2026/7/7
縄文時代から続く大豆栽培、室町時代に味噌・醤油普及を支えた土地の知恵とは?

室町時代に味噌や醤油が普及したと見たが、味噌や醤油に使う大豆はどのようにいつ頃から広く栽培されるようになったのか?あるいはずっと栽培されていたの?
キュリオす
縄文時代にまで遡る日本での大豆栽培の歴史を辿る。室町時代の二毛作普及と、大豆が土壌を肥やす役割を果たしたことで、味噌や醤油の大量生産が可能になった経緯を解説する。
畦道に並ぶ緑の列を眺めて
初夏の田園を歩くと、整然と植えられた稲の脇、細い畦道に沿って青々とした葉を茂らせる植物が目に入る。畦豆(あぜまめ)と呼ばれる大豆だ。稲作の主役である米の影に隠れ、あくまで「ついで」に植えられているようにも見える。だが、この小さな豆こそが、日本人の体格を支え、土壌を豊かに保ち、そして室町時代以降に爆発的に普及する味噌や醤油の文化を根底から支えた立役者である。
室町時代、それまで貴族や僧侶などの限られた階層の贅沢品だった味噌や醤油は、一気に庶民の食卓へと降りてきた。現代の私たちが日常的に口にする和食の原型は、この時期に形作られたといってよい。しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。調味料としてこれほど大量に消費されるようになったということは、その原料である大豆もまた、それ以前とは比較にならない規模で生産されていなければならない。
大豆は、いつから、どのようにして日本の大地にこれほど深く根を下ろしたのか。古くから栽培されていたという説もあれば、中世の農業革命によって一変したという見方もある。単なる食料としての伝来を超えて、大豆が日本の農業システムそのものに組み込まれていった経緯を辿ると、そこには単なる「普及」という言葉では片付けられない、土地と人間の緻密な駆け引きが見えてくる。
土器に刻まれた五千年前の記憶
日本における大豆の歴史を紐解こうとすると、かつての定説が次々と塗り替えられている事実に突き当たる。かつて大豆は、弥生時代に稲作とともに大陸から伝わった「渡来の作物」であると考えられていた。しかし、近年の植物考古学の進展は、それよりも遥か昔、縄文時代の土器にその痕跡を見出している。
山梨県北杜市の酒呑場遺跡など、中部地方から関東にかけての縄文時代中期の遺跡から、土器の壁面に大豆の種子がめり込んだ跡、いわゆる「圧痕」が多数発見された。これらは約5000年前のものと推定されている。野生のツルマメが自然に混入したにしては種子が大きく、すでに人間が選別し、栽培に近い形で管理していた可能性が高い。つまり、日本列島は大豆の「発祥地」の一つであったかもしれないのだ。
その後、弥生時代に入ると、大陸からより大粒で生産性の高い品種が持ち込まれる。これが既存の在来種と混ざり合い、あるいは置き換わりながら、稲作とセットで全国へ広がっていった。奈良時代の『古事記』や『日本書紀』において、大豆が「五穀」の一つとして神話の中に位置付けられているのは、その重要性がすでに確立されていた証左といえる。
律令国家の成立とともに、大豆は国家管理の対象となった。701年の大宝律令には、朝廷の食事を司る部署で大豆を原料とした「醤(ひしお)」が造られていたことが記されている。さらに927年の『延喜式』を紐解けば、当時の醤の配合比率まで細かく規定されていることがわかる。しかし、この時代の醤や味噌の原型は、あくまで宮廷や大寺院のための高級品であった。大豆そのものも、租税として各地から集められる貴重な「財」であり、庶民が日常的に調味料の原料として大量投入できるような存在ではなかったのである。
二毛作という土地の再定義
大豆が「贅沢品」から「日用品」へと転換する決定的な契機は、鎌倉時代から室町時代にかけての農業革命にあった。この時期、日本の農村では「二毛作」という画期的な土地利用法が普及し始める。それまで夏に米を作るだけだった水田を、冬から春にかけても活用し、麦や大豆を栽培するようになった。
この変化を支えたのは、単なる労働意欲の向上ではない。牛や馬に犂(すき)を引かせて深く土を耕す「牛馬耕」の普及や、灌漑技術の進歩、そして「肥料」に対する認識の変化が、土地の生産力を限界まで引き出した。特に重要だったのが、刈り取った草をそのまま土に埋め込む「刈敷(かりしき)」や、草木を焼いた「草木灰」の使用である。これにより、連作障害のリスクを抑えつつ、一年に二度の収穫が可能になった。
ここで大豆が果たした役割は、単なる収穫物の一つに留まらない。マメ科の植物である大豆の根には「根粒菌」が共生している。この細菌は、空気中の窒素を取り込んで植物が利用できる形に変える「窒素固定」を行う。当時の農民たちが微生物の存在を知るはずもないが、彼らは経験的に「大豆を植えた後の土地は肥える」「大豆を畦に植えると隣の稲がよく育つ」という法則を見出していた。
大豆は、米の裏作として、あるいは田んぼの畦という「隙間」で栽培されることで、主食である米の生産を妨げるどころか、むしろ土壌に栄養を供給する装置として機能した。室町時代の中期には、二毛作は関東地方にまで広がり、さらに畿内などの先進地域では「三毛作」すら行われるようになる。この生産基盤の拡大こそが、味噌や醤油の爆発的な普及を裏側で支えた供給源となった。大豆はもはや、遠くから運ばれてくる租税の品ではなく、農村のあらゆる隙間で自給される、身近で潤沢な資源へと変貌を遂げたのである。
