海を持たない木曽や信州の山間部へ、どのようにして塩が届けられていたのか?

ふたつの海から届く白い粒
長野県塩尻市の中心部に立つと、ふと奇妙な地理の巡り合わせに思いが至る。この街は太平洋からも日本海からも等しく100キロメートル以上離れた、本州の文字通りの中央部に位置している。それにもかかわらず、地名には海産物の象徴である「塩」の字が残る。伝承によれば、日本海から運ばれてきた塩の輸送路と、太平洋から上がってきた塩の輸送路が、ちょうどこの地で突き当たって終わることから「塩の終わり=塩尻」と名付けられたという。
海に囲まれた日本列島において、山間部に暮らす人々がいかにして塩を得ていたのかという問いに対しては、「沿岸部で作られた塩を街道経由で買い運んだ」という至極シンプルな答えが用意されがちである。確かにその通りには違いない。しかし、岩塩の鉱床が国内にほぼ存在せず、海水を煮詰めて塩分を得るしかなかったこの国において、標高数千メートル級の山々が連なる信州や木曽の深山へ日常的に塩を届け続けることは、単に荷物を運ぶという言葉だけでは片付かない途方もない困難を伴っていた。
雨や雪に降られれば水に溶けて目減りし、湿気を吸えば重さを増す。そして塩分は運搬具の金属や馬具をたちまち錆びさせる。しかも、冬になれば主要な峠道は数メートルの積雪によって遮断された。保存が利く穀物とは異なり、塩は人間の生理機能を維持するために途絶させることが許されない生命維持装置そのものであった。
これほど扱いづらく、かつ途絶が許されない物資を、近代的な鉄道も舗装道路もない時代に、どのような輸送体系と品質管理をもって奥山まで届けていたのだろうか。
甲州の塩止めと塩問屋の台頭
日本における海塩の内陸輸送は、すでに縄文時代の遺跡から出土する製塩土器によってその存在が証明されている。沿岸部で海水を煮詰めて作られた粗塩は、古代から中世にかけて幾筋もの山道を辿り、山の民のもとへと届けられていた。その流通が社会の骨格として急速に整備された背景には、軍事と政治の論理が存在していた。
戦国時代の永禄11年(1568年)、駿河の今川氏と相模の北条氏は、甲斐の武田信玄を経済的に追い詰めるため、領内からの塩の流入を断つ「塩止め」を断行した。内陸に位置する甲斐や信濃の領民、そして武田軍にとって、塩の途絶は致命的な打撃となるはずであった。この危機に対して、越後の上杉謙信が宿敵である武田信玄に対して「争うべきは弓矢であり、米塩ではない」として、日本海側の糸魚川から信濃を経由するルートで塩の供給を続けたとされる逸話は、いわゆる「敵に塩を送る」の故事として知られている。このとき塩が運ばれた街道こそが、後に「千国街道(ちくにかいどう)」と呼ばれる道であった。
江戸時代に入ると、内陸への塩の輸送は軍略の道具から、綿密に管理された地方経済の基幹システムへと移行する。信州や木曽の山間部へ至る塩の道は、大きく分けてふたつの系統に整理された。ひとつは新潟県の糸魚川から姫川の渓谷に沿って南下し、小谷、白馬、大町、安曇野を経て松本・塩尻へと至る北側の千国街道(松本街道)である。もうひとつは愛知県の名古屋や三河の海岸沿いから足助、稲武を経て、伊勢神峠などの難所を越えて信州の飯田や伊那、木曽路、塩尻へと北上する南側の三州街道(中馬街道・塩付街道)であった。
各藩は貴重な塩の流入と流出を厳しく監視した。松本藩は千国街道沿いの要所に口留番所を設置し、運上塩と呼ばれる通行税を徴収するとともに、塩の不法な抜け売りを取り締まった。街道の中継地となった信濃大町では、旧平林家に代表される塩問屋が藩から株仲間としての特権を与えられ、周辺の村々へ塩を配給する拠点を形成していった。大町に残る宝暦13年(1763年)の記録によれば、糸魚川方面からは塩や昆布、魚などの海産物が持ち込まれ、その見返りとして信州からはタバコ、紙、油かす、大豆などが搬出されていたという。山間部の塩調達は単なる買い出しではなく、内陸の農産物や加工品と海の恵みを直接交換する大規模な地域間交易の背骨として機能していたのだ。
