2026/6/4
利根川と江戸川の分岐点、関宿の歴史を辿る

野田の関宿の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
千葉県野田市関宿は、利根川と江戸川の分流点に位置し、水運の要衝として栄えた。室町時代後期に築城された関宿城は、戦国時代から江戸幕府にかけて戦略的要地とされ、利根川東遷事業により舟運の中継地として発展した。川と共に生きた人々の営みが、この地の歴史を形作っている。
千葉県の最北端、利根川と江戸川が分流する地点に、関宿の地は位置する。広大な関東平野のほぼ中央にあたり、かつては水運の要衝として栄えたこの場所は、現在、スーパー堤防の上に建つ千葉県立関宿城博物館によって、その歴史を静かに伝えている。なぜ、これほどまでに川に囲まれた地に「城」が築かれ、その存在が長く重要視されてきたのか。この問いは、関宿の歴史を紐解く上で欠かせない出発点となるだろう。
関宿城の起源は室町時代後期に遡る。長禄元年(1457年)、古河公方足利成氏の重臣であった簗田成助が、水海城(現在の茨城県古河市)からこの地に移り、築城したのが始まりと伝えられている。しかし、それ以前から城が存在した可能性も指摘されている。当初、関宿は常陸佐竹氏の所領であったが、永享8年(1436年)に佐竹義人が鎌倉公方から離反した際、簗田満助が仲介役を務めた謝礼として、関宿の地が簗田氏に譲渡されたという経緯がある。
中世の関宿周辺は現在とは異なり、利根川水系や渡良瀬川水系、常陸川水系が流路を自由に曲げ、無数の細流や湖沼が点在する地形であった。この複雑な水路網が、関宿を水上交通の要衝として機能させた。戦国時代には、関東制圧を進める後北条氏が「一国を取るに等しい」とまで評したほど、関宿は戦略的に重要な拠点と見なされた。
北条氏康は、この地の領有を巡り、上杉謙信や佐竹義重の支援を受けた簗田晴助と三度にわたる「関宿合戦」を繰り広げた。最終的に天正2年(1574年)の第三次合戦で関宿城は落城し、後北条氏の支配下に入った。 その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入府。家康は異父弟の松平康元を関宿城主に据え、関宿藩が成立した。 以後、江戸幕府は関宿城に譜代大名を代々配置し、その重要性を示し続けた。
関宿がこれほどまでに重視された背景には、その地理的条件と江戸幕府の政策が深く関わっている。関宿は利根川と江戸川の分流点に位置し、利根川水運の要衝であったことが最も大きな理由である。
徳川家康は関東に入府後、江戸を水害から守り、物資を安定的に供給するため、大規模な河川改修事業である「利根川東遷事業」に着手した。これは、それまで江戸湾に注いでいた利根川本流を東へ付け替え、銚子沖に流すという壮大な計画であった。 この工事によって、利根川の分流として江戸川が開削され、関宿は利根川と江戸川の分岐点という、新たな水運の結節点となったのである。
この整備された水運網は、北関東や東北地方からの年貢米や物資を江戸へ運ぶ大動脈となり、関宿はその中継地として飛躍的に発展した。 関宿には「河岸(かし)」と呼ばれる船着場が複数形成され、積み荷を扱う商人や水運に携わる人々が集まり、大いに賑わったという。特に、江戸川流頭部に位置する内河岸、対岸の向河岸、そしてその南隣の向下河岸は「関宿三河岸」と総称され、藩の財政基盤の一翼を担った。 また、江戸川入口には下流の洪水を防ぐための「棒出し」と呼ばれる石堤が築かれ、埼玉県側には関宿藩が管理する関所が設けられた。 この関所では、旅人だけでなく船荷や乗客も改められ、周辺は検査を待つ船や水夫たちで活気に満ちていたとされる。
関宿藩主には松平康元以降、小笠原氏、牧野氏、板倉氏、そして久世氏など、幕府の要職を歴任する譜代大名が代々任命された。 特に久世氏は、若年寄や老中といった幕府中枢の要職に就き、幕政に深く関わった藩主も少なくなかった。 関宿城が「出世城」と俗称されたのも、こうした歴代藩主の経歴が背景にある。
