2026/6/23
1300年続く甲府盆地のぶどう栽培、その驚くべき適応の歴史

甲府盆地とぶどう栽培の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
甲府盆地の扇状地で1300年以上続くぶどう栽培。薬師如来の伝承や雨宮勘解由説から、江戸時代の流通、そしてDNA解析で判明した甲州種のハイブリッド説まで、その歴史と適応の秘密に迫る。
扇状地を覆う緑の屋根
中央本線の特急が笹子トンネルを抜け、急勾配を下り始めると、車窓の景色は一変する。それまでの深い山あいの風景が嘘のように消え、眼下には広大な甲府盆地が広がる。特に勝沼ぶどう郷駅周辺の斜面を見渡せば、視界のすべてを埋め尽くすように、平坦な緑の屋根が連なっているのが見える。それは、この土地特有の「棚栽培」によるぶどう畑だ。
初めてこの地を訪れる者は、その景観の密度に圧倒されるだろう。山裾から盆地の底へと向かって、等高線を無視するかのように整然と広がるぶどう棚。なぜ、この甲府盆地東部、特に勝沼や一宮といった地域に、これほどまでにぶどうが集中しているのか。単に「気候が良いから」という一言で片付けるには、あまりにも徹底された風景だ。
駅のホームに立つと、乾いた風が吹き抜ける。かつて「大日影トンネル」として使われていたレンガ造りの遺構が、ワインカーヴとして再利用されているのが見える。この土地でぶどうが作られ、酒へと変わる営みは、単なる農業の枠を超え、地形や歴史、そして植物としてのぶどうが持つ数奇な運命が複雑に絡み合って成立している。その起源を辿れば、1300年前の宗教的な伝承と、最新のDNA解析が示す意外な事実へと行き着くことになる。
薬師如来の掌から街道の荷へ
甲府盆地におけるぶどう栽培の始まりには、大きく分けて二つの説が語り継がれている。一つは、奈良時代の高僧・行基にまつわるものだ。養老2年(718年)、行基がこの地で修行中に、夢枕にぶどうを手にした薬師如来が現れたという。その姿を刻んだ像を安置したのが、現在「ぶどう寺」として知られる柏尾山大善寺である。今も同寺の薬師如来像は、その右手に一房のぶどうを載せている。行基は法薬としてぶどうの栽培を村人に教えたとされ、これが「甲州種」の起源だとする説だ。
もう一つは、より現実的な開拓の物語として語られる「雨宮勘解由(あめみやかげゆ)」説である。文治2年(1186年)、勝沼の住人であった勘解由が、自生する山ぶどうとは異なる蔓植物を発見した。それを自宅に持ち帰り、5年の歳月をかけて結実させたものが、現在のぶどう栽培の礎になったという。これら二つの説は、いずれも中世以前にこの地で特定の品種が選別され、守られてきたことを示唆している。
江戸時代に入ると、甲府盆地のぶどうは「商品」としての性格を強めていく。徳川幕府によって甲州街道が整備されると、勝沼周辺は宿場町として栄えるとともに、江戸という巨大な消費地へ向けた特産物の供給源となった。当時、ぶどうは桃、梨、柿、栗、リンゴ、ザクロ、クルミ(または銀杏)とともに「甲州八珍果」と称され、幕府への献上品や江戸の富裕層への嗜好品として珍重された。
松尾芭蕉が天和3年(1683年)に「勝沼や馬子もぶどうを喰いながら」と詠んだことは有名だが、これは当時の勝沼が、旅人も馬引きも足を止めてぶどうを口にするほど、生産と流通が一体化した活気ある場所であったことを伝えている。また、江戸中期の儒学者・荻生徂徠も『峡中紀行』の中で、勝沼の宿場が繁昌しており、甲州ぶどうがこの国の名物であると記している。
当時の輸送は、現代のような保冷技術も迅速な物流もない。ぶどうを詰めた籠を馬の背に揺らし、数日かけて甲州街道を江戸へと運ぶ。その過酷な移動に耐えうる「皮の厚さ」と「保存性」を持っていたことが、甲州種がこの地で生き残った大きな理由の一つであった。単に美味しいだけでなく、物流という経済の波に耐えうる強靭さが、この品種を「日本最古」の地位に押し上げたのである。
礫と風が選んだハイブリッド
甲府盆地がぶどうの適地である理由は、地理学的な視点から見ると極めて明快だ。盆地の東端、勝沼や一宮、御坂といった地域は、笛吹川や日川、御勅使川といった河川が山から盆地へ流れ出す地点に形成された「扇状地」の上にある。
扇状地の最大の特徴は、土壌の粒が大きく、礫(石ころ)が大量に混じっていることだ。これが圧倒的な「水はけ」の良さを生む。ぶどうは水を好む植物だが、根元に水が停滞すると根腐れを起こしやすく、また果実の甘みが薄まってしまう。扇状地の礫質土壌は、余分な水分を素早く地下へ逃がし、ぶどうの樹に程よいストレスを与えることで、糖度の高い果実を結実させる。
