江戸の本草学者や国学者が、中国の古典テキストと自国の現実の間でどのように名と実物を一致させようとしたのか?

異国のテキストを身体に引き寄せる
古い植物図譜を開くと、そこに描かれた世界の雑多さに一瞬たじろぐ。美しく彩色されたサクラやスミレの図に続いて、突如としてクジラやイルカの骨格、奇妙な化石、あるいは妖怪めいた異形の生物が、まったく同じ平坦さで並んでいるからだ。私たちはこれを「未発達な時代の、雑多な博物誌」として片付けてしまいがちである。しかし、江戸時代の知識人たちがこれほどまでに「名」と「実物」の同定に狂奔した背景には、単なる薬効の知識や、珍奇なものへの好奇心を超えた、切実な知的欲求があったのではないか。彼らが求めたのは、中国や西洋という巨大な他者の体系を借りながら、自分たちが生きるこの「日本の国土」そのものの輪郭を、自らの身体的な実感をもって描き直すことだった。では、なぜ彼らはあれほどまでに、野山を歩き、名付け、分類することに執着したのだろうか。その執念の源泉をたどると、江戸の知を揺るがした、ある「齟齬」との格闘が見えてくる。
『本草綱目』という巨大な他者
江戸における本草学、すなわち薬物学の決定的な起点は、慶長十二(1607)年に遡る。この年、将軍職を退いて駿府に隠居していた徳川家康のもとに、明の医師・李時珍が著した『本草綱目』が献上された。全五十二巻に及ぶこの大著は、自然界のあらゆる物質を十六部六十類に整理し、その薬効や名称の由来を網羅した、東洋における自然認識の最高峰であった。健康マニアとして知られた家康はこの書を座右に置いて愛読し、これが日本の知識人にとっての事実上の「聖典」となった。
しかし、ここに大きな陥穽があった。初期の本草学者たちが行ったのは、きわめて文献学的、あるいは解釈学的な作業であった。つまり、中国のテキストに書かれている「この薬草」は、日本の「どの植物」に該当するのかという、書物同士の突き合わせである。実物を手元に置かないまま、文字の記述だけで同定を試みようとすれば、当然ながら各地で齟齬が生じる。
そもそも、中国の大陸的な気候風土とはぐくまれる動植物の生態は、四方を海に囲まれた日本列島のそれとは決定的に異なる。中国の古典に書かれた薬草を日本の山野に無理やり当てはめようとすれば、名と実物が一致しないのは当然であった。本草学者たちは、テキストの解釈に溺れるあまり、目の前にある現実の自然を見失うという矛盾に直面したのである。
このねじれに最初の楔を打ち込んだのが、宝永六(1709)年に京都で出版された貝原益軒の『大和本草』であった。益軒は、中国の『本草綱目』を絶対的な規範とすることを拒んだ。彼は自らの足で歩き、日本の風土を観察した結果、「『本草綱目』に載っているが日本には存在しないもの」と、「日本に存在するが『本草綱目』には載っていないもの」があることを明確に示した。そして、日本独自の自然物を「和品」という独自のカテゴリーに分類し、和名や地方の方言、具体的な形状を詳細に記述したのである。
この『大和本草』の登場は、日本の知的世界における大きな転換点であった。それは、中国という圧倒的な他者の言葉(漢意)によって解釈されていた日本の国土を、自分たちの言葉(和名)で記述し直すという宣言にほかならなかった。この「規範としての中国テキストへの不信」と「目の前の現実への回帰」という構造は、のちに本居宣長らが大成させる「国学」の思想的営みと、驚くほど美しくシンクロしている。儒学が中国の聖人の言葉を絶対的な規範としたのに対し、国学が『万葉集』や『古事記』の古語を実証的に考証し、日本固有の生の感情を取り出そうとしたように、本草学もまた、自国の実相を自前の言葉で捉え直そうとしたのである。
採薬の旅と「名実」のネットワーク
十八世紀に入ると、この実証主義的な動きは、幕府の政策と連動しながら一気に加速する。八代将軍・徳川吉宗が推進した殖産興業政策は、全国の諸藩に対して国産の天産物調査を命じ、薬園の拡充や採薬師の派遣を促した。学問は書斎から野山へと連れ出され、本草学者たちは自ら泥にまみれて植物を採集する「採薬」の旅に出るようになった。
