2026/5/23
今治の多伎神社、古墳群に抱かれた水の信仰とは

今治の多伎神社について教えて欲しい。
キュリオす
今治市の山間にある多伎神社は、古代の磐座信仰を基盤とし、水源としての水の神、そして古墳群との関連から、地域社会と権力者の信仰を集めてきた歴史を持つ。その成り立ちと、他の水源信仰の神社との違いを探る。
今治市の山間、多伎川の清流が流れる場所に、多伎神社は鎮座している。車を降り、赤い大鳥居をくぐり、さらに古い石鳥居を抜けて境内へ足を踏み入れると、周囲を覆う照葉樹林の深さに気づく。その古びた佇まいと、陽光が届きにくい森閑とした空気は、この場所がただの神社ではないことを示唆している。なぜ、これほどまでに奥まった山中に、古くから隆盛を誇った神社が存在し、さらに周囲には数十基に及ぶ古墳群が点在しているのか。その問いは、今治という土地の歴史を紐解く鍵となるだろう。
多伎神社の創建は不詳とされるが、その起源は社殿のさらに奥、多伎川を遡った山頂近くにある「川上巌(かわかみのいわお)」と呼ばれる磐座信仰にあるという。これは、特定の社殿を持たず、自然の巨岩を神の宿る場所として崇める、より古い信仰形態を示している。社伝によれば、崇神天皇の御代、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)六代の孫である伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を奉り、初代の斎宮になったと伝えられている。その後、大宝2年(702年)に多伎神社と改称されたとされるが、これは文献上の初出ではない。
文献にその名が初めて登場するのは、『三代実録』貞観2年(860年)の記事で、「伊豫国従五位上瀧神に従四位下を授ける」とある。以後、多伎神社は急速に神階を昇進させ、貞観12年(870年)には正四位上に至る。これは伊予国において、大山祇神社や伊曽乃神社に次ぐ高い神階であり、当時の朝廷からの厚い崇敬を受けていたことを物語る。醍醐天皇の延喜年間(905年)には、「延喜式神名帳」において伊予国七座のうちの一つ、名神大社に列せられた。
中世に入ると、建長7年(1255年)の「伊予国神社仏閣等免田注記」には、多伎神社が広大な社領を有していたことが記されており、応永年間(1394年~1428年)には河野氏によって社殿が造営された。江戸時代には、今治藩の祈願所となり、特に雨乞い祈願においては藩主自らが参拝し、7日間にわたる祈願が本殿と奥の院の磐座で行われ、その霊験は必ずあったと伝えられる。
このように、多伎神社は古代の磐座信仰を基層としつつ、律令国家の神階制度に取り込まれ、中世の武家、近世の藩主といった権力者からの信仰を集めながら、その地位を確立していった歴史を持つ。その背後には、この地域が持つ水源としての重要性や、そこに暮らした人々の営みが深く関係している。
多伎神社がこの地に深く根差した背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、主要な祭神の一つである多伎都比売命(たきつひめのみこと)と多伎都比古命(たきつひこのみこと)の名が「瀧」を想起させるように、水の神としての性格が強い。多伎川の清流は、今治平野の農業を潤す水源であり、古くから水の恵みに対する信仰が篤かったことは想像に難くない。特に雨量の少ない伊予地方において、雨乞いの神としての多伎神社の役割は大きく、江戸時代に今治藩が雨乞い祈願を頻繁に行ったのも、その霊験あらたかさが認められていたためだろう。
さらに多伎神社の境内、特に社殿の裏手から右手に広がる広大な敷地には、約1300年前(6世紀から7世紀頃)に造られたとされる30数基、あるいは50基以上ともいわれる群集古墳が存在する。これらは「多伎宮古墳群」として愛媛県の史跡に指定されており、この地方を支配していた有力者一族の墓であると推定されている。
神社の由緒書では、弥生時代後期の集落跡や水田跡がこの地で発見されており、集落が存在した場所に神を祀る磐座信仰があり、その後、古墳時代に有力者がこの地を聖地として選んだと推測されている。つまり、多伎神社は単なる信仰の場というだけでなく、古代の豪族がこの地の水利や地理的条件を背景に、祭祀と埋葬の場として選定した複合的な聖域であった可能性が高い。