関宿の歴史は、その地理的条件、特に河川との関係によって形作られてきた点で、他の地域の城下町や宿場町とは異なる性格を持つ。例えば、陸路の要衝として栄えた東海道の宿場町が、街道の整備と人馬の往来によって発展したのに対し、関宿は利根川と江戸川という二つの大河が交わる水運の結節点であることにその存在意義を見出した。これは、陸上交通が未発達だった時代において、大量の物資を効率的に輸送する手段として舟運が不可欠であったことの証左だろう。
しかし、川は恵みをもたらす一方で、常に水害という脅威をもたらした。江戸時代だけでも主な洪水が7回、明治以降も6回の大洪水に見舞われた記録がある。 関宿の住民は、母屋より高く土を盛った「水塚」を築き、軒下に小舟を吊るして洪水に備えるなど、自助の努力を重ねてきた。 これは、川の恩恵を享受しつつも、その過酷な側面と共存してきた地域の知恵とでも言うべきだろう。
また、関宿城が平城でありながら天然の堀として川を利用していた点も特徴的である。 これは、山城や丘城が防御力を高めるために地形を利用したのとは対照的に、広大な平野部において、流路が頻繁に変わる川をいかにして防衛線とするかという、この地ならではの課題への回答だった。利根川東遷事業に代表される大規模な治水工事は、江戸の防衛と経済を支えるために、自然の河川を人工的に制御しようとした試みであり、その最前線に関宿が位置していたことは、この地の戦略的重要性をより明確にしている。
明治維新後、明治4年(1871年)の廃藩置県により関宿藩は廃止され、関宿城も翌年には廃城が決定された。 数年のうちに城の建物は取り壊され、400年以上にわたる関宿城の歴史に終止符が打たれたのである。 かつての本丸や二の丸のほとんどは、その後の河川改修工事によって江戸川の流路となり、遺構も堤防や河川敷に埋没している。
現在、関宿城の往時の姿を偲ばせるのは、千葉県立関宿城博物館である。平成7年(1995年)に開館したこの博物館は、利根川と江戸川の分流点に位置するスーパー堤防の上に建てられており、建物のうち天守閣部分は、江戸城の富士見櫓を模したと伝えられるかつての御三階櫓を、古い記録に基づいて再現したものだ。 博物館内では、「河川とそれにかかわる産業」をテーマに、河川改修や舟運の歴史、流域の人々と川との関わりについての資料が展示されている。 4階の展望室からは、利根川と江戸川の雄大な流れを眼下に望むことができ、天気の良い日には富士山や筑波山まで遠望できるという。
城の遺構としては、本丸跡の一部やわずかな空堀跡が残るに過ぎないが、関宿城の城門と伝わる門が市内に、また本丸建物の一部が明治初期に移築され、現在は実相寺の客殿として現存している。 終戦時の内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎も関宿藩士の長男として縁があり、その功績を紹介する記念館が野田市に存在する。 しかし、近年は台風被害により休館している時期もあるという。
関宿の歴史をたどると、そこには常に「川」の存在があった。城が築かれたのも、藩が置かれたのも、そして産業が栄えたのも、すべては利根川と江戸川という二つの大河の恩恵と脅威の狭間で築き上げられてきたものだ。関東平野の中心という位置は、一見すると交通の便が良いように思えるが、むしろ複数の河川が複雑に絡み合う治水の難所であり、同時に水運という当時の最先端の物流を支える要衝でもあった。
関宿の歴史は、単なる城下町の興亡ではない。それは、自然の力を巧みに利用し、あるいはその猛威に抗しながら、人々が土地と向き合い、生活を営んできた記録である。河川改修によって地形が大きく変化し、かつての城の姿はほとんど失われたが、今も分流点に立つと、滔々と流れる利根川と江戸川の水音が、この地がたどってきた数世紀の物語を静かに語りかけてくるようである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。