2026/6/11
関から多治見にかけての低山多谷地形は、川と地質がどう作り上げたのか

関のあたりはちょっと特殊な地形をしている気がする。何か秘密があるか?
キュリオす
岐阜県関市から多治見市にかけて広がる、低山と谷が複雑に入り組む地形。その成り立ちは、中央構造線に起因する地質と、長良川や土岐川による長年の浸食・堆積作用が複合的に作用した結果であることを解説する。
岐阜県関市から美濃市、そして多治見市にかけての地域を車で走ると、独特の地形が続くことに気づく。盆地のように平坦でもなく、かといって明確な山岳地帯でもない。低い山々が連なり、その合間を縫うように川が流れ、小さな平地が点在する。視界が開けたかと思えばすぐに山に囲まれ、また別の谷筋へと入っていく。この、どこか複雑で入り組んだ風景は、一体どのような理由から形成されたのだろうか。地形図を広げても、その成り立ちの面白さは一見しては捉えにくい。
この地域の地形を理解するには、まず数千万年スケールの地質構造を遡る必要がある。関市から美濃市にかけては、西南日本を東西に貫く巨大な断層である中央構造線が近くを走り、その影響を強く受けている地域だ。この中央構造線を境に、北側には主に古生代から中生代の堆積岩や変成岩が分布する「内帯」が、南側には中生代から新生代にかけての堆積岩が広がる「外帯」が存在する。関市周辺は、内帯に属する飛騨変成岩類や美濃帯堆積岩類が基盤をなしている。これらの岩石は非常に硬く、長い年月をかけて浸食されながらも、今日の山地の骨格を形成している。
さらに重要なのは、木曽川、長良川、揖斐川という「木曽三川」の存在である。現在の三川は、濃尾平野を潤す大河として知られるが、その流路は時代とともに大きく変化してきた。特に長良川は、関市から美濃市を貫流し、この地域の地形形成に決定的な役割を果たしてきた川だ。かつては現在よりもはるかに広範囲にわたって氾濫を繰り返し、堆積物を運び込んだり、あるいは硬い岩盤を削り取ったりすることで、複雑な河岸段丘や谷を形成した。例えば、美濃市には長良川の浸食によって形成された「うだつの上がる町並み」が見られるが、これは川の氾食から町を守るために築かれた土台が起源とも言われている。
また、この地域の東部、多治見市から土岐市にかけては、美濃・三河高原の西縁部に位置する。この高原は、かつて湖であった地域に堆積した地層が隆起したもので、その後の浸食によって丘陵地帯が形成された。特に、良質な陶土が産出されることでも知られるが、これは太古の湖に堆積した粘土層が起源である。このように、関から多治見にかけての地域は、中央構造線に起因する大規模な地質構造と、木曽三川、特に長良川による長年の浸食・堆積作用、そして高原の隆起と削剥という、複数の地質学的な力が複合的に作用して現在の姿を形作ってきたのだ。
関市から美濃市、そして多治見市にかけての地形が複雑に見えるのは、主に「低山多谷(ていざんたたに)」と表現される構造が顕著なためだろう。これは、高い山脈が連なるわけではないが、標高数百メートル程度の山々が連続し、その間を無数の谷が刻み込んでいる状態を指す。この谷の多くは、長良川水系や庄内川水系(多治見方面)の支流によって形成されたものだ。
硬い基盤岩からなる山地を、河川が長い時間をかけて深く削り込むことで谷が形成される。しかし、山地全体が均一な硬さではないため、より軟らかい地層や断層が走る部分は深く、広く削られ、硬い岩盤の部分は削られずに残って山となる。この繰り返しによって、まるで迷路のように入り組んだ谷と尾根の地形が生まれるのだ。特に、関市周辺では、長良川が大きく蛇行しながら流れることで、河岸段丘が発達し、段丘面と谷底平野が複雑に絡み合っている。関市街地が長良川と津保川の合流点付近に開けたのも、こうした地形的な有利さがあったからだろう。
多治見市方面では、土岐川(庄内川の上流)が同様に丘陵地を削り、その谷筋に市街地が形成されている。この地域に陶磁器産業が発達したのも、良質な陶土が採れる地質に加え、川による運搬が容易だったことが大きい。谷の奥には窯業に適した森林資源も豊富であり、地質と水系が産業の立地を決定づける要因となった。このように、この地域の「低山多谷」の構造は、単なる地形的な特徴に留まらず、そこに暮らす人々の生活や産業のあり方をも規定してきたと言える。
