平田篤胤はどのようにして『古事記』を解体し独自の神代史を編み上げたのか?

師の遺志を継ぐはずだった男の異端
本居宣長が享和元年(1801年)に没したとき、平田篤胤はまだ江戸で苦学する無名の書生に過ぎなかった。篤胤が宣長の門を叩いたのは、師の没後2年が経過した享和3年(1803年)のことである。夢の中で宣長から直接教えを受けたと言い張り、自らを「没後の門人」と称した篤胤は、やがて国学の正統な継承者を自任するようになる。
しかし、文政元年から2年(1818〜1819年)にかけて刊行された全4巻11冊の著書『古史徴』(こしちょう)を手にとると、そこには師への従順な追従とは程遠い、極めて過激な古典の解体と再構築が広がっている。宣長が全生涯を捧げて解読した『古事記』のテキストを、篤胤は絶対視しなかった。それどころか、『日本書紀』や各地の風土記、さらには古代の祝詞や氏族の系譜集から断片を切り出し、独自の「真実の神代史」を合成しようとしたのである。
師が聖典と仰いだ書物を分解し、ハサミと糊で貼り合わせるかのような作業に没頭した男。そこには単なる奇行や暴走という言葉では片付けられない、明確な思想的動機が存在した。では、篤胤はなぜ『古事記』のテキストをそのまま受け入れることができなかったのだろうか。
文政年間に引かれた『古事記』との境界線
本居宣長が著した『古事記伝』全44巻は、近世国学の金字塔とされる。宣長の研究手法は厳密な言語学であり、古代の文献に記された文字や文法を忠実に読み解くことだった。『古事記』の本文に漢字の文飾や後世の改変が少ないと見抜いた宣長は、そこに留められた古代人の心、すなわち「古意」を抽出することに全力を傾けた。宣長にとって『古事記』は手を入れるべき対象ではなく、その不整合や謎めいた記述も含めて、ありのまま受容すべき聖典であった。
一方、秋田藩士の家に生まれながら家を出て、江戸で浪人暮らしを経験した篤胤の関心は、文献の精密な解読そのものにはなかった。篤胤が求めていたのは、現実の人間を救済し、死後の魂の行方を説明し、国家の正統性を支えるような実用的な「神道」の確立であった。
そうした宗教的・実践的な視点から古代のテキストを眺めたとき、篤胤は大きな障害にぶつかる。『古事記』と『日本書紀』を並べて読むと、神々の誕生の順序や、天孫降臨をめぐるやり取り、あるいは国譲りの経緯において、あまりにも多くの食い違いが存在したからだ。宣長のように「『古事記』こそが正しく、『日本書紀』は中国風の文飾(漢意)に汚染されている」と切り捨てるだけでは、諸本ごとに異なる神々の系譜や物語を統一的な教理として庶民に提示することはできない。
篤胤にとって必要なのは、鑑賞し解釈するための古典ではなく、矛盾のない一つの真実として提示できる「正典」であった。既存の古典のいずれもが単体では完全な姿を留めていないと考えた篤胤は、文献の背後にあるはずの「本来存在した完璧な古史」を自らの手で復元するという決断を下す。
文化8年(1811年)、篤胤は30代半ばの若さで、理想の神代史テキストである『古史成文』(こしせいぶん)の編纂と、その考証的裏付けとなる『古史徴』の執筆に着手した。別名『古史或問』(こしわくもん)とも呼ばれる『古史徴』は、彼がなぜ特定のテキストの文言を選び、なぜ他方を退けたのかを逐一論証するための巨大な注釈・解題の体系であった。文政元年から2年にかけてその刊行が始まったとき、国学は学術的な文献批評の道から、思想を構築するためのテキスト編集術へと大きく舵を切ることになった。
祝詞と姓氏録を刃としてテキストを断裁する
『古史徴』における篤胤の手法は、当時の文献学の常識から見れば極めて異端でありながら、独特の論理的整合性を備えていた。彼は『古事記』『日本書紀』の二大体系にとどまらず、『古語拾遺』『先代旧事本紀』、さらには各地の『風土記』や『延喜式』所収の祝詞、さらには平安初期の氏族名鑑である『新撰姓氏録』に至るまで、あらゆる古代文献を集めて比較した。