この時代の本草学の頂点に立つのが、京都に生まれた小野蘭山である。蘭山は徹底した実証主義者であり、生涯にわたって各地の山野を歩き、膨大な標本を集めた。彼が著した『本草綱目啓蒙』(1803〜1805年)は、李時珍の原著に批判的な検討を加え、日本各地の動植物の異名や方言を整理した、江戸期における最も精緻な自然誌となった。シーボルトがのちに蘭山を「日本のリンネ」と称賛したのも、その圧倒的な実証精神に対する敬意からであった。
蘭山の私塾「衆芳軒」には、全国から一千人を超える門人が集まった。そのネットワークは、単なる医療技術の伝達経路にとどまらず、日本全国の物産情報を交換する知的サロンとして機能した。彼らは、自ら採取した珍しい動植物や鉱物を持ち寄る「薬品会」や「物産会」を各地で開催した。宝暦七(1757)年から平賀源内や田村元雄(藍水)らが江戸で開催した薬品会は、知識人の情報交換の場であると同時に、見世物として一般庶民をも熱狂させた。
ここで重要なのは、彼らが「言葉」と「実物」を一致させるための精緻なシステムを構築していった点である。木村蒹葭堂が天明四(1784)年に小野蘭山に入門した際の「誓盟状」が今に残されているが、そこには「本草学を辞める場合は、入門以来の記録や写しをすべて返納すること」といった厳しい条件が記されている。この誓約の厳格さは、当時の本草学が、たんなる趣味の領域を超えた、秘匿性の高い実証的データベースの構築作業であったことを示している。
本草学者たちが各地の方言や古名を渉猟し、実物と突き合わせて整理していくプロセスは、国学者が各地の古語を収集し、文献を考証するプロセスと完全に地続きであった。実際、蒹葭堂の誓盟状の文面は、本居宣長が門人に課した誓約書『宇計比言』と極めて類似している。彼らはジャンルの垣根を越え、言葉の乱れを正し、事物に正しい「名」を与えるという、知的インフラの整備を共同で行っていたのである。
漢意と和魂のあいだ
ここで、同時代の西洋における自然認識のあり方と比較してみる。十八世紀のヨーロッパでは、スウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネが提唱した「二名法」(属名と種小名の組み合わせ)による分類体系が席巻していた。リンネのシステムは、神が創造した自然界を客観的なグリッドに当てはめ、あらゆる言語の壁を越えて普遍的に整理することを目指すものであった。自然は人間から切り離された、冷徹な観察対象として構造化されていったのである。
これに対し、江戸の本草学、あるいは「名物学」と呼ばれるアプローチは、どこまでも泥臭く、人間的であった。彼らは、ある植物を分類する際、それがどのような薬効を持ち、どの古典に登場し、各地の農民に何と呼ばれているかという、事物を取り巻く「関係性のネットワーク」そのものを記述しようとした。彼らにとって、名前を整理することは、その土地の歴史や人々の暮らし、さらには怪異や民間伝承までも含む、生のコンテクストを保存することと同義であった。
中国の『本草綱目』という他者の記述をそのまま受け入れるのではなく、かといって西洋的な冷たい客観性にもすぐには飛びつかない。そのあいだで、江戸の本草学者たちは「日本という独自の場」における名実の同定にこだわり続けた。
これは、国学が「漢意(中国的な倫理観や規範)」を排して、日本固有の「もののあわれ」や「古道」を見出そうとした態度と、驚くほど重なり合っている。本草学者が野山を歩いて実物を写生し、和名や方言を蒐集するプロセスは、国学者が文献を実証的に考証し、外来の規範に覆われる前の生の言葉を取り出そうとするアプローチと、方法論において同じ根を持っていた。彼らにとって、自然を記述することは、そのまま自国のアイデンティティを再定義する行為そのものであったのである。
蘭学の風と、霧散したアンソロジー
