2026/6/14
ニシンと石炭、そして運河が小樽を「北のウォール街」にした理由

小樽の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
かつてニシン漁と石炭輸送で栄え「北のウォール街」と呼ばれた小樽。その繁栄を支えた資源と港湾機能、そして衰退後に運河保存運動から観光都市へと転換した街の軌跡を辿る。
港に佇む、記憶の重層
小樽の港に立つと、潮風が運ぶのは単なる海の匂いだけではない。石造りの倉庫群が連なる運河沿いには、かつての活気を伝える重厚な空気が漂っている。ガラス工芸やオルゴール、海鮮といった観光イメージの背後には、北海道開拓の黎明期から日本の近代化を支えた港町の歴史が深く刻まれているのだ。なぜこの小さな湾が、一時は「北のウォール街」とまで称されるほどの繁栄を築き、そしてその姿を大きく変えることになったのか。その問いは、街に残る建物や運河そのものが静かに語りかけてくるようである。
鰊と石炭が拓いた道
小樽の歴史は、縄文時代にまで遡る集落跡が示すように、古くから人々が生活を営んできた土地である。忍路環状列石や地鎮山環状列石といったストーンサークルは、その営みの痕跡だ。和人の進出が本格化するのは18世紀後半、ニシン漁を主たる目的としてからである。初期の漁はアイヌの人々が担い、その後、道南からの出稼ぎ漁民が加わったという。江戸時代後期には、ニシン漁の中心地として「ヲタルナイ場所」などが設けられ、松前藩の家臣とアイヌの間で交易が盛んに行われていた。
明治時代に入ると、小樽は北海道開拓の玄関口としてその役割を大きく変える。明治政府は札幌を北海道開発の拠点と定め、その物資供給基地として小樽港の整備に着手したのだ。港には運ばれてくる物資を保管するための木骨石造倉庫が次々と建てられ、海岸線に沿って独特の景観を生み出した。
小樽の飛躍的な発展を決定づけたのは、二つの資源と一つの交通インフラであった。一つはニシンである。明治後期には漁法が改良され機械化も進み、小樽地区では年間9万トン近くもの漁獲高を記録するほどの最盛期を迎えた。漁獲されたニシンは食用だけでなく、本州の綿花や菜花畑の肥料となるニシン粕としても重宝され、北前船によって大量に運ばれた。このニシン景気に沸いた小樽には、東北地方をはじめ全国各地から出稼ぎ漁夫や移住者が殺到し、番屋と呼ばれる大規模な宿泊兼作業小屋が建てられた。その中には、巨万の富を築いた網元が建てた豪華な「鰊御殿」と呼ばれる屋敷も存在し、当時の繁栄ぶりを今に伝えている。
もう一つは石炭である。北海道の内陸部、特に幌内炭鉱で良質な石炭が発見されると、その輸送路として北海道初の鉄道が敷設されることになる。1880年(明治13年)には、石炭輸送を目的に小樽手宮と札幌間を結ぶ官営幌内鉄道が開通し、その後、幌内まで全通した。この鉄道によって、石炭や木材、海産物などが小樽港から大量に積み出され、日本の近代化を支える重要なエネルギー供給港としての地位を確立したのである。港と鉄道という「大動脈」は、小樽を単なる漁村から、北海道経済を牽引する物流拠点へと変貌させた。
北のウォール街を築いた三つの要因
小樽が明治から昭和初期にかけて「北のウォール街」と称されるほどの経済都市へと成長したのは、複数の要因が複合的に作用した結果である。その核にあったのは、先に述べたニシンと石炭という二大資源の存在、そしてそれらを円滑に流通させるための港湾機能、さらに北方との交易という三つの要素が挙げられる。
まず、ニシン漁の隆盛は、莫大な富を小樽にもたらした。ニシン粕は本州の農業にとって不可欠な肥料であり、その取引は巨額の資金を動かした。また、北海道の石炭は日本の近代産業を支える基幹エネルギーであり、小樽はその主要な積出港として、国内外の需要に応え続けた。これらの資源は、単に物資として流通しただけでなく、相場商品として資産運用の対象にもなり、為替や保険といった金融機能の必要性を高めたのである。
次に、小樽港の機能強化が挙げられる。明治中期以降、北海道への移民が本格化すると、増大する道内人口を支える生活物資の供給基地としても小樽は大きく発展した。沖に停泊する大型船から艀(はしけ)と呼ばれる小型船に荷物を積み替え、岸壁の倉庫へ陸揚げする方式が一般的であったが、物資の取扱量が増加するにつれ、この荷役作業の効率化が喫緊の課題となった。そこで、海岸を埋め立てて造成されたのが小樽運河である。1914年(大正3年)に着工し、9年後の1923年(大正12年)に完成したこの運河は、全長約1.3キロメートル、幅40メートルに及び、艀が直接倉庫に接岸できる水路として、物流の効率を飛躍的に向上させた。運河沿いには100棟以上の石造倉庫が立ち並び、北海道の物流を支える心臓部となった。
