諏訪大社が本殿を持たず、建御名方神の名前の裏で「ミシャグジ」が動いていたのはどういった理由からだったのか?

諏訪湖の南、鳥居の奥に本殿がない理由
諏訪湖の南岸、山裾に広がる諏訪大社上社の境内に入ると、どこか落ち着かない違和感を覚える。重厚な拝殿や「御柱」と呼ばれる巨木が四隅を囲んでいるものの、日本の主要な神社なら必ず存在する「本殿」が見当たらないのだ。一般的には、諏訪大社は社殿ではなく背後の山や御神木を直接拝む、古代の原初的なアニミズムの形を今に残しているからだ、と説明されることが多い。
しかし、中世の古文書や地元の祭礼記録を紐解いていくと、諏訪の神の本質は山や木といった自然物そのものではなく、より異様な人間と精霊の関わりの中に置かれていたことがわかる。かつて諏訪大社上社において最も尊い存在とされたのは、建物ではなく「大祝(おおほうり)」と呼ばれる現人神の少年であった。そして、その生き神の背後で神事のいっさいを仕切り、聖なる力を自在に動かしていたのは、最高位の神官である「神長官(じんちょうかん)」を務めた守矢(もりや)氏である。
守矢氏が取り仕切る密儀において召喚されていたのは、全国的な記紀神話で知られる軍神「建御名方神(タケミナカタノカミ)」ではなかった。彼らが扱っていたのは、「ミシャグジ」と呼ばれる正体不明の力・精霊である。中世の諏訪で書かれた祝詞や文献を精査しても「建御名方神」という神名はほとんど現れず、代わりに「御左口神」や「御作神」といった言葉が記録を埋め尽くしている。
出雲の国譲り神話で建御雷神(タケミカヅチノカミ)に敗れて諏訪へ逃げ込んできたとされる軍神の影で、この土地の祭祀を千年以上も動かし続けていた「ミシャグジ」とは何だったのだろうか。なぜ、大和王権の神話とはまるで異なる神秘的な存在が、諏訪大社の神事の中核に座り続けていたのだろうか。
敗れた豪族と現人神の誓約
諏訪におけるミシャグジの歴史を語る上で避けて通れないのが、二つの氏族の衝突と和解を伝える「入諏(にゅうす)神話」である。
伝承によれば、外から諏訪盆地へ入ってきた諏訪明神(神氏、のちの諏訪氏の祖)が、この地を古くから治めていた地主神の洩矢神(もりやしん、のちの守矢氏の祖)と戦い、これを服属させたという。通常、歴史の中で敗北した側の勢力は抹殺されるか、権力の周縁へと追いやられる。しかし、諏訪上社の祭祀組織においては、極めて歪で合理的な二重構造が成立した。
勝利したとされる諏訪明神の子孫(神氏)は、代々「大祝」として神社最高位の現人神に就任した。伝承では、諏訪明神が8歳の男児に己の着物を授け、「我に体なし、祝を以て体とす」と告げたことが始まりとされる。建武2年(1335年)の記録『大祝職位事書』や、延文元年(1356年)成立の『諏方大明神画詞』にもあるように、数歳から十歳前後の童男が特殊な即位式を経て「生き神」とみなされた。
ところが、この現人神に神霊を降ろし、神事を差配する権限を独占していたのは、敗者である洩矢神の後裔・守矢氏の「神長(神長官)」であった。大祝自身は神事の秘法を一切知らされず、実際の儀礼でミシャグジを降ろし、人に付け、また天へ還す技術は、神長官の一子相伝として固く守られた。権威を担う現人神と、聖なる技術を握る神官。支配する側と支配される側の役割が奇妙に入れ替わったまま、諏訪の祭祀は動き始めたのだ。
ミシャグジという言葉は、表記や発音のバリエーションが非常に多い。守矢氏の古文書では「御左口神」と記されることが多く、『諏方大明神画詞』では「御作神」、他にも「御社宮司」「御射宮司」「御社宮神」「御佐久知神」など、諏訪郡内だけでも百を超える当て字が存在する。土地を開拓・切削する「さく」の言葉に由来するとも、作物を育む「作神」であるとも、あるいは古代の石棒崇拝(ミシャクジン)に由来するとも言われるが、単一の漢字に固定できないこと自体が、その抽象性の高さを物語っている。
