漢の武帝の鬼から修験者まで、秋田のなまはげの起源はどのように考えられてきたのか?

男鹿の門前で石段を仰ぐ
男鹿半島の南西端、赤神神社五社堂へと続く険しい石段の前に立つと、誰もがその不規則な石の重なりに目を奪われる。鬼が一晩で積み上げたという伝説が残る999段の石段である。毎年大晦日の夜、男鹿の集落には異形の面をかぶり、藁の衣装をまとった男たちが現れる。大きな出刃包丁をかざし、「泣く子はいねが」「怠け者いねが」と叫びながら家々に踏み込んでいく姿は、全国的にも広く知られている。
一見すると、暴れる鬼が子供を脅かしているだけのように見える。しかし、家人は彼らを追い払うどころか、正装して出迎え、膳と酒を用意して丁重にもてなす。暴れていた異形のものたちは、主人が今年一年の家族の行いを説明し、酒を振る舞うと、新年の祝福の言葉を残して去っていく。
恐ろしい荒神なのか、それとも幸福をもたらす訪れ神なのか。荒々しい暴力性と丁重なもてなしが同居するこの行事は、いつ、どのような背景から生まれたのだろうか。単なる民間伝承の昔話として片付けるには、あまりにも細かな作法と強い生活感がそこに息づいている。
菅江真澄が描いたナモミハギ
なまはげに関する最も古い明確な記録は、江戸時代後期の旅日記に見ることができる。文政5年(1822年)に秋田藩の藩校明徳館へ献納された『菅江真澄遊覧記』の一巻、「牡鹿乃寒かぜ」である。三河国出身の旅行家・菅江真澄は、文化8年(1811年)1月15日、男鹿の宮沢集落で目撃した行事の様子を、文章だけでなく素朴なスケッチとともに描き残した。
そこに描かれているのは、赤い面に髪を振り乱し、藁で編んだ肩蓑(ケラ)を身につけ、手には小さな刀を持った人物の姿である。菅江真澄はこれを「生身剥(ナモミハギ)」と記している。
「なまはげ」という固有の名称は、この「ナモミハギ」が訛ったものとされる。北国の厳しい冬、仕事もせずに囲炉裏にあたり続けていると、手足に低温火傷による赤い斑点ができる。この火斑を方言で「ナモミ」や「アマ」と呼ぶ。怠けて囲炉裏から離れない者