十九世紀に入ると、長崎を通じて西洋の近代科学、すなわち「蘭学」の風が本格的に吹き込むようになる。ケンペルやツュンベルク、そしてシーボルトといったオランダ商館の医師たちがもたらした西洋の博物学は、日本の本草学者たちに決定的な衝撃を与えた。
文政十二(1829)年、小野蘭山の孫弟子にあたる伊藤圭介は、シーボルトから譲り受けたツュンベルクの『日本植物誌(Flora Japonica)』をもとに『泰西本草名疏』を著し、日本で初めてリンネの分類体系を紹介した。さらに天保四(1833)年には、蘭学者・宇田川榕菴が、東洋初の本格的な西洋近代植物学の紹介書である『植学啓原』を出版する。榕菴は、それまでの「本草学」が薬効や実用に偏っていたことを指摘し、植物の形態や生理、生殖といった自然科学としての「植物学」の法則を学ぶ重要性を説いた。
この西洋植物学の導入は、日本の本草学を「近代科学」へと押し上げる原動力となった一方で、それまで本草学が保持していた豊かな世界像を解体していくプロセスでもあった。リンネの客観的な分類グリッドが採用された瞬間、植物から薬効や民俗、歴史的な物語といった「人間との関係性」が削ぎ落とされ、ただの無機質なデータへと還元されていったからである。
奈良県宇陀市の旧伊勢街道沿いに、今もその姿をとどめる「森野旧薬園」がある。享保十四(1729)年、吉野葛の生産を家業としていた森野藤助が、幕府から分け与えられた薬草を裏山の斜面に植えたことに始まる、日本最古の私立薬園である。藤助は生涯をかけて、この薬園に植えられた薬草や、山野の動植物、さらには鉱物や化石までを克明に描写した『松山本草』全十巻を著した。
現在も手作業で維持されているこの薬園に立つと、そこが単なる植物の栽培場ではなく、当時の人々が病を治し、健やかに生きるために世界中から持ち寄った「生ける本草書」そのものであることが実感される。しかし、こうした生々しいアンソロジーとしての自然は、近代植物学の誕生とともに、徐々に私たちの足元から霧散していった。
「名実」の格闘が残したもの
江戸の本草学や国学が最終的に到達したのは、西洋的な「客観的自然」の発見ではなかった。それは、他者の言葉によって要約されてしまった自分たちの現実を、自らの手で触り、名付け直すという、きわめて泥臭い「名実の格闘」のプロセスであった。
本草学者が野山を歩き、国学者が古典を考証したのは、中国という巨大な「他者の記述」の呪縛から、自らの足元にある土壌を奪い返すためであった。彼らが残した極めて緻密な写生図や、膨大な方言の記録は、単なる「未発達な科学」の遺物ではない。それは、世界を普遍的な記号で一元化することを拒み、目の前にある「この一草一木」と徹底的に付き合おうとした、もう一つの知のあり方の記念碑である。
近代植物学の誕生によって本草学はその役割を終え、明治十(1877)年の東京大学理学部植物学教室の誕生によって完全に過去のものとなった。しかし、彼らが名実を一致させようとしたあの執念の痕跡は、今も私たちが用いる和名や、各地に残る古い薬園の片隅に、静かにその骨格を留めている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 本草学から博物学へ — Google Arts & Cultureartsandculture.google.com
- 博物学への興味city.takeo.lg.jp
- 殿様の博物学 | 描かれた動物・植物 : 江戸時代の博物誌 | 電子展示会ndl.go.jp
- 第1部 第3章 第1節 本草学者の業績と蘭学の誕生 | あの人の直筆 | 電子展示会ndl.go.jp
- もうひとつの学芸員室-江戸のくすりハンター 小野蘭山-本草学の普及eisai.co.jp
- 植物学の萌芽|植物を愛でる ―貴重書花らんまん―|第2回|貴重書オンライン展示|コレクション|福岡大学図書館lib.fukuoka-u.ac.jp
- 日本植物研究の歴史小石川植物園300年の歩みumdb.um.u-tokyo.ac.jp
- 本草学の眩暈──人と病と諸事物の歴史:フォーカス|美術館・アート情報 artscapeartscape.jp