南北朝時代から室町時代にかけて、神長官の守矢満実(もりやまざね)は密教や両部神道を取り入れ、ミシャグジ信仰の体系化を図った。彼が著した『諏訪大明神神秘御本事大事』などの奥義書には、ミシャグジを降ろす際の印相や真言が記されている。そこでは「二十の御左口神」が諏訪明神の王子神(御子神)として整理され、さらに「六斎日(ろくさいにち)」の神事においては地獄道や餓鬼道など六道を司る存在として、千手観音や十一面観音といった六観音と習合された。
大和王権が編纂した『古事記』では、建御名方神は大国主神の子として描かれ、力比べに敗れて「諏訪の地から出ない」と誓ったとされる。しかし、地元で実際に神事を執り行っていた神職たちにとって、建御名方神という神名は中央政権に向けた「表向きの看板」に過ぎなかったとされる。土地の信仰の深層では、神長官が自在に操るミシャグジと、大祝という肉体を通した聖なる契約が脈々と息づいていた。
降り、憑依し、送り返される透明な力
では、ミシャグジとはどのような性質を持った存在であり、実際の神事の中でどのように扱われていたのだろうか。
現代の私たちが思い浮かべる神像や社殿に常駐する神とは異なり、ミシャグジの本質は、必要なときに特定の場所へ降ろされ、人や物に定着(「付け」)され、役目を終えれば神返し(「上げ」)される流動的な「力」そのものであった。それを最も鮮やかに示しているのが、中世の諏訪上社で旧暦12月から春にかけて行われていた一連の冬季・春季神事である。
旧暦12月22日、上社前宮の「神原(ごうばら)」と呼ばれる聖地に、古代の竪穴建物を彷彿とさせる「御室(みむろ)」という仮設小屋が造営され、「穴巣始(あなすはじめ)」という籠もり神事が始まった。大祝や神長官、神使(おこう)らが暗い御室に入ると、茅(カヤ)で編まれた3体の小さな草の蛇(そそう神)が納められる。24日夜にはミシャグジを降ろした笹が持ち込まれ、25日には長さ5丈5尺(約16m)、太さ1尺5寸(約70cm)におよぶ巨大な草の蛇体「ムサテ」が御室に引き入れられた。冬眠に入る小さな生命が、ミシャグジの霊力によって一夜のうちに巨大な霊物へと変容・増殖するプロセスを模した儀礼だと考えられている。
年が明けた正月元旦の朝には、諏訪大社七不思議の一つとして知られる「蛙狩(かずがり)神事」が行われる。凍てつく御手洗川から捕らえられた2匹のカエルを小弓と矢で射抜き、大祝の前に供えて神薬とした。同日夜には「御占(みうら)神事」が執り行われ、神長官がミシャグジを降ろして占いを立てた。剣型の板(剣先板)を差し立てた藁馬にミシャグジを宿らせ、1年間の神事費用を負担する「村代神主」14人と、大祝の代理として各地を巡る「神使(おこう)」という6人の童男を選定したのである。
2月に入ると、選ばれた神使たちは新築された「精進屋(お贄場)」に入り、30日間に及ぶ極めて厳重な物忌み生活を送った。神長官は鹿の皮を敷いた場所で神使たちに印相と真言を伝授し、ミシャグジをその身体に「付け」た。精進屋の前に立てられた鳥居型の「御贄柱(おんねばしら)」には、25本の串に刺された膨大な量の鹿肉が吊るし下げられた。
神事のクライマックスは、3月から4月にかけて行われる「春の廻湛(まわりたたえ)」と「御頭祭(おんとうさい)」である。前宮の「十間廊(じゅうけんろう)」には75頭の鹿の頭(御贄鹿)や、ウサギ、キジなどの山海の幸が供えられ、大祝と参列者が共に食す宴が催された。ミシャグジを身体に宿した神使たちは、神長官から誓約の証である鉄鐸(さなぎの鈴)と御杖を受け取り、馬に乗って上社境内の御手祓道を逆回りに走った。その後、諏訪や上伊那の各地に点在する「湛(たたえ)」と呼ばれる巨木や磐座の聖地を巡回し、鉄鐸を鳴らしながら土地の肥沃と豊穣を約束して回ったのである。
巡回を終えた3月下旬、神長官の手によって神使や精進屋からミシャグジが「上げ(神返し)」られ、精進屋は解体された。つまりミシャグジとは、農耕や狩猟の豊かさを土地にもたらすために期間限定で地上へ召喚され、人間や土地と契約を結んだ後に、再び元の世界へと送り返される透明なエネルギーに他ならなかった。