関から多治見にかけての地域が持つ地形的な特異性は、他の日本の河川流域と比較するとより明確になる。例えば、関東平野を流れる利根川や、新潟平野を流れる信濃川のような、広大な沖積平野を形成する大河川の流域とは大きく異なる。これらの平野は、河川が運ぶ土砂が広範囲に堆積し、比較的平坦で広大な農地が広がっている。対して、関・美濃・多治見の地域は、平野と呼べるほどの広がりを持つ場所が少なく、山と谷が複雑に入り組んでいる。
また、京都盆地のような典型的な構造盆地とも一線を画す。京都盆地は、周囲を山に囲まれた比較的均質な平坦地が広がり、そこに市街地が発達した。しかし、関・美濃・多治見の地域は、明確な盆地というよりは、長良川や土岐川といった河川が、硬い地質を削りながら「谷」を広げ、その谷筋に沿って集落や産業が発達してきた経緯がある。個々の谷は盆地状に見える場所もあるが、全体としては連続した盆地ではなく、複数の谷が網の目のように繋がっているような印象を受ける。
これは、木曽三川が、濃尾平野という広大な平野を形成する一方で、その上流部や縁辺部では、硬い岩盤を穿つように流れ、複雑な侵食地形を作り出してきたことによる。特に、長良川が関市から美濃市にかけて、大きく蛇行しながら山地を横断するように流れる「横谷」の形態は、他の大河川ではあまり見られない特徴だ。この横谷の存在が、周囲の低山地と相まって、単なる平野でも盆地でもない、独特の「低山多谷」の風景を際立たせている。
現代において、関から多治見にかけての複雑な地形は、人々の生活や産業に多様な影響を与え続けている。交通網を見ると、長良川や土岐川に沿って主要な道路や鉄道が敷設されていることがわかる。例えば、長良川鉄道は長良川の谷筋を縫うように走り、地域の集落を結んでいる。しかし、谷と谷の間を移動するには、低い峠を越えるか、トンネルを抜ける必要がある。これは、この地域が持つ「低山多谷」の構造をそのまま反映したインフラのあり方と言えるだろう。
産業においては、関市の刃物産業や美濃市の和紙産業、多治見市の陶磁器産業は、かつての立地条件が変化した現代においても、その技術と文化を継承している。刃物産業は、清らかな水と研磨に適した砂鉄、そして木炭などの燃料が豊富だったことが発展の背景にあった。現代では原料調達の方法は変わったが、水系の恩恵は今も残る。陶磁器産業は、質の高い粘土と燃料の木材、そして川による運搬が不可欠だった。現在も、多治見は陶磁器の一大産地として知られ、その景観には丘陵地に点在する窯元や、川沿いの工場が溶け込んでいる。
一方で、この地形は開発に制約を与える側面もある。広大な平地が少ないため、大規模な工場や商業施設の誘致は難しい場合がある。しかし、そのことが逆に、それぞれの谷筋で独自の文化や産業が育まれ、地域ごとの個性を守ることに繋がってきたとも言える。豊かな自然環境は、近年では観光資源としても注目され、長良川の清流や里山の風景は、都市に暮らす人々にとって魅力的な場所となっている。
関から美濃、そして多治見へと続くこの地域を特徴づける「低山多谷」の地形は、単なる地理的な現象に留まらない。それは、硬い地層を数千万年かけて削り続けた川の記憶であり、その流れに適応し、利用してきた人々の営みの痕跡でもある。私たちはこの土地を訪れるとき、しばしば目に見える産業や文化に目を奪われがちだが、その背後には常に、川と山が織りなす複雑な舞台装置が存在している。
この地域を旅する中で「なぜ、この場所にこれほどの数の刃物工場が集中しているのか」「なぜ、この谷筋に陶器の町が栄えたのか」という問いが浮かんだとする。その答えは、単に豊富な資源があったから、というだけでは終わらない。それは、地形がもたらす水の恵み、地質が育んだ土と鉱物、そしてそれらを効率的に利用するための谷筋という限定された空間が、偶然ではなく必然的に重なり合った結果なのだ。この複雑な地形は、一見すると不便さや閉鎖性を感じさせるかもしれない。しかし、その入り組んだ谷の一つ一つが、独自の歴史と文化を育む揺りかごとなり、今日までその姿を残している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。