2026/7/7
室町時代の麦はどのように食べられ、加工されていたのか?

室町時代に二毛作などで栽培した麦はどのように使用していたのか?どのようにして食べたり加工したりしていた?
キュリオす
室町時代、二毛作の普及により大量に収穫された麦は、米に混ぜて炊く麦飯や、挽き割り麦、麦こがしとして日常的に利用された。また、小麦粉はうどんや菓子にも加工され、食生活を豊かにした。
畑の脇で育つ麦の、その先
室町時代、日本の農村風景は、それまでの時代とは一線を画す大きな変貌を遂げつつあった。水田の裏作として麦が導入され、一年を通じて土地を休ませることなく作物を栽培する二毛作が、畿内を中心として各地に広がり始めたのである。春に稲を植え、秋にその黄金色の穂を収穫した後、同じ田畑に休む間もなく麦の種が播かれる。この革新的な農法は、限られた土地から得られる食料生産量を飛躍的に高め、増加する人口を支える基盤となっていった。それまで単作が主流であった農業体系に、新たなサイクルと活力を吹き込んだこの営みは、飢饉のリスクを軽減し、人々の暮らしに安定をもたらす可能性を秘めていた。しかし、そうして耕作地を最大限に活用し、農民たちの労苦によって収穫された大量の麦は、当時の人々によって具体的にどのように食べられ、どのような形に加工されていたのだろうか。米を主食とする文化が深く根付いていた日本の食卓において、麦がどのような位置を占め、どのような役割を担っていたのか、その実像は現代の私たちからは案外と見えにくい側面が多い。
麦が食卓に上がるまで
麦が本格的に普及し、人々の日常の食料として定着し始める室町時代以前、日本の主食は圧倒的に米であり、麦は飢饉や災害時の非常食、あるいは米が不足した際の代用食としての側面が非常に強かった。麦は、米に比べて栽培が容易で、痩せた土地や冷涼な気候にも比較的強いという特性から、不安定な食料供給を補う最後の砦として認識されていたのである。しかし、二毛作の進展とともに麦の収穫量が安定的に増加するにつれて、麦は次第に、特別な時だけでなく日常の食卓に上る機会を増していった。その利用法で最も一般的であったのは、やはり米に混ぜて炊き込む「麦飯」であった。当時の社会では、米だけを贅沢に食べることは一部の富裕層や特別な客人をもてなす場合に限られ、一般的な家庭では米を節約し、かさ増しをする目的で麦を混ぜることが日常的な知恵として広く実践されていたと考えられている。麦飯は、単に米の量を補うだけでなく、米だけでは不足しがちな食物繊維やミネラルを補給する役割も果たし、人々の健康を支える上で重要な意味を持っていた。
麦飯に使われる麦は、主に大麦であった。大麦は米に比べて粒が硬く、そのままでは炊き上がりにムラが出やすく、また消化にも負担がかかるため、食味を向上させ、消化しやすくするための加工が不可欠であった。最も基本的な加工は、外皮を取り除く「精白」であった。これは、臼と杵を用いて麦を搗くことで行われ、手間のかかる作業であったが、麦の硬さを和らげ、米との食感を馴染ませる上で重要な工程であった。さらに進んだ加工として、精白した大麦の粒を半分に割った「挽き割り麦」が普及した。挽き割り麦は、粒が小さくなることで米と一緒に炊いても食感が均一になりやすく、また火の通りも良くなるため、より美味しく、日常的に麦飯を楽しむことを可能にした。この挽き割り麦の登場と普及は、麦飯が庶民の食生活に深く浸透していく大きな要因となったのである。また、麦を煎って粉にし、湯に溶いて食べる「麦こがし」(はったい粉)も、手軽で栄養価の高い食料として利用された。これは、事前に加工して保存できるため、農作業の合間の軽食や、旅の携行食としても重宝され、疲労回復や空腹を満たすための簡便な食品として、当時の人々の生活に溶け込んでいた。
粉食文化の広がりと麦
