米が獲れない山岳地帯を、尾張藩はどのようにして自藩の巨大な経済圏へ組み込んだのか?

濃尾平野の城から見上げた山
木曽十一宿を歩いていると、ふと奇妙な感覚にとらわれることがある。長野県の南西部に位置し、標高千メートルを超える峠に挟まれた深い谷筋。行政区分としても地理的にも信州の山奥にほかならないこの土地に、かつて名古屋城に本拠を置く尾張徳川家の支配が隅々まで行き届いていた。尾張藩の領地といえば、濃尾平野の豊かな穀倉地帯を思い浮かべるのが自然だろう。だが、実情は大きく異なっていた。藩の版図は木曽川を遡り、信濃国筑摩郡に属する木曽谷の全域、現在の長野県木曽郡一円にまで深く食い込んでいたのである。
平野部の御三家筆頭が、なぜわざわざ険路で知られる山林地帯を抱え込み、明治維新までの二百数十年にわたって手放さなかったのか。街道の要衝を押さえる軍事的な防衛拠点だったという見方はある。木曽谷には中山道が通り、福島宿には天下の関所が置かれていた。あるいは、名高い木曽ヒノキを確保するための資源管理地だったという説明も目にする。
しかし、領地を維持するには莫大な費用と行政コストがかかる。木曽谷は平地が極めて乏しく、米がほとんど獲れない。米本位制の幕藩体制下において、石高が極小の山岳地帯を維持し続けることは、平野の大名にとって大きな財政的重荷になりかねないはずだ。にもかかわらず、尾張藩はこの山深い谷を独自の体制で厳格に統治し、藩政の重要な柱に据え続けた。山と平野を結んだ統治の実態は、どのような仕組みで動いていたのだろうか。
木曽氏の没落から御三家領への道
木曽谷が尾張藩領となるまでの経緯には、戦国末期から近世初頭にかけての激動が色濃く影を落としている。中世の木曽谷は、源義仲の末裔を称する国人領主・木曽氏が治める独立性の高い地域だった。甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻した際、当時の当主・木曽義康は武田氏に降伏し、その傘下に入る。だが武田氏が滅亡へと向かうなか、続く木曽義昌は織田信長に通じ、武田勝頼の怒りを買って激しい侵攻を受けることになった。
本能寺の変の後、信濃を巡って徳川家康、上杉景勝、北条氏直が角逐する天正壬午の乱が起きると、木曽義昌は徳川家康に従属する道を選ぶ。家康は木曽谷の地政学的重要性を高く評価していた。信濃と美濃を繋ぐ中山道を押さえることは、東国と西国を結ぶ大動脈を掌握することを意味していたからだ。だが、豊臣秀吉が台頭すると、木曽氏は秀吉の圧力に屈して徳川から離反する。これに対し家康は、小牧・長久手の戦いなどを経て秀吉と和睦したのち、天正十八年(1590年)の関東移封に際して、木曽義昌を下総国阿知戸(現在の千葉県旭市周辺)へ国替えさせた。数百年におよぶ木曽氏による木曽谷支配は、ここで完全に終焉を迎える。
木曽氏が去った後の谷を掌握したのが、かつて木曽氏の重臣を務めていた山村良勝(やまむら よしかつ)と千村良重らの旧臣集団、いわゆる「木曽衆」であった。彼らは木曽氏の下総移封に同行せず、家康に直接仕える道を選んだ。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、山村良勝と千村良重は東軍に属し、徳川秀忠率いる本隊が中山道を進軍するにあたって木曽路の確保に奔走する。美濃苗木城や岩村城の攻略に貢献した功績により、戦後、家康から木曽谷の支配権を安堵された。
関ヶ原直後の木曽谷は、徳川氏の直轄地(天領)として位置づけられ、山村良勝が木曽代官として統治の実務を担った。家康が木曽谷を直轄とした最大の理由は、街道の掌握に加え、江戸城や駿府城の普請に必要な良材の供給源を確保するためであった。木曽川を使えば、切り出した木材を伊勢湾まで流送し、海路で江戸や駿府へ運ぶことができる。山村氏は天領代官として木曽の山林と関所を管理し、幕府初期の巨大建築事業を支えた。