そして、北方との交流も小樽の経済発展に寄与した。小樽はロシアをはじめとする北方地域との国際貿易港としても発展し、この地で多様な物資や情報が交錯した。こうした経済的背景が、金融機関の集積を促す決定的な要因となったのである。明治11年(1878年)に小樽初の銀行支店である旧第四十四銀行小樽支店が開設されて以降、産業の爆発的な発展に伴い、多くの銀行が小樽に進出した。最盛期には25行もの金融機関が支店を構え、北日本随一の金融都市として栄えたという。小樽運河から一本山側を通る色内大通りや、旧日本銀行小樽支店がある日銀通り界隈には、旧日本郵船株式会社小樽支店(国指定重要文化財)や旧日本銀行小樽支店(小樽市指定有形文化財)といった、当時の国内有数の建築家が手がけたルネサンス様式などの重厚な石造りの建物が今も数多く残されている。これらの建築群は、当時の小樽が有していた確かな経済力と、その繁栄にふさわしい都市景観を形成しようとした市民の意思を物語っている。
港湾都市の類型と小樽の独自性
日本において、港湾都市は近代化の過程で重要な役割を担ってきた。横浜や神戸に代表されるように、開港を機に国際貿易の拠点として発展し、異文化交流の窓口となった都市は少なくない。これらの都市は、海外からの物資や技術、文化を取り入れ、日本の産業や社会の変革を牽引してきた。小樽もまた、北海道開拓という国家的なプロジェクトの中で、その物流と金融を支える拠点として急速に発展した点では共通している。しかし、その発展の基盤となった資源の種類や、その後の衰退と再生の過程には、小樽独自の様相が見て取れる。
例えば、横浜や神戸が絹や茶といった農産物、あるいは工業製品の輸出入で栄えたのに対し、小樽の経済を牽引したのは、ニシンという水産資源と、石炭という鉱物資源であった。特にニシンは、食用だけでなく肥料としての需要が大きく、その生産サイクルと流通が小樽の経済に与える影響は計り知れないものがあった。ニシン漁の盛衰が直接的に街の景気に結びつき、「群来(くき)」と呼ばれるニシンの産卵による海の白濁現象が、豊漁の兆しとして経済活動を活気づけた時代もあった。このような特定の自然資源への依存度の高さは、他の大都市型港湾とは異なる特徴である。
また、小樽の発展は、北前船に代表される日本海交易の歴史とも深く結びついている。本州との間の物流は、太平洋側の航路とは異なる独自の経済圏を形成し、樺太(サハリン)との交易も盛んに行われた。これは、単に「開かれた港」というだけでなく、「北の玄関口」としての地理的優位性が、特定の地域との結びつきを強めたことを示している。
しかし、特定の資源に依存した経済は、その資源の枯渇や産業構造の変化に脆弱であるという側面も持つ。小樽の場合、1950年代後半からニシン資源が枯渇し、商業規模の漁業は1958年を最後に終焉を迎えた。また、エネルギー革命により石炭から石油への転換が進むと、石炭積出港としての役割も縮小した。これにより、小樽は急速な経済的衰退期を迎え、かつての活気を失っていくことになる。同時期に、札幌が北海道の中枢都市としての機能を強化していく中で、小樽にあった金融機関や企業は次々と札幌へと移転していった。
他の港湾都市が、より多様な産業への転換や、国際的なハブとしての機能強化によって経済的地位を維持・発展させていったのに対し、小樽は基幹産業の衰退という大きな壁に直面した。この「斜陽のまち」と評された時期は、小樽が自らの歴史的遺産とどう向き合い、いかにして新たな活路を見出すかという、独自の問いを突きつけられる転換点となったのである。
石造りの街並みが迎える現在
昭和中期以降、小樽は基幹産業の衰退と人口減少という課題に直面した。ニシン漁の終焉と石炭需要の低迷に加え、札幌への一極集中が進む中で、小樽の人口は1960年の約19.8万人をピークに減少し続け、2025年には10万人を切る見通しである。かつて北海道の経済を牽引した港湾都市は、「斜陽のまち」と呼ばれる時代を迎えたのである。
そうした中で、小樽が新たな活路を見出すきっかけとなったのが、小樽運河の保存運動であった。近代的な港湾整備が進むにつれて、艀による荷役の必要性が薄れ、運河は役割を失っていった。1960年代には、小樽市が運河を埋め立てて道路化する計画を検討したものの、これに対し「小樽運河を守る会」が発足し、10年以上にわたる保存運動が展開された。この市民運動は全国的な注目を集め、その結果、運河の南側半分が埋め立てられて道路が整備されたものの、運河の一部と石造倉庫群の景観は保たれることになった。この運動は、失われゆく歴史的景観を市民が主体的に守ろうとした点で、日本の都市再生における重要な事例として位置づけられている。