ここで見逃せないのは、篤胤が『祝詞』や『新撰姓氏録』に対して与えた異例の高さの評価である。『古事記』や『日本書紀』は、後世の編集者や天皇の命を受けた編纂者の意図、あるいは漢文として整えるための修辞が混入している可能性を排除できない。これに対して祝詞は、神事の現場で世代を超えて口伝され、変字を免れてきた生の言葉であると篤胤は捉えた。また『新撰姓氏録』は、各氏族が自らの祖神と血統の正統性をかけて朝廷に提出した実利的な記録であり、虚飾が入り込む余地が少ないと考えたのである。
祝詞の文言や姓氏録の系図を基準の筆頭に据えることで、篤胤は『記紀』の記述を相対化した。例えば、ある神話の場面において『古事記』の記述と『日本書紀』の一書(異伝)の記述が食い違う場合、祝詞の表現に近い方を「真実」として採用し、残りを切り捨てたり補合したりしたのである。こうして誕生したのが、篤胤独自の編纂物である『古史成文』であり、その採択基準の正当性を切々と訴えたのが『古史徴』全4巻であった。
さらに『古史徴』の中で、現代の知見から最も強い批判を受けると同時に、当時の人々に強い衝撃を与えたのが「神代文字」の存在論である。篤胤は、漢字が渡来する以前の日本に、阿比留文字や日ふみ文字といった固有の文字が存在したと主張した。中国から文字がもたらされる前に古代日本人が文脈や歴史を記録していた証拠として、これらの文字を位置付けようとしたのだ。
今日では、篤胤が提示した神代文字の多くは近世に創作された擬似文字であり、ハングルやアルファベットの影響を受けた後世の作例であることが解明されている。また、彼が依拠した『和銅上奏日本紀』などの資料観念も、現代の歴史学・文献学においては認められていない。しかし篤胤にとって、神代文字の存在証明は「中国文明の助けを借りずとも、日本には最初から完璧な文明と歴史記録が存在していた」というイデオロギーを完結させるために、どうしても欠かせないパズルのピースであった。
学術的な正確さや客観的な検証よりも、自らの提示する世界観の完成度を優先する。文献を客観的に観察するのではなく、あらかじめ設定された結論に向けて文献を切り貼りするこの姿勢こそが、『古史徴』という書の構造的な特徴であった。
実証と脱神話、あるいは朱子学の影
『古史徴』の提示したテキスト操作の異質さは、同時代の他の歴史解釈や古典研究と並べてみることで、より鮮明に浮かび上がる。
まず、師である本居宣長の『古事記伝』との対比である。宣長は『古事記』の本文を尊び、理解しがたい箇所や他書との矛盾があっても、本文の字句を勝手に改変することを固く戒めた。テキストの異物感や解読不可能な部分をそのまま残すことこそが、人間の浅知恵を超えた古代の真実に近づく道だと考えたからだ。これに対して篤胤の『古史徴』は、解読不可能な部分や矛盾を放置することを許さない。複数の文献から「最も合理的と思われる断片」を拾い集め、一つの滑らかなストーリーへと仕立て直す手法は、宣長の文献学的な慎み深さとは真逆のベクトルを向いていた。
次に、近世の rationalist( rational な考証家)として知られる新井白石の『古史通』との対比である。白石は神話の記述をそのまま受け入れることを拒否し、神々を古代の地方豪族や実在の政治的指導者として解釈する脱神話化を試みた。音韻の比較や地名の考証を用いて、超自然的な現象を人間界の出来事へと引き戻そうとしたのが白石のアプローチである。
篤胤の手法は、この白石の合理主義と奇妙な形で裏返しになっていた。篤胤は神々の実在や超自然的な神話の出来事を「そのままの真実」として信じ込もうとした。しかし、その信憑性を担保するために使った手法は、異文を精査し、矛盾を排除し、テキストの整合性を整えるという、極めて合理的な編集技術だったのである。神話という非合理な内容を補強するために、極めて論理的な考証のスタイルを擬態する。このねじれ構造こそが『古史徴』の真骨頂であった。
さらに興味深いのは、篤胤が激しく排撃したはずの儒学、とりわけ朱子学との構造的な類似である。朱子学の学者たちは、儒教の四書五経の解釈において、複数の伝本から正しい文言を選び出し、注釈を施して統一的な正典体系を作り上げる「集註」の作業を得意とした。篤胤が『古史徴』で行った文献の切断と接合は、彼が「漢意の産物」として蔑んだはずの儒学者の正典編集の技法と、驚くほど酷似していたのである。