俵を解き、牛と眠る山路の仕組み
信州の奥深い山々へ塩を運ぶ工程において、最大の障害となったのは険しい地形そのものよりも、むしろ産地ごとにバラバラであった塩の規格と、輸送手段の物理的限界であった。太平洋側の塩田から出荷される塩と、瀬戸内や日本海側から運ばれてくる塩では、一俵あたりの重量も水分量も品質も大きく異なっていた。これをそのまま山道へ持ち込めば、運搬に使う馬や牛の積載バランスが崩れ、運賃の計算や取引現場で深刻な混乱が生じてしまう。
この問題を解決するために組み込まれたのが、中継宿場における「規格化」の仕組みであった。三州街道の中継地であった足助(現在の愛知県豊田市)には、莨屋(たばこや)塩座をはじめとする12軒の塩問屋が集積していた。各地から運ばれてきた塩は、足助の問屋街で一度すべて俵を解かれた。問屋たちは質の異なる塩を独自に吟味し、水分を調整しながら混ぜ合わせ、一定の品質に揃えた上で、中馬(ちゅうま)と呼ばれる運送業者の馬が背負うのに最適な一定の重量に再梱包した。これが「足助直し(あすけなおし)」と呼ばれる作業である。足助直しを経た塩俵は、山道の馬が左右の鞍に均等に振り分けて載せられるよう厳密に目方が統一され、信頼できるブランドとして信州や木曽の市場へと送り出された。
一方、北の千国街道では、輸送手段そのものが地形の険しさに応じて綿密に使い分けられていた。比較的平坦な松本から大町の間では馬や牛が併用されたが、姫川沿いの切り立った断崖や急坂が続く大町以北では、主に牛が使われた。牛は馬よりも歩みが遅いものの、足腰が強く、悪路や重荷に耐える能力に長けていたからである。さらに、冬になって雪が数メートルも降り積もると、牛や馬の通行すら不可能となった。その時期に塩の輸送を支えたのが、「歩荷(ボッカ)」と呼ばれた徒歩の運搬人たちであった。
ボッカたちは、木製の背負子(しょいこ)に一俵あたり40キログラムから60キログラム以上もある塩俵を縛りつけ、吹雪のなか自らの足だけで大網峠や千国越えの難所を歩いた。危険な冬の山越えで命を落とすボッカも少なくなかったが、彼らの歩みが止まれば山村の命脈が尽きるため、運賃は高く設定され、集落を挙げた命がけの輸送作業が続けられた。
街道沿いの施設にも、塩という極めて特殊な物資を運ぶための技術的工夫が凝らされていた。長野県小谷村(おたりむら)に現存する「牛方宿(うしかたじゅく)」は、千国街道における輸送の過酷さと知恵を今に伝える建造物である。この宿屋では、1階の広い土間に牛を繋ぎ、そのすぐ上の2階吹き抜けに面した部屋で牛方(人間)が寝泊まりした。極寒の山中において、貴重な動産であり運搬の相棒でもある牛の体温で室内を温めると同時に、牛の異変に夜中でもすぐ気づけるようにするための構造であった。
また、小谷村の千国番所近くに建てられた塩蔵(しおぐら)には、一切の鉄釘が使われていない。空気に含まれる塩分が金属を急激に腐食させ、建物の寿命を縮めてしまうのを防ぐため、すべての木組が木栓や継手・仕口の技術だけで組み上げられていたのである。ただ塩を持ち込むだけではなく、詰替えの規格化、地形に応じた動力を使い分けるレイヤー構造、そして塩分に耐えうる専用の建築技術。これらすべてのシステムが噛み合って初めて、海を持たない山国への塩の連続供給が可能となっていたのだ。
年物のブリと塩の重さを較べる
山間部における海塩の高度な輸送システムをより立体的に理解するためには、同じ信濃や飛騨の山々を越えて運ばれた他の重要物資、とりわけ「飛騨ブリ」の輸送形態と比較してみるのが分かりやすい。