隙間を埋めるアジアの知恵
日本の大豆栽培を、同じく大豆の故郷である中国や、他の穀物文化と比較すると、その特異な立ち位置が浮き彫りになる。中国大陸における大豆は、広大な畑地で単一の作物として大規模に栽培される「主役」の一つであった。一方で、日本列島の限られた平地において、大豆は常に「隙間の住人」であった。
ヨーロッパの農業史を振り返れば、中世には「三圃式農業」が発達した。これは耕作地を三つに分け、冬作、夏作、そして休耕地をローテーションさせる仕組みである。この休耕地でマメ科の牧草を育てて土力を回復させるという発想は、日本の大豆利用と構造的に似ている。しかし、日本の農民たちは土地を休ませることを良しとせず、水田の畦や、畑の境界線、あるいは稲の収穫後のわずかな期間という「時間と空間の隙間」に大豆をねじ込んだ。
この「多層的な土地利用」は、日本の食文化にも直接的な影響を与えた。中国では大豆を主に「油」の原料や、豆腐のような加工品として大量に消費したが、日本ではそれに加えて「発酵」というプロセスが極端に発達した。限られた土地で収穫された大豆を、いかに効率よく、かつ長期間保存して旨味を引き出すか。その執念が、味噌、醤油、納豆、さらには溜まりといった多様な発酵食品を生んだ。
また、トウモロコシやジャガイモといった新大陸由来の作物が、伝来後に各地の主食を置き換えていったのに対し、大豆は決して米の地位を脅かさなかった。むしろ、米をより美味しく、より健康的に食べるための「相棒」として、その地位を不動のものにした。この補完関係こそが、日本の農業システムが数百年間にわたって破綻することなく、人口を支え続けられた理由の一つである。大豆は、土地の貧しさを補い、主食の欠点を埋める、極めて精緻な「調整役」だったのである。
消えゆく畦豆と地大豆の意地
江戸時代に入ると、大豆栽培はさらに洗練されていく。1697年に刊行された宮崎安貞の『農業全書』には、大豆の種類として「黄、白、黒、青」の四色があり、それぞれに大小や形のバリエーションがあることが記されている。地域ごとに気候や土壌に合わせた「地大豆(じだいず)」が選抜され、味噌用、醤油用、あるいは正月料理用といった用途に応じた品種が固定化されていった。
しかし、明治以降の近代化、そして戦後の農業政策は、この多様な大豆の風景を一変させた。高度経済成長期を経て、安価な輸入大豆が大量に流入すると、手間のかかる畦豆や小規模な畑作大豆は急速に姿を消していった。現在、日本の大豆自給率はわずか数パーセントに過ぎない。かつて村ごとに、あるいは家ごとに異なっていた味噌の味を支えていた地大豆の多くは、絶滅の危機に瀕している。
それでも、旅の途上でふと立ち寄った地方の直売所などで、聞いたこともない名前の大豆に出会うことがある。「借金なし」「神楽(かぐら)」「一人娘」。こうしたユニークな名前を持つ在来種は、その土地の農家が、機械化には向かないが味は格別だからと、自家用に細々と守り継いできたものだ。
現代の醤油や味噌の多くは、北米やブラジルの広大な農地で、大規模な機械作業によって収穫された大豆を原料としている。それらは効率的で均質な「工業製品」としての調味料を支えている。一方で、今も各地に残る伝統的な蔵元の中には、地元の農家と契約し、その土地固有の地大豆を使った醸造を続けている場所がある。そこに見えるのは、単なる懐古趣味ではない。かつて室町時代の農民たちが、土地の力を信じ、隙間を縫うようにして豆を植えた、あの執拗なまでの「土地との繋がり」の再発見である。
土地の管理術としての再評価
大豆の歴史を辿り直して見えてくるのは、それが単なる「健康に良い食品」や「調味料の原料」という枠に収まらない、日本の土壌管理システムそのものであったという事実だ。室町時代に味噌や醤油が普及した理由は、単に人々の好みが変わったからではない。二毛作という農業革命の中で、大豆が「土を肥やす装置」としてシステムに組み込まれ、その結果として副産物的に大量の供給が可能になったという、生産構造の劇的な変化があったのである。
私たちは、味噌汁の一杯や、醤油の一滴の中に、当時の農民たちが畦道に一粒ずつ豆を落としていった際の手触りを想像することができるだろうか。大豆は、米という主食を育てるための「犠牲」や「ついで」ではなく、土地の持続可能性を担保するための、もっとも知的な解決策であった。
縄文の土器に刻まれた小さな痕跡から、室町時代の二毛作、そして現代の在来種保存の動きに至るまで、大豆は常に日本の土地の限界を押し広げる役割を担ってきた。かつて「大いなる豆」と名付けられたその植物は、文字通り、日本の歴史と風土を繋ぎ止める大きな楔(くさび)として機能してきたのである。
現代において、再び大豆の価値が叫ばれている。それはタンパク質源としての代替肉といった文脈であることが多いが、歴史を振り返れば、より本質的な価値は「土地と作物の関係性」にあることがわかる。一粒の大豆が、その根っこで土を肥やし、隣の稲を助け、やがて発酵を経て人の血肉となる。この循環の仕組みを、室町の農民たちは科学以前の経験則として完成させていた。畦道に並ぶ緑の列は、今もなお、私たちが忘れかけている土地との付き合い方を、静かに指し示しているように思えてならない。

畦道で栽培していたのか。知らなかった。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。