さらに、気候条件も重なる。甲府盆地は典型的な内陸性気候で、夏の日照時間は全国トップクラスだ。一方で、夜間は盆地特有の冷気が溜まり、昼夜の寒暖差が激しい。植物は日中の光合成で糖を作るが、夜間の気温が高いと呼吸によってその糖を消費してしまう。夜が涼しい甲府盆地では、消費される糖が最小限に抑えられ、果実の中に凝縮される。また、四方を山に囲まれているため、梅雨や台風の時期でも雨雲が遮られやすく、降水量が少ないことも、病害を嫌うぶどうにとっては幸いした。
そして、この風土に適合した「甲州種」そのものに、近年驚くべき事実が判明した。2013年、酒類総合研究所などのチームが行ったDNA解析によれば、甲州種は純粋な東洋種ではなく、欧州系の「ヴィニフェラ種」の遺伝子を約71.5%も引き継いでいることがわかったのである。
ヴィニフェラ種は、カスピ海沿岸を起源とし、ワイン造りに適した高糖度の品種群だ。これがシルクロードを経て中国へ渡り、そこで現地の野生種(トゲのある刺ブドウなど)と自然交雑した。その「混血児」がさらに東へ伝わり、最終的に日本、それもこの甲府盆地という袋小路のような土地に定着した。
本来、高温多湿な日本の気候は、乾燥を好む欧州系ぶどうには致命的に合わない。しかし、甲州種は中国野生種の遺伝子を取り込むことで、湿気や病害への耐性を獲得していた。いわば、シルクロードの終着点で、日本の風土に適応するために進化した「ハイブリッド」だったのである。このDNAの強靭さと、扇状地の水はけが組み合わさったことで、1300年という気の遠くなるような時間の連続性が保たれることとなった。
垣根と棚、西と東の境界線
山梨のぶどう栽培を相対化するために、他の主要産地と比較してみると、その特異性がより鮮明になる。例えば、岡山県は「マスカット・オブ・アレキサンドリア」の産地として知られるが、その栽培手法は山梨とは対照的だ。
岡山では、明治時代から温室栽培が導入され、一房ごとに丁寧に「袋掛け」を行うなど、極めて工芸的なアプローチをとってきた。これは、雨に弱くデリケートな高級品種を守るための戦略であり、瀬戸内の温暖な気候を「遮断」することで品質を安定させている。対して山梨は、盆地の風や光を最大限に利用する「棚栽培」を主軸に置く。
また、隣接する長野県、特に塩尻市の「桔梗ヶ原」などは、メルローやシャルドネといった純粋な欧州系醸造用ブドウの産地として名高い。ここでは、欧州のワイナリーで見られるような「垣根仕立て」が主流だ。垣根栽培は、樹を低く抑えて房を太陽に近づけ、凝縮感のある果実を作るのに適している。しかし、これは水はけが極めて良く、湿度が低い土地でなければ、地面からの湿気で病気が蔓延するリスクがある。
山梨が「棚栽培」にこだわり続けてきたのは、日本の湿潤な気候に対する高度な解決策であったからだ。頭上に広がる棚は、地面からの湿気を遠ざけ、風通しを確保する。同時に、強い日差しから果実を葉の影で守り、着色を安定させる。近年、山梨でも欧州系品種の導入に伴い垣根栽培が増えているが、それでもなお、1000年以上の歴史を持つ甲州種と棚栽培の組み合わせは、この土地のアイデンティティとして揺るがない。
山形県のデラウェア栽培とも比較が必要だろう。山形は、明治期に導入された米国系品種であるデラウェアの生産量で日本一を誇る。デラウェアは寒さに強く、雨にも比較的耐性があるため、東北の気候に適していた。しかし、山梨の甲州種のように、中世以前から特定の地域で連綿と守られてきた「固有種」としての重みとは、文脈が異なる。
山梨のぶどうは、江戸時代には「流通に耐える商品」として、明治以降は「ワインという新文化の担い手」として、常に時代の要請に応えて姿を変えてきた。岡山の「守る栽培」、長野の「欧州を追う栽培」に対し、山梨は「風土と品種の折り合いをつけながら、大量の需要に応えるシステム」を構築してきたと言える。
醸造場が風景に溶け込むまで
明治時代、日本の近代化の波は甲府盆地にも押し寄せた。明治10年(1877年)、祝村(現在の甲州市勝沼町)に、日本初の民間ワイン醸造会社「大日本山梨葡萄酒会社」が設立された。この時、醸造技術を学ぶためにフランスへ派遣されたのが、高野正誠と土屋龍憲という二人の青年であった。
彼らは帰国後、本場で学んだ技術を駆使してワイン造りに挑むが、その道のりは険しかった。当時の日本人の口には、渋みや酸味のある本格的なワインは馴染まなかったのである。会社は経営不振で解散を余儀なくされるが、その情熱は宮崎光太郎らによって引き継がれた。宮崎は、日本人の好みに合わせて甘みを加えた「エビ葡萄酒」を売り出し、これが爆発的なヒットを記録する。現在、勝沼にある「宮光園」は、その当時の息吹を伝える貴重な建築遺構となっている。