飛騨高山から野麦峠を越えて信州の松本へと至る野麦街道は、冬場になると「ブリ街道」としての側面を強く帯びた。日本海側の富山湾(越中)や能登で獲れたブリは、塩漬けにされた上で飛騨へ運ばれ、正月の祝い魚として信州の松本平や高遠、木曽方面へと越冬輸送された。この飛騨ブリの輸送もまた、塩と同じく海から山への物資移動であったが、その性質には決定的な違いが存在した。
第一の違いは、輸送の「季節性と緊急性」である。飛騨ブリは正月という特定の行事に間に合わせるための季節商品であり、腐敗を防ぐために気温が下がる極寒の冬期(12月頃)に輸送が集中した。野麦峠は標高1627メートルという屈指の難所であり、牛や馬を通すことができないため、最初からボッカたちの背負子に頼らざるを得なかった。ボッカたちはブリを入れた竹かごを背負い、遭難の危険と隣り合わせで雪深い峠を越えた。これに対して塩の輸送は、農閑期や気候の安定した春から秋にかけて牛馬をフル稼働させて通年で大量輸送し、冬の閉鎖期に備えて各宿場の塩蔵に蓄えておくという、長期的な備蓄計画に基づいて運用されていた。
第二の違いは、物資そのものが持つ「物理的特性とリスク」である。塩漬けのブリは確かに重く匂いも強いが、途中で雨に濡れたからといって製品そのものが水に溶けて消えてしまうわけではない。しかし精製されていない粗塩は、吸湿性が高く、雨に降られれば文字通り荷が溶けて目減りしてしまう。また、塩の自重と水分によって俵が腐り、運搬中に底が抜ける危険とも常に隣り合わせであった。
中国大陸の四川盆地や中央アジアの山岳地帯など、世界各地の内陸部を見渡せば、地中から掘り出される岩塩や、塩湖の水を乾かして得る湖塩が調達の主役となった地域は多い。そうした地域では、鉱山から掘り出した固まりの岩塩をそのまま切出し、ラクダやヤクの背に括り付けて長距離を移動させることができた。岩塩は湿気にも比較的強く、固形物としての取り扱いが容易である。
それに比して、全量を海水加工に依存していた日本の山間部物流は極めて異質であった。日本列島には利用可能な岩塩鉱床が存在しないため、内陸部の需要は100パーセント海塩によって賄われなければならなかった。煮詰めたばかりの粗塩は水分を多く含み、不安定で崩れやすい。だからこそ、足助で行われたような再乾燥と混和、規格化された俵組みという「中継地での二次加工」が絶対に不可欠となったのである。単に物を運ぶのではなく、途中の宿場で製品の物理特性をコントロールし直して山道に適応させるというプロセスは、世界の塩の道と比較しても、日本の海塩輸送に特有の精密なシステムであったと言える。
茅葺の番所と黒ずんだ塩蔵のいま
かつて大勢の牛方やボッカ、中馬が行き交い、塩俵の擦れる音が響いていた街道筋の風景は、近代以降の交通網の再編によって大きく姿を変えた。明治時代以降、中央本線や大糸線といった鉄道が開通し、続いてトラック輸送が主流となると、険しい峠を越える徒歩や牛馬の塩の道は物流の主役としての役割を終えた。
しかし、その足跡は今も山あいの風景のあちこちに鮮明に刻まれている。新潟県糸魚川市から長野県松本市に至る旧千国街道沿いには、往時を物語る史跡が点在する。長野県小谷村には、松本藩が設置していた「千国番所」が復元されており、運上塩の徴収に使われた用具や十手、当時の案内板が展示されている。その目と鼻の先には、前述した釘を1本も使わずに建てられた黒ずんだ塩蔵と、牛と人間が同居した「牛方宿」が、かつての姿のまま保存されている。
白馬村から小谷村にかけての古道に入ると、杉の木立の根元や峠の頂に、無数の石仏や観音像がひっそりと佇んでいるのが目に入る。佐野坂の西国三十三番観音や、観音原に並ぶ180体を超す石仏群は、かつて重い塩俵を背負い、急勾配の山道で滑落や遭難の危険に晒されていたボッカや牛方たちが、道中の安全を祈願して寄進したものとされる。白馬の風切地蔵のように、害虫や悪霊だけでなく山から吹き下ろす突風から旅人を守るために建てられたお地蔵様も残る。