転換点は元和元年(1615年)の大坂夏の陣の直後に訪れる。家康は、自身の九男であり尾張藩主となった徳川義直に対し、木曽谷全域を下賜した。これにより、木曽谷は幕府直轄地から尾張藩領へと編入されることになる。このとき、山村氏は幕府直参の立場から尾張藩の重臣へと身分を変えた。しかし、ここには極めて特殊な構造が埋め込まれることとなった。山村氏は尾張藩主から知行五千七百石を受ける家老格の重臣でありながら、同時に幕府の重要関所である福島関所の番頭(関守)を世襲で務める幕府の役人でもあり続けたのである。
尾張藩は、名古屋城下に居館を構える他の重臣たちとは異なり、山村氏に対して木曽福島に代官屋敷を置き、現地に常駐して谷全体を統治することを認めた。山村代官所は、尾張藩の出先機関であると同時に、徳川将軍家直属の関所預かりとしての顔を持つ。この重層的な体制こそが、尾張藩による木曽統治の起点となった。
筏の川と「木一本首一つ」の制度
尾張藩が木曽谷を領有した直接の動機は、木曽ヒノキをはじめとする豊かな山林資源にあった。名古屋城の築城、城下町の整備、さらには度重なる大火に見舞われた江戸の都市復興において、木曽の針葉樹林は代替の利かない建材供給地だった。
しかし、十七世紀前半の乱伐により、木曽の山林は急速に荒廃していった。幕府や諸大名による御用木の伐採に加え、領民による用材の採取や焼畑が無秩序に行われた結果、良質な木材は枯渇の危機に瀕する。これに危機感を抱いた尾張藩は、寛文から貞享、元禄期にかけて、山林保護へと大きく舵を切った。
延宝七年(1679年)、尾張藩は木曽の山林を詳細に調査し、山の区分を制度化した。領民が薪炭や柴草を採取できる「村付山(むらつきやま)」と、藩が直接管理して樹木の伐採を禁じる「御留山(おとめやま)」を厳密に分けたのである。さらに元禄十二年(1699年)には、木曽代官山村氏の直轄林から山林管理部門を切り離し、藩直属の役職として「山奉行」を新設した。名古屋から派遣される山奉行のもとに、山廻役や山番といった専任の役人が配置され、山の監視体制が敷かれた。
この時期に成立したのが、ヒノキ、サワラ、アスナロ(アスヒ)、ネズコ、クロベ(タカノツメとする説もある)の五つの樹種を伐採禁止とする「木曽五木」の制度である。後世、「木一本首一つ」と恐れられたこの掟は、単なる誇張ではない。領民が藩の許可なく指定の樹木を一本でも伐採すれば死刑、枝を一本切り落とせば腕一本を切り落とす、という厳罰規定が実際に運用されていた。山番は山中に張り巡らされた番所から厳重に目を光らせ、落ち葉や枯れ枝の採取にすら細かな制限が課された。
保護された木材は、高度に体系化された流通機構によって搬出された。山深くで伐採された巨木は、急峻な谷を修羅(木製の滑り台)で滑り落とされ、小川に集められる。春の雪解け水を待って「小流し」と呼ばれる作業で木曽川の本流へと押し流された。本流に達した木材は、下流の錦織(現在の岐阜県八百津町)に設けられた錦織綱場(にしきおりつなば)で堰き止められ、すべて引き揚げられた。
錦織綱場は、川幅いっぱいに太い大綱を張り渡し、流れてくる数十万本もの原木を一網打尽に回収する巨大な施設だった。ここで木材の寸法や品質が一本ずつ検査され、藩の刻印が確認された後、川を下るための「筏(いかだ)」に組み直された。筏師たちの手によって美濃の平野部を抜け、木曽川の河口付近、伊勢湾に面した熱田白鳥(現在の名古屋市熱田区白鳥)の貯木場へと運び込まれたのである。
白鳥貯木場に集積された木材は、尾張藩の自藩消費に充てられたほか、問屋を通じて大坂や江戸の木材市場へ出荷された。木曽の山から切り出された一本のヒノキは、木曽川という巨大な天然のコンベアベルトを通じて直接名古屋の経済圏、さらには全国の木材流通へと直結していた。木曽川流域の水運を一元管理できたことこそ、尾張藩が木曽谷を保有し続けた最大の経済的実利であった。
一方、中山道の宿場運営も統治の重要な柱だった。木曽路には、贄川宿から妻籠宿に至る十一の宿駅(木曽十一宿)が連なっていた。尾張藩は、山村代官を通じて宿場の伝馬役(公用の人馬を継ぎ立てる役目)を厳格に管理した。木曽谷は耕地が極めて少なく、各宿場は農業収入だけでは伝馬役の維持が不可能だったため、藩は宿場に対して「御米(おこめ)」と呼ばれる扶持米を給付したり、木曽五木以外の雑木の利用権を与えたりして宿駅機能を支えた。