漢心を取り除くために古典を研究していた男が、結果として漢学的な正典づくりの手法を最も濃密に踏襲していたという事実は、近世思想史における皮肉な転回点と言える。
幕末の熱狂から近代歴史学の批判を経て
文政年間に刊行された『古史徴』と、それによって裏打ちされた『古史成文』は、当時の社会に急速に広まっていった。宣長の国学が主として歌人や富裕な町人、学者層の間で嗜まれたのに対し、篤胤の思想(平田国学)は地方の豪農、村役人、下級神職、そして地方の武士たちへと圧倒的な勢いで浸透していく。
その爆発的な普及の原動力となったのが、『古史徴』によって生み出された「わかりやすさ」であった。『古事記』や『日本書紀』をそのまま読もうとすれば、神々の名前の表記の揺れや異伝の多さに困惑せざるを得ない。しかし、篤胤が整理統合したテキストは、神々の系譜と世界の始まりから終わりまでの物語が、一本の明快な筋道として提示されていた。人々にとって、それは「迷わずに信じることができる聖典」として機能したのである。
幕末の激動期において、平田国学の信奉者たちは尊王攘夷運動の思想的核となって行動した。草莽の志士と呼ばれる地方の活動家たちは、篤胤の構築した整然たる神代史と国家観を胸に刻み、幕府の権威を揺るがしていった。明治維新直後に行われた神仏分離令や、神社行政の再編、神道国教化を目指した教導職の設置など、新政府の初期の宗教政策には、平田門下の思想が色濃く反映されていた。
だが、明治時代に入り、西洋から現代的な歴史学や比較言語学が導入されると、『古史徴』の学術的基盤は急速に崩壊していく。
津田左右吉をはじめとする近代歴史学者は、記紀神話の成り立ちを科学的に分析し、神話と歴史事実を厳密に区別する手法を確立した。その過程で、篤胤が『古史徴』で展開した神代文字の存在主張や、古代文献の任意の切り貼り編集は、学術的な根拠を欠く偽書説・妄説として厳しく退けられることとなった。歴史資料としての信頼性を失った『古史徴』は、やがて顧みられない過去の遺物へと追いやられていったのである。
現在において『古史徴』が読まれるのは、そこに記された古代史の知見を真実とみなすためではない。近世から近代にかけて、日本人が自らのアイデンティティや国家像を模索する中で、いかなる情報の再編集とナショナリズムの創造が行われたかを知るための、貴重な思想史の資料として評価されている。今日では『平田篤胤全集』に収められているほか、国立国会図書館や国文学研究資料館のデジタルライブラリーを通じて、その全容を容易に確認することができる。
解体された古典がもたらした物語の統合
『古史徴』という書物を振り返るとき、そこに浮かび上がるのは古典に対する「強烈な信仰」と「決定的な不信」の同居である。
篤胤は、古代の日本に存在したはずの神々の世界やその奇跡を、心の底から信じていた。しかし同時に、自らの手元にある『古事記』や『日本書紀』という実在のテキストに対しては、不完全で傷ついた文献に過ぎないという強い不信感を抱いていたのである。だからこそ彼は、テキストのありのままの姿を尊重する宣長の手法を捨て、自らの手で古典を解体し、真実であるはずの完璧な古代史を捏造に近い手法で組み上げざるを得なかった。
本居宣長にとって国学とは、過去の言葉に耳を澄ませ、解読できない疑問を疑問のまま抱え続ける静かな解読の営みであった。これに対し平田篤胤にとっての国学とは、過去の断片を素材として買い集め、現在の人間を動かすための強力な正典を組み上げるアグレッシブな編集事業であったと言える。
矛盾を抱えた複数の古典をそのまま受容するのではなく、自らの思想に合わせて一つの物語へ統合しようとする欲求。文政元年から2年にかけて世に出た全4巻の『古史徴』は、歴史とは観察されるべき客観的な事実なのか、それとも時代の要請に応じて編纂されるべき物語なのかという問いを、今も淡々と提示し続けている。
旅と食が好き。どこにでもいます。