東日本を渡った「シャグジ」と石の記憶
諏訪の地で高度に体系化されたこのミシャグジ祭祀は、他の地域や日本民俗学の中でどのように捉えられてきたのだろうか。
20世紀初頭、民俗学者の柳田國男は1910年刊行の『石神問答』の中で、東日本各地に散在する「石神(シャクジン)」「社宮司」「石神井」「宿神」などの民俗語彙に着目した。また長野県の郷土史家・今井野菊は、長野県内にある750余りの関係社祠をはじめ、山梨県160社、静岡県233社、愛知県229社、滋賀県228社など、中部・関東から近畿に至る広大な分布地図を描き出した。各地では「おしゃもじ様」「しゃごじ」「サグジ」など多様な音で呼ばれ、時に検地縄や長さを測る「尺」の神(尺神)として奉納物を集めていた。
柳田や今井は、こうした東日本に広がる信仰の根元は信州の諏訪にあり、古代の塩の運搬路や交易路(東海道や東山道)に沿って、諏訪のミシャグジ信仰が全国へ派生・流出したのではないかという仮説を提示した。村の境界に祀られて外からの悪霊を遮断する「塞(さい)の神」や道祖神、あるいは縄文時代の石棒を御神体とする石神信仰が、諏訪の神威と結びついて広まったという見方である。
しかし、近年の研究においては、こうした「すべてを諏訪へ集約させる説」に対して慎重な区分がなされるようになっている。東日本各地の村落で見られる性器型の石棒崇拝、境界の石神、安産や咳止めを祈る「おしゃもじ様」といった素朴な民俗信仰と、諏訪大社上社で神長官守矢氏が極秘の密儀として執り行ってきたミシャグジ祭祀を、そのまま同一視することはできないという指摘だ。
諏訪のミシャグジは、神長官という特定の職位だけが召喚法を伝承し、大祝や神使という人間に宿らせて合意や契約を交わす「特化された官威的精霊」であった。これに対して、各地の村々に点在する石神や社宮司は、庶民が日々の無病息災や土地の平安を祈る身近な土着の信仰である。名前の音(シャク・サグ・サコ)が酷似していたため、後世の検地や神社整理の過程で混同されたり、諏訪信仰の普及に伴って重ね合わされた可能性は高いものの、諏訪の密儀そのものがそのまま全国へ波及したわけではない。
また、大和王権が整備した中央の神道体系との際立った対比も重要である。伊勢神宮や奈良の神社に見られる神道儀礼では、血や死は厳重に忌避される「穢れ」とみなされ、米や酒を中心とした清浄な稲作供物が捧げられる。これに対して中世の諏訪上社では、元旦のカエル射殺や、御頭祭における75頭の鹿の頭の奉納、ウサギやキジの串刺しなど、狩猟採集の記憶を強く残す生贄の要素が堂々と中心に置かれていた。『諏方大明神画詞』にも「穢れがあればこの神は必ず祟りをなし、鳥や犬に至るまでその罰を受ける」と記されているように、ミシャグジは触穢に対して即座に猛烈な祟りを発動する、荒々しい土地の力であった。
剥製の鹿頭と、たたえの木が立つ風景
現在、諏訪の地を訪れると、かつての濃厚なミシャグジ祭祀の痕跡は、近代化された神社の風景の中に静かに潜んでいる。
長野県茅野市高部にある「神長官守矢史料館」に足を踏み入れると、展示室の壁面にずらりと並べられた鹿の頭部の剥製や、串刺しにされたウサギの模型が出迎えてくれる。江戸後期に諏訪を訪れた国学者・菅江真澄が『すわの海』(1784年)に描いた御頭祭の供物風景を忠実に復元したものだ。史料館のすぐ裏手には、守矢家の屋敷神である「御頭御社宮司総社」の小さな石祠が、樹齢を重ねた樹木の下に佇んでいる。
明治維新を迎えると、政府が進める国家神道化の波によって諏訪大社の祭祀体制は根底から変革された。大祝という現人神制度は廃止され、守矢氏が代々務めてきた神長官の職も失われた。大祝による世襲も、神長官によるミシャグジの密儀も、制度としてはここで完全に途絶したのである。かつて75頭の生首が並べられた御頭祭の供物は剥製へと切り替えられ、30日間に及ぶ神使の過酷な物忌みや各地を走る廻湛の神事も行われなくなった。
それでも、ミシャグジの呼吸が土地から完全に消え去ったわけではない。