麦の利用は、米に混ぜて炊き込むという主食としての役割に留まらなかった。室町時代に入ると、石臼の普及とともに穀物を粉にする技術が飛躍的に進展し、それまで粥や粒食が中心であった食文化に、新たな「粉食」の文化が徐々に広がりを見せるようになった。この粉食文化の発展において、小麦粉は極めて重要な役割を担った。小麦粉は、うどんや蕎麦(初期の蕎麦は、つなぎとして小麦粉や他の穀物を混ぜることが一般的であった)、あるいは団子などの材料として使われるようになった。特にうどんは、禅宗寺院を通じて日本に伝わり、精進料理の一品として食された記録が残っている。寺院では、厳しい修行に耐える僧侶たちの栄養補給や、来客をもてなすための料理としてうどんが作られ、その製法や食べ方が広まっていった。小麦粉を水で練り、細く切って茹でるというシンプルな調理法でありながら、その滑らかな舌触りと消化の良さは、当時の人々にとって新鮮な食体験であったに違いない。
室町時代には、小麦粉を使った様々な菓子も作られ始めた。例えば、水で練った小麦粉を薄く焼いた「麩の焼き」は、現在のクレープやパンケーキの原型ともいえる菓子であり、甘味料を添えて食された。また、黒砂糖や水飴といった甘味料と混ぜ合わせた餅菓子や、季節の果物などを包んだ菓子など、多様な甘味が工夫されるようになった。これら小麦粉を加工した菓子類は、当初は貴族や武士といった上流階級の間で、茶の湯の文化とともに発展し、もてなしの品として珍重されることが多かった。しかし、寺社や市井の茶屋、あるいは祭りなどの特別な行事の際には、庶民もこれらの菓子を口にする機会があったと推測される。特に都市部では、物資の流通が活発になり、加工食品を扱う店も増えていたため、麦粉を使った菓子は、日々の生活にささやかな楽しみと彩りを与える存在となっていった。麦は、単なる主食の補完材という位置付けから脱却し、多様な加工品へと姿を変え、人々の食生活を豊かにする新たな可能性を切り開き始めていたのである。
全国で異なる麦の顔
麦の利用は、日本全国で一様であったわけではない。その土地の気候、風土、そして社会経済的な状況に応じて、麦は異なる顔を見せていた。米作が困難な寒冷地や、水利が悪く痩せた土地では、麦が主食としての比重をより一層増す傾向にあった。例えば、東北地方の山間部や、水田の少ない地域では、麦を米のように炊き込むだけでなく、粥にしたり、あるいは粉にして団子や餅のように加工したりして、日々の主要な糧としていた。これらの地域では、麦の栽培が生活の根幹を支える重要な営みであり、麦に関する知識や調理法が代々受け継がれていった。
一方で、温暖で米作が盛んな西日本では、米の裏作として大麦の栽培が特に盛んになり、麦飯がより一般的に食されたという。西日本の平野部では、二毛作の効率性が高く、米と麦の生産サイクルが確立されていたため、麦は米を補完する安定した食料源として定着していった。また、麦は貯蔵性にも優れていたため、収穫後に乾燥させて倉庫に保管することで、長期間にわたって食料を確保することが可能であった。この特性は、干魃や水害、あるいは戦乱などで米が不作になった際、麦が人々の命を繋ぐ重要な役割を果たすことを意味した。飢饉の際には、麦が食料供給の最後の砦となり、多くの人々の飢えをしのぐ手助けをした例は少なくない。このように、麦は単一の作物としてではなく、その土地の気候条件、農業技術、そして社会状況に応じて、多様な形で人々の生活に深く組み込まれていたのである。地域ごとの食文化の多様性は、麦の栽培と利用の歴史を抜きにしては語れない。
麦と酒、そして麹の世界