また、境内には「松茸石」と呼ばれる神秘的な石や、弥生時代から近現代まで続けられてきたとされる「杯状穴(性穴)遺構」の石など、古代からの信仰の痕跡が点在している。これらの石は、かつて今治藩主の命で江戸に運ばれたものの、石の願いにより元の多伎宮へ戻されたという伝説も残されており、土地に宿る「力」に対する人々の認識を伝えている。
全国各地には、水源や山岳信仰を起源とする神社が数多く存在する。例えば、九州の阿蘇神社は阿蘇山の噴火口を崇め、その湧水が農業に利用されてきたことで、水の神、農耕の神として信仰を集めてきた。また、京都の貴船神社は、鴨川の源流に位置し、古くから水の供給と雨乞いの神として朝廷からも崇敬されてきた歴史がある。これらの神社は、いずれも地域の生命線である「水」と結びつき、その霊力を祀ることで人々の暮らしを支えてきた点では共通している。
しかし、多伎神社の場合、その特徴は単なる水源信仰に留まらない。境内に広がる群集古墳の存在が、他の多くの水源信仰の神社とは異なる様相を見せている。阿蘇神社や貴船神社が、自然の力そのものを神として祀る色彩が強いのに対し、多伎神社は、古代の有力者が自らの権威と祭祀をこの地に重ね合わせた痕跡が明確に残されているのだ。古墳群は、この地を治めた豪族たちが、水の恵みと磐座信仰が根付く聖域を自らの永眠の地として選んだことを示唆している。つまり、多伎神社は、自然崇拝と、それを支配する人間の権威が早い段階で融合した場所と言える。
さらに、多伎神社が「延喜式神名帳」において名神大社に列せられ、大山祇神社や伊曽乃神社と並び称される高い神階を得たことも注目に値する。これは、単なる地域信仰を超え、国家的な祭祀体系の中に組み込まれるだけの、政治的・経済的な重要性をこの地が持っていたことを意味する。國學院大學の調査報告では、伊予国府が頓田川流域にあった可能性を指摘しており、多伎神社が水源の神として国司の崇敬を受けたのではないかと推測している。この点も、純粋な自然信仰とは一線を画す、国家権力との結びつきを示す要素と言えるだろう。
現代の多伎神社は、鬱蒼とした杜に囲まれ、古代の面影を色濃く残している。境内を流れる多伎川の水は、今も霊水とされ、病を癒す力があると信じられている。 本殿の背後には、愛媛県指定史跡である多伎宮古墳群が広がり、訪れる者は、手つかずの自然の中に点在する墳墓の入口を間近に見ることができる。盗掘されたものがほとんどではあるが、その存在は、かつてこの地を治めた人々の息吹を今に伝えている。
毎年5月5日には、多伎神社の春祭りが執り行われる。この祭りでは、今治地方独特の「継ぎ獅子」が奉納される。古谷多伎獅子保存会によって受け継がれるこの獅子舞は、愛媛県の無形民俗文化財にも指定されており、地域の人々にとって重要な伝統行事となっている。 また、藩政時代中期に牛馬の疫病が流行した際、その封じ込めを願って始まったとされる「笠鉾祭り」も、5月1日に開催されている。これらの祭りは、古代からの信仰が形を変えながら、現代の地域社会に息づいている証拠である。
参道脇には、杯状穴と呼ばれる石や、藩主の逸話が残る松茸石など、伝説を伝える石が点在し、それらを巡ることで、この地の歴史と信仰の深さに触れることができる。 神社周辺は、近年「多伎宮古道」として散策路が整備され、多伎川のせせらぎを聞きながら古墳群を巡ることも可能となっている。 古代から続く聖域は、今も地域の人々の暮らしと結びつき、静かにその歴史を語り続けている。
今治の多伎神社を巡ると、単に古い社殿を訪れる以上の体験がある。それは、神社の創建以前から、この地に流れる多伎川の水が、人々の生活と信仰の基盤であったという事実だ。そして、その水源のそばに、古代の有力者たちが自らの権威を示すかのように古墳を築き、祭祀を執り行っていた。
多くの場合、神社の歴史は社殿や文献から語られがちだが、多伎神社の場合、その本質は「水」と「土」にこそ深く刻まれている。奥の院の磐座から湧き出る水、そして社殿を取り囲むように広がる古墳群は、数千年にわたるこの地の記憶を、文字ではなく大地そのものに留めている。信仰の対象が、特定の神格よりも、むしろ自然の恵みと、それに寄り添い生きた人々の営みそのものにあったことを、多伎神社は静かに示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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