運河の保存は、小樽が観光都市へと転換する大きな契機となった。運河沿いの石造倉庫群は、レストランやショップ、博物館として改修され、その独特のレトロな街並みは多くの観光客を惹きつけるようになった。旧日本銀行小樽支店は金融資料館として、また旧北海道銀行本店はワインカフェとして活用されるなど、かつての「北のウォール街」を象徴する歴史的建造物も、その重厚な外観を保ちながら新たな命を吹き込まれている。小樽市も1983年(昭和58年)に「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を制定し、85棟もの建物を歴史的建造物として指定するなど、街並み保存と活用に力を入れている。
2023年には小樽運河が完成から100年を迎え、観光入込客数はコロナ禍からの回復を見せ、2024年度には7年ぶりに800万人を超えた。特に外国人宿泊客数は過去最高を記録しており、SNS映えスポットやクルーズ船の寄港増加も観光需要を下支えしている。
しかし、現代の小樽は新たな課題にも直面している。人口減少は依然として深刻であり、特に生産年齢人口の流出による「社会減」が顕著である。観光産業は活況を呈しているものの、観光関連施設での人手不足は課題となっている。また、観光客が一部地域に集中することによる市民生活への影響や、人口減少に伴う地域経済の集積の喪失、公共交通機関の減便といったインフラ維持の問題も顕在化している。小樽市は、移住・起業支援やスキマバイトサービスとの連携など、人口減少問題への対策を講じているが、観光への依存度が高い経済構造の中で、持続可能なまちづくりをどう進めるかが問われている。
記憶をまとう街の問い
小樽の歴史をたどると、一つの街がどのようにして急速な発展を遂げ、そしてその基盤が失われた後にいかにして新たな価値を見出してきたのか、その変遷が克明に浮かび上がる。かつてはニシンと石炭という特定の資源に依存し、その豊かさが「北のウォール街」という金融都市の顔を形作った。しかし、資源の枯渇と産業構造の変化は、街から活気を奪い去り、多くの人々を流出させた。
この小樽の軌跡が示唆するのは、都市の繁栄が特定の資源や産業によって支えられる脆弱性である。同時に、市民が自らの街の記憶と向き合い、運河保存運動という具体的な行動を起こしたことが、衰退から観光都市への転換点となった。今日、小樽を訪れる人々が目にする石造りの運河や重厚な銀行建築は、単なる歴史的遺産ではない。それらは、かつての繁栄を物語る証であると同時に、失われた活気と、それを乗り越えようとした人々の努力が凝縮された存在なのだ。
小樽が現在抱える人口減少や観光産業における課題は、過去の栄光とは異なる次元の現実を突きつけている。しかし、歴史的建造物を単に保存するだけでなく、カフェやホテル、資料館として活用し、新たな価値を創造しようとする試みは、この街が自らのアイデンティティを再構築し続ける意志を示している。小樽の街並みは、過去の物語を静かに語りながらも、現代を生きる私たちに、歴史をいかに未来へと繋ぐかという問いを投げかけている。その答えは、ガラス越しに揺れる運河の水面や、石造りの壁に残る風雪の痕跡の中に、幾重にも折り重なって潜んでいるのかもしれない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- otaru.lg.jpcity.otaru.lg.jp
- OTARU THE STORY vol.5小樽物語 小樽とニシン – UNGAPLUSunga-plus.com
- ディスカバー北海道|明和地所株式会社meiwajisyo.co.jp
- 北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽|日本遺産ポータルサイトjapan-heritage.bunka.go.jp
- 小樽の歴史的建造物おすすめ18選【2026年最新】地元店UNGAPLUSが厳選unga-plus.com
- mlit.go.jp
- 小樽ってこんなところ⑤ 小樽の歴史2 ~江戸末期から昭和初期~│グランドパーク小樽【公式】parkhotelgroup.com
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