麦は、単に人々の食卓を支える食用作物としてだけでなく、醸造の分野においても極めて重要な役割を担っていた。室町時代には、麦を原料とする酒、いわゆる「麦酒」も存在したとされる。現代のビールとは製法や風味において異なるものであったが、麦芽を糖化させて造られる酒は、祭礼や特別な行事の際に楽しまれたことだろう。これは、麦に含まれるデンプンを麦芽の酵素によって糖に変え、それを酵母で発酵させるという、現代のビール醸造にも通じる原理に基づいていた。当時の麦酒は、おそらく濁りがあり、アルコール度数も低めであったと想像されるが、その独特の風味は、日々の労働の疲れを癒し、人々の交流を深める役割を果たしたに違いない。
また、麦は麹の原料としても広く用いられた。麹は、穀物に麹菌を繁殖させたもので、味噌や醤油、酒などの日本の伝統的な発酵食品を造る上で不可欠な存在である。米麹が一般的であったが、麦麹もまた、その特性に応じて味噌や醤油の製造に利用され、日本の調味料文化の多様化に貢献した。特に九州地方では、麦味噌の文化が古くから根付いており、麦の栽培と加工技術が地域特有の食文化を形成する大きな要因となった。麦味噌は、米味噌に比べて独特の風味と甘みがあり、その地域の食卓に欠かせない調味料として愛されてきた。麦麹を使った醤油もまた、米麹醤油とは異なる風味を持ち、食文化の幅を広げた。このように、麦は、食卓を支える主食や加工食品の原料としてだけでなく、日本の食文化全体の奥行きを広げ、豊かな風味をもたらす発酵食品の基盤としても、その存在感を示していたのである。麦の持つ多様な可能性が、当時の人々の創意工夫によって最大限に引き出されていたことがわかる。
いま、麦の風景を巡る
現代の日本において、麦はパンや麺類(うどん、ラーメン、パスタなど)、あるいはビールや焼酎などの形で広く消費され、私たちの食生活に深く根付いている。しかし、室町時代にまで遡ると、その使われ方はより生活に密着し、当時の人々の知恵と工夫が色濃く反映されたものであったことが明らかになる。二毛作の導入によって、麦は飢饉時の代用食という枠を超え、米の補完材として日常の食卓に上り、人々の命を支える重要な糧となった。精白や挽き割りといった加工技術の進歩は、麦飯の食味と消化性を向上させ、その普及を後押しした。さらに、石臼の普及とともに粉食文化が広がるにつれて、麦はうどんや団子、そして様々な菓子へと姿を変え、食生活に新たな楽しみと彩りをもたらした。地域ごとの気候や風土に応じて、麦は主食の比重を増したり、備蓄食料として重要な役割を担ったりと、多様な顔を見せた。そして、食用に留まらず、酒の原料や味噌・醤油の麹として利用されることで、日本の食文化全体の奥行きを広げる存在でもあった。
室町時代の麦の利用法を辿る旅は、単なる歴史の探求に終わらない。それは、現代の私たちの食文化の源流をたどり、先人たちの知恵と工夫、そして限られた資源の中で豊かな生活を築こうとした努力の軌跡を再認識する旅でもある。麦が単なる穀物ではなく、当時の人々の生活様式、社会経済、そして文化そのものを映し出す鏡であったことを、改めて深く知るのである。麦畑の風景の奥には、常に人々の営みと、食への飽くなき探求心があった。

ほえーーー。麦を作り出して、それがうどんや団子や酒になっていったのか。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 二毛作 日本史辞典/ホームメイトtouken-world.jp
- 室町時代の食文化とは/ホームメイトtouken-world.jp
- お米・ごはん食データベース : お米と文化komenet.jp
- 室町時代の庶民の食事は?雑穀とかゆに込められた知恵と工夫|歴史クロニクル探訪記note.com
- 【農業】adeac.jp
- 室町時代の食 - 思い出してごらん、あんなことあったでしょうkiku376.blog.fc2.com
- ちょっと昔まで「あたりまえ」だった麦の話を聞いていけ|書店員VTuber 諸星めぐるnote.com
- 【高校日本史B】「農業の発達」 | 映像授業のTry IT (トライイット)try-it.jp