千国街道の中継拠点として栄えた長野県大町市では、塩問屋であった旧平林家の歴史的町家造りの建物が整備され、「塩の道ちょうじや」として公開されている。間口が狭く奥行きが長い「うなぎの寝床」と呼ばれる典型的な町家建築の内部には、塩の輸送に使われた道具類や牛馬の装具、往時の取引記録が保存され、山国における塩の流通史を伝える貴重な文化拠点となっている。また、大町から白馬、小谷にかけての旧街道では、毎年ゴールデンウィーク時期に昔の旅姿やボッカの装束を纏って古道を歩く「塩の道祭り」が開催され、かつての賑わいを地域全体で再現する取り組みが続けられている。
一方、太平洋側の拠点であった愛知県豊田市の足助は、今では「足助の町並み」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。かつて12軒の塩問屋が暖簾を掲げ、「足助直し」で塩の改めを行っていた妻入・平入の町家群は、重厚な土蔵造りの壁面を今に残している。旧塩問屋の莨屋塩座の建物や、明治時代の面影を残す宿を改築した「塩の道づれ家」などでは、かつての塩の歴史にちなみ、海藻の旨味を含んだ「藻塩」を添えて味わう手打ち蕎麦が訪れる人々に提供されている。
かつて足助から稲武を経て信州へと続いていた中馬街道のルートは、現在では国道153号線として舗装され、長距離トラックやマイカーが激しく行き交う幹線道路となっている。かつて人の命を支える生理的エネルギーとしての塩を運んでいた山道は、現在では石油やガソリン、天然ガスといった現代社会の産業エネルギーを運ぶ物流動脈へと役割を変えた。運ぶ物質は塩から化石燃料へと変わったが、海沿いの都市と山間部の生活を結びつける不可欠なライフラインとしての街道の性格は、今も脈々と受け継がれている。
塩尻で合流するふたつの街道
山間部における塩の調達という歴史を辿っていくと、そこには単に「不足している物資を買い求めた」という枠組みを超えた、きわめて合理的な社会の仕組みが見えてくる。
日本列島という地理的条件のもとで、海水から作られる不安定な粗塩を100キロメートル以上離れた標高の高い山奥まで届けるためには、運搬者の体力だけに頼ることは不可能であった。足助の問屋たちが編み出した「足助直し」に見られるような品質と重量の標準化、小谷村の塩蔵に見られるような耐塩性の建築技術、そして平地から峠道、豪雪期に至るまでの馬・牛・ボッカという輸送手段の細かな分業体制。これらが組み合わさることによって、初めて山国の人々の生命維持に必要な塩分が途切れることなく供給され続けた。
山間部へ届いた塩は、単なる調理の調味料にとどまらず、味噌や醤油、漬物といった長期間の保存食を作り出すための必須の原材料でもあった。塩が日常的に届く仕組みが存在したからこそ、冬の厳しさに晒される信州や木曽、飛騨の食文化と暮らしが成立し得たとも言える。
日本海沿岸の糸魚川から姫川の渓谷を南下してきた千国街道の塩と、太平洋沿岸の三河や名古屋から伊勢神峠を越えて北上してきた三州街道の塩。ふたつの異なる海から出発した塩の道は、長野県塩尻市の地でひとつの結節点を形成した。
現在、塩尻駅のプラットホームに立つと、東京方面へと向かう中央東線と、名古屋方面へと抜ける中央西線、そして松本や新潟方面へと伸びる篠ノ井線・大糸線の線路が複雑に交差している。かつて牛の背やボッカの肩に担がれた塩俵が辿った道のりは、形を変えて今も鉄道や国道の網の目となり、日本列島の中央部を静かに貫いている。千国番所跡の角間池道しるべに刻まれた「右 松本街道、左 中谷道」という文字や、小谷村の牛方宿の土間に残る土の冷たさは、かつてこの過酷な山路を白い粒を載せて越えていった膨大な牛馬と人々の足音を、今も確かに伝えている。
旅と食が好き。どこにでもいます。