2026年5月19日
徳山という地名、周南の歴史を辿る
山口県周南市は、江戸時代の徳山藩成立に始まる「徳山」という地名の由来と、天然の良港を活かした近代工業の発展という二つの側面を持つ。軍事需要から始まった産業は、戦後コンビナートへと発展し、現在の周南市の姿を形作った。
潮風と化学の匂いが混じる岸辺で
山口県の瀬戸内海沿岸を走ると、ひときわ目を引く工場群が現れる。夜になれば、光の帯が幾重にも重なり、まるで未来都市のようだ。この風景を目の当たりにすれば、誰もが「工業地帯」という印象を抱くに違いない。しかし、この地が「周南」と呼ばれるに至るまでの道のり、そしてかつてこの一帯の中心であった「徳山」という地名の由来を辿ると、単なる産業都市という言葉では括れない、幾層もの歴史が浮かび上がってくる。
藩主の移封と地名「徳山」の誕生
周南地域の歴史を語る上で、まず触れるべきは江戸時代に萩藩の支藩として成立した徳山藩である。元和3年(1617年)、長州藩主毛利輝元の次男である毛利就隆が、周防国都濃郡および熊毛郡内で3万石あまりの領地を与えられたことに始まる。就隆は当初、下松に居館を構えたため、この藩は当初「下松藩」と呼ばれた。
しかし慶安3年(1650年)、就隆は交通の便に恵まれた都濃郡の野上村へと居館を移す決断をする。この移転に際し、野上村は「徳山」と改称され、ここに徳山藩が本格的に発足したのだ。 この「徳山」という地名の由来については諸説あるが、藩主の居館移転に伴い新しく名付けられたという経緯が明確に資料に残っている。ただし、鎌倉時代末から南北朝時代にかけてこの地を支配した土岐氏の山城があり、「土岐の山」が「徳山」に転じたという古い説も存在し、地名の歴史には重層的な側面がある。
徳山藩は、宗家である萩藩との間に幾度か軋轢を抱えながらも、独自の藩政を敷いた。特に有名なのが正徳6年(1716年)に起こった「万役山事件」である。久米村の山林をめぐる萩藩との争いが幕府の裁定に持ち込まれ、結果として徳山藩は一時改易(取り潰し)の憂き目を見ることになる。 しかし、家臣たちの尽力もあり、享保4年(1719年)には再興を果たす。 このような激動の歴史を経て、徳山藩は幕末までこの地を治め、明治4年(1871年)の廃藩置県によって山口藩に合併されるまで続いた。 藩政期には「毛利の三白政策」と称される米、塩、和紙の生産が奨励され、これらの物資を積み出す港が整備されたという。
瀬戸内の良港が育んだ産業の胎動
「工業地帯」という現在の周南の姿は、江戸時代の徳山藩の歴史とは直接繋がらないように見えるかもしれない。しかし、その後の近代化の波の中で、この地が持つ地理的条件が決定的な役割を果たすことになる。周南市が面する徳山湾は、笠戸島や大津島、黒髪島といった多くの島々に囲まれた天然の良港であり、湾内は一年を通じて波が穏やかで、大型船舶の出入りや停泊に適した広さと水深を備えていたのだ。