戦後、食生活の欧米化とともにワイン需要は高まり、山梨のぶどう畑はさらなる変革期を迎えた。それまでの桑畑(養蚕業)が、次々と果樹園へと転換されていったのである。1960年代以降、高度経済成長とともに「観光農園」という形態が定着し、消費者が直接産地を訪れてぶどうを狩るスタイルが確立された。勝沼周辺にワイナリーが密集し、ぶどう畑の中に醸造所が点在する独特の景観は、この時期に完成されたものだ。
現在の山梨県は、日本最大のワイン産地であるだけでなく、2013年には「ワイン県」を宣言し、国から「GI山梨(地理的表示)」の認定を受けるに至った。これは、山梨産のぶどうを100%使用し、県内で醸造されたワインの品質を保証する公的な制度だ。かつて、フランスへ渡った高野や土屋が夢見た「本場のワイン」は、140年の時を経て、この土地固有の「甲州ワイン」として世界的な評価を得るまでになった。
今、勝沼の町を歩けば、100年以上続く老舗ワイナリーから、若手の醸造家が立ち上げた小規模なブティックワイナリーまで、80軒以上の醸造所が軒を連ねている。それらは単なる工場ではなく、背後に広がるぶどう棚の風景と密接に結びついている。収穫期には、町全体に発酵の香りが漂い、農家と醸造家が一体となって、その年の出来を語り合う。そこにあるのは、単なる産業としての農業ではなく、土地の記憶そのものを瓶に詰めようとする人々の営みだ。
適応という名の千三百年
甲府盆地のぶどう栽培を巡る旅は、最終的に「適応」というキーワードに集約される。
行基や雨宮勘解由がぶどうを見出したという伝承は、この土地の民が、自然界に存在する多様な植物の中から、盆地の過酷な暑さと礫だらけの土壌に最も適した個体を選び抜き、それを1300年もの間、絶やすことなく守り続けてきた執念の表れである。甲州種が持つヴィニフェラ種と中国野生種の混血というDNAは、その執念が偶然ではなく、生物学的な裏付けを持っていたことを証明した。
私たちは往々にして、伝統というものを「変わらないもの」と考えがちだ。しかし、甲州ぶどうの歴史を見れば、それは常に「変わり続けることで生き残ってきた」歴史であることがわかる。江戸時代には街道を行く馬の背に揺られ、明治時代にはフランスの技術と出会い、戦後は観光とワイン醸造という新しい服をまとった。その時々の時代の要請に合わせて、栽培手法や用途を変えながらも、根底にある「扇状地という舞台」と「甲州種という主役」だけは変わらなかった。
他の産地と比較して見えてきたのは、山梨のぶどう栽培が、ある種の「強靭な汎用性」を持っているという点だ。岡山の温室栽培のような極限の保護でもなく、長野の垣根栽培のような欧州への純粋な追従でもない。棚栽培という、日本の気候を逆手に取ったオープンなシステムの中で、生食用としても醸造用としても成立する甲州種を育て上げる。そのバランス感覚こそが、日本一の生産量を支える力の源泉なのだろう。
勝沼の丘から盆地を見渡すと、緑の海のようなぶどう棚が、まるで大地を保護する膜のように見えてくる。それは、人間が地形に抗うのではなく、扇状地という礫の堆積を最も有効に活用するために編み出した、生きた知恵の結晶だ。
1300年前、薬師如来の手のひらに載せられていた一房のぶどうは、今や数万トンの収穫量となり、世界中のグラスを満たすワインへと姿を変えた。しかし、その根が吸い上げているのは、今も変わらず、かつての河川が山から運んできたあの礫の間を流れる水である。適応という名の長い時間をかけて、この盆地はぶどうという植物を自らの一部として取り込んだ。その風景の重みは、特急列車の車窓から眺めるだけでは決して測りきれない、深い堆積の上に成り立っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 山形ぶどうの美味しさと特徴 | さくらんぼ・ラフランス・山形りんご・だだちゃ豆通販|味の農園ajfarm.com
- 日本最古のぶどう「甲州」 その歴史には2つの説が – ニッポン放送 NEWS ONLINEnews.1242.com
- maff.go.jp
- 山梨が果樹大国である理由とその歴史|TSUMORI -土地と想像力のメディア-note.com
- 山梨県が「フルーツ王国」と呼ばれるのはなぜ?/富士の国やまなし観光ネット 山梨県公式観光情報yamanashi-kankou.jp
- TS CUBIC SHOPPING・受け継がれる日本ワイン誕生への情熱――現存する日本最古のワイナリーを訪ねて LIFESTYLE│Harmony NEWSharmony.ts3card.com
- 日本ワイン140年史|日本ワイン140年史 ~国産ブドウで醸造する和文化の結晶~japan-wine-culture.jp
- ワインの国 山梨|山梨のワインの沿革史wine.or.jp