平野部の大名であれば助郷(周辺農村からの人馬の徴発)で賄うところを、木曽では助郷を出せる豊かな農村が存在しない。そのため、尾張藩自らが財政的支援を直接注ぎ込むことで、幕府から課された幹線道路の維持義務を果たしていたのである。
独立採算の天領と、川で直結した藩領
尾張藩の木曽統治が持っていた特異性は、他藩の山林支配や幕府の直轄地統治と比較するといっそう際立つ。
同時代の山林資源管理として名高い事例に、東北の秋田藩(佐竹氏)による秋田杉の統治がある。秋田藩もまた、江戸の大火による木材需要の高まりを受けて山林の荒廃を経験し、山守制度を整備して杉の伐採制限を行った。しかし秋田藩の場合、林業は藩内の広大な領地の一部であり、城下町久保田を取り囲む平野部の米作地帯と林業地帯が同一の藩領内に共存していた。製材された杉は能代港から日本海を経由し、西廻り航路を使って大坂へ運ばれる長距離の海上輸送に依存していた。
一方、幕府直轄地として林業を行っていた飛騨高山(飛騨国)の例もある。元禄期に金森氏が改易された後、幕府は飛騨の豊富な森林資源と鉱山に目をつけ、天領として陣屋を置いて代官(のちの飛騨郡代)を派遣した。飛騨の木材もまた益田川(飛騨川)を通じて木曽川へと流送されたが、飛騨代官の統治はあくまで江戸の勘定所の監督下にあり、地域の経済循環というよりは幕府財政への直接的な吸い上げという性格が強かった。木材の流送を巡っては、下流を押さえる尾張藩と上流の幕府代官所との間で、綱場の使用料や流送の優先権を巡る激しい利害衝突がたびたび発生している。
紀州藩の熊野山林統治も興味深い対比となる。紀州藩もまた豊かな山林を抱え、紀州材として江戸へ木材を供給していたが、熊野の山林は土着の山奉行や地元の有力商人、寺社勢力の力が強く、藩の直接的な統制力は必ずしも絶対的ではなかった。木材は主に沿岸部の港から船積みされ、江戸の材木問屋との相対取引に委ねられる割合が高かった。
これらと比較したとき、尾張藩の木曽統治には二つの際立った特徴が見出せる。
第一に、中間権力としての山村代官の固定化である。尾張藩は、天領代官のように数年で交代する官僚を送り込むのではなく、中世以来の土着支配層である山村氏を一貫して代官に据え続けた。山村氏は木曽の地勢と住民の気質を知り尽くしており、領民にとっては藩主の代理人であると同時に、地域共同体の頂点に立つ伝統的な領主でもあった。尾張藩は山村氏の権威を巧みに利用することで、険峻な山岳地帯に暮らす人々を直接支配する政治的摩擦を最小限に抑え込んだ。
第二に、単一河川による「山と城下の垂直統合」である。木曽谷から名古屋・熱田に至る空間は、木曽川という一本の水路によって完全に結節されていた。上流で尾張藩の山奉行と山村代官が木を伐り、中流の美濃錦織で尾張藩の役人が木を束ね、下流の尾張熱田で尾張藩が木を受け取って市場へ卸す。木材の生産から加工、集積、流通に至る全プロセスが、同一の藩のインフラと制度の中で完結していた。この垂直統合モデルがあったからこそ、遠隔地である山岳部を領有するコストを、木材流通の利益によって相殺し、黒字化することが可能だった。
| 地域・主体 | 主な樹種 | 輸送ルート | 統治体制の特徴 |
|---|---|---|---|
| 尾張藩(木曽谷) | 木曽五木(ヒノキ等) | 木曽川流送 → 熱田白鳥 | 土着の山村代官による世襲支配と藩直属山奉行の二重管理。山から城下まで単一水系で垂直統合。 |
| 秋田藩(出羽国) | 秋田杉 | 米代川・雄物川 → 能代港 → 西廻り航路 | 藩直営の山守制度。米作地帯と共存し、長距離海上輸送に依存。 |
| 幕府天領(飛騨国) | ヒノキ・スギ等 | 益田川(飛騨川) → 木曽川合流 | 勘定所直属の飛騨代官(郡代)による官僚支配。下流の尾張藩と水利・流送権を巡り対立。 |
| 紀州藩(熊野) | 紀州杉・ヒノキ | 熊野川等 → 沿岸港 → 太平洋海運 | 地元商人や山林地主の自律性が高く、江戸問屋との取引主導。 |
