のトンネルと巨大な高架橋の整備によって、自家用車やバスに乗ればわずか数十分という短い時間で容易に通り過ぎることができるようになった。
途中に立ちはだかる軽岡峠においては、柳田の訪問からほど近い明治四十四年に発行された岡本利平の『飛騨山川』という記録にも記述されているように、後に近代的な技術によって隧道(トンネル)が穿たれ、かつて旅人を苦しめた歩行による峠越えの苦難と難所は、技術の進歩によって完全に解消されることとなった。時代が下るにつれて、六厩や荘川といった集落の風景も劇的な変化を遂げていった。柳田が目撃したような急流の水力を利用した小規模な挽き物小屋や、衣料のための麻を育てる目的で山肌を焼き払っていた薙畑はすでに姿を消し、荘川の集落やかつての耕地の一部は、大規模なダム建設による水没や、近代的な圃場整備事業によってその地形や形状を大きく変化させた。
しかし、現代においてなお現地の谷や峠に足を運び、自らの足で歩いてみると、柳田が残した古典的な記述と深く重なり合う地理的な骨格が、今もなお力強く残されていることに深く気づかされる。庄川の谷沿いに沿って北上を続けるにつれて、両脇の山々が迫って谷が一段と深まり、肌に感じる空気や気候が微妙に変化していく特有の感覚や、山間に僅かに広がる限られた平坦地に張り付くようにして形成された集落同士の位置関係は、百年前の歩行者がノートに刻んだ記述の通りの配置を見せている。
柳田がこの静かな紀行文の記述の中で密かに期待していたのは、後世の時代を生きる地元の人々が、自らの生まれ育った土地の失われた過去を知り、アイデンティティを確認するための確固たる手がかりとなることであった。近代化と経済発展の激しい過程の中で急速に失われていった旧来の生活様式や、地域特有の単語(例えば山を焼く「薙」という言葉や、「麻畑」による自給の営み)は、柳田のように外部から訪れた歩行者が、その細部を漏らさず書き留めていたからこそ、貴重な歴史的記録として今日まで消滅せずに留まることができた。現代において世界的な観光地として美しく整備された白川郷や五箇山の合掌造り集落の背後には、かつて日常的に麻を自給し、過酷な山を焼き、急な雷雨には頭の上に木板を載せて耐え忍んでいた、名もなき無数の人々の泥臭い日常が存在していたのである。
郷土の記録としての歩行
『木曽より五箇山へ』という極めて短い地味な紀行文を改めて注意深く読み直すとき、そこに浮かび上がってくるのは、「旅」という人間の身体的行為が持つ機能そのものの劇的な組み替えである。
柳田國男という一人の人間にとって、地方の山村を巡る旅とは、日々の官務から離れて気晴らしをするための単なる観光旅行でもなければ、中央政府の指導者として高上な立場から地方を査察・指導するための調査でもなかった。彼にとっての旅とは、文字による公式な歴史文書として残りにくい普通の人々——柳田が後にその学問体系の中で「常民」と名付けることになる、市井の無名の人々の慎ましい暮らしの痕跡や生きる知恵を、歩行という自らの身体動作と五感をフルに活用して愚直に採集していく学問的作業そのものだったのである。
自らを優しく包み込む地域社会や生活の集積の中で、人間がいかに生きて自らの存在理由を問い直すかという民俗学的な視点は、彼が飛騨の険しい山道を汗をかきながら歩いていたこの時期において、すでに明確な形をとって芽生えつつあった。彼は机の上で地図を広げ、そこに書かれた既存の文字をただ追うのではなく、現地の現場で直接目撃した黄檗を煮出す煙の臭いや、軽岡峠を襲った激しい雷雨の音、道行く人々が身にまとっていた粗末な麻衣の質感や手触りを、そのまま手元のノートに書き留めた。抽象的な行政論理や大文字で語られる国家の歴史ではなく、地域固有の言葉や地名、そして具体的な手仕事の積層によってこそ、土地の真実の姿を描き出そうと試みたのである。
高山の歴史ある薬種屋で熊胆を買い求め、六厩の急傾斜に広がる薙畑で麻の自給栽培を確認し、荘川の運送屋の静かな奥座敷で雷雨の後に夜を明かした三十四歳の農商務省官僚は、自らの二本の脚で愚直に稼いだ距離と、研ぎ澄まされた鋭い観察力によって、一冊の優れた地域記録を作り上げた。『木曽より五箇山へ』という小さな作品は、のちに広大な日本民俗学という壮大な学問体系を一人で築き上げていくことになる柳田國男が、山村の泥と激しい雨にまみれながら、その確かな第一歩を力強く踏み出した原点の現場を記録した、かけがえのない証言にほかならない。
旅と食が好き。どこにでもいます。