諏訪盆地とその周辺には、今なお百を超える「御社宮司社」や「御頭御社宮司」の小祠が点在している。かつて神使が巡ったとされる「湛(たたえ)」の跡地である巨木や磐座も、田畑の脇や集落の境目にひっそりと残されている。また、6年に一度(数えで7年に一度)執り行われる有名な「御柱祭」においても、山から切り出された16本の樅(もみ)の大木が四つの社殿の四隅に建てられるが、その厳密な結界の張り方や木を聖化する作法には、かつてミシャグジを降り立たせていた空間の知恵が反映されていると言われる。
明治以降、中央から派遣された宮司によって運用される近代神社へと姿を変えた諏訪大社であるが、本殿を持たない前宮の拝殿前に立つと、整備された境内の奥からどこか張り詰めた空気が漂ってくる。制度や文書としての密儀は消失しても、土地の骨組みの中に組み込まれた記憶は容易には消えない。
二重の構造が千年の祭祀を護った
諏訪のミシャグジ信仰の軌跡を追っていくと、「神社」や「神」という言葉に対して私たちが抱いている固定観念がゆっくりと解きほぐされていく。
私たちは神社を訪れるとき、そこに祀られている神の固有名詞を確かめ、解説板にある神話を読んで理解した気になりがちだ。諏訪大社であれば「出雲から逃れてきた軍神・建御名方神の神社」であり、本殿を持たないのは「古いアニミズムの残影」なのだと納得しようとする。しかし、この土地で実際に稼働していたのは、中央の神話とはまるで異なる政治的・宗教的なシステムであった。
表向きは中央政権の神話に合致する「勝者の神(建御名方神)」を掲げて国家の社格を獲得しながら、内実では「敗者の神官(守矢氏)」が地主神の霊力であるミシャグジを制御する実務を握り続けた。この巧妙な二重構造があったからこそ、大和王権の成立、武士階級の台頭、密教の流入、そして明治の近代化という幾重もの時代の荒波をくぐり抜けながらも、土地固有の泥臭い祭祀の核が破壊されずに残り得たのだろう。
ミシャグジとは、社殿の中に安置される固定された神像ではない。それは冬の御室で草の小蛇に宿り、春の精進屋で少年の肉体に付けられ、鉄鐸の音とともに村々の巨木を巡り、役目が終われば空へと送り返される、循環する「力の契約」であった。
茅野市にある神長官守矢史料館の裏手に回り、小さな御頭御社宮司総社の前に立つ。石祠の周囲には、諏訪大社と同じように四本の小さな御柱が立てられている。固有名詞や神話の筋書きを取り払ったあとに残るのは、目に見えない土地の力を一定の手順で迎え、扱い、そして過不足なく還してきた人々の確かな手技と、その痕跡である。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- ミシャグジ - Wikipediaja.wikipedia.org
- ミシャグジ信仰とは何か──諏訪の土地に宿る見えない力|0LifeStyleメディアmedia.0life.style
- 幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?(季節・暮らしの話題 2019年11月13日) - 日本気象協会 tenki.jptenki.jp
- 祭神『ミシャグジ』について| おさんぽ、YOKOHAMAosanpo.yokohama
- 75頭の鹿の首を捧げる「御頭祭」って? 縄文時代は終わったあともスゴかった!【長野】 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!intojapanwaraku.com
- 諏訪大社のミシャグジ神は、民間ではどのような形で祀られているかご存知ですか... - Yahoo!知恵袋detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
- hidemaru3375.com
- 第328回 諏訪・神仏の旅⑫ 狩猟文化の色残す「ミシャグジ」-守矢神長官邸にて - 仏像ワールドbutuzou-world.com