平野の大名が山を領有するという一見不合理な構図は、木曽川の水運という地理的条件と、山村氏という政治的媒介項が噛み合うことで、極めて合理的な地域経営モデルへと転換されていたのである。
街道の保存と御料林の行方
かつて尾張藩が厳格に管理した木曽谷の風景は、今もその輪郭をはっきりと残している。明治維新を迎えると、尾張藩の木曽統治は終焉を迎えた。明治二年(1869年)の版籍奉還、そして明治四年の廃藩置県を経て、木曽谷は尾張の手を離れ、一時的な筑摩県所属を経て長野県へと編入された。
藩という強固な庇護と規制を失った木曽の森林は、明治初期の一時期、激しい混乱に巻き込まれた。保護政策の解除に伴い、各地で樹木の乱伐が進んだのである。危機感を強めた明治政府は、明治二十二年(1889年)、木曽の広大な旧藩有林を皇室の財産である「御料林(ごりょうりん)」へと編入した。皇室財産となったことで再び伐採は厳しく制限され、明治神宮の造営や伊勢神宮の式年遷宮などに用いられる最高級ヒノキの供給源として保全されることになった。
戦後、御料林は国有林へと引き継がれ、林野庁の管理下に置かれた。長野県上松町にある「赤沢自然休養林」は、尾張藩の御留山が御料林を経て国有林へと受け継がれた典型的な場所である。ここには樹齢三百年を超える木曽ヒノキの巨木が鬱蒼と生い茂り、日本の森林浴発祥の地として一般に開放されている。その整然とした林相は、元禄期に尾張藩が定めた厳しい伐採禁止令が、三世紀以上の時を経て現在に結実した姿にほかならない。
一方、中山道の宿場町もまた、特異な歴史を辿った。明治以降、鉄道(現在の中央本線)や国道が整備される際、谷底の狭隘な地形ゆえに旧宿場町の中心部を迂回して敷設された場所が多かった。この開発からの取り残されが、結果として奇跡的に江戸時代の町並みを残す契機となる。
昭和四十三年(1968年)、妻籠宿(長野県南木曽町)で始まった町並み保存運動は、全国の伝統的建造物群保存地区制度の先駆けとなった。「売らない、貸さない、壊さない」という三原則を住民憲章に掲げ、電柱を地下に埋め、江戸時代の宿駅の佇まいを復元した景観は、いまや世界中から旅行者を引き寄せている。奈良井宿(長野県塩尻市)の千本格子の家並みや、木曽福島に残る山村代官屋敷、復元された福島関所跡の門構えも、かつて尾張藩の支配がこの山あいに敷かれていた事実を静かに伝えている。
もっとも、現在の木曽谷が直面する現実は平坦ではない。林業の全国的な衰退は木曽地域にも深刻な影を落としており、安価な輸入材の普及や後継者不足により、美林を維持するための手入れコストは年々重くなっている。観光業への依存度が高まる一方で、急速な人口減少と高齢化が進み、宿場の景観を維持するための共同体の存続そのものが試されている。かつて尾張藩が扶持米を支給してまで宿場や山林を守らせたように、山間地のインフラと環境をどのように次代へ手渡すかという課題は、行政の枠組みが変わった今も形を変えて横たわっている。
支配とは、川をつなぐ技術だった
平野部の大名が山奥の谷を支配する。一見すると地政学的な矛盾のように思える尾張藩の木曽統治は、土地そのものを領有することではなく、水系という流動的なインフラを掌握することに本質があった。
近世の幕藩体制を石高という「土地の面積と米の生産量」だけで測ろうとすると、木曽谷の統治は見誤る。尾張藩にとって木曽谷は、米を産み出す田畑ではなく、建築資材という膨大な付加価値を蓄えた巨大な倉庫であり、その倉庫から城下町へと直結する運河の起点だった。平野の富が山を支え、山の木が平野の都市を造る。この双方向の循環を、木曽川の水流と山村代官という統治装置を用いて維持し続けた。
福島関所の跡地に立つと、谷を吹き抜ける風が山肌を揺らし、眼下には木曽川の急流が白波を立てて南へ下っていくのが見える。関所が旅人を睨み、山番が木を見張り、筏師が急流を乗りこなした時代、名古屋と木曽は行政の境界を越えて同じひとつの水系として呼吸していた。平野の城から山林を治めるという試みは、自然の地形に逆らう支配ではなく、一本の川が持つ輸送力と生態系をそのまま統治機構へと転換した、きわめて計算された空間設計の結果だった。
旅と食が好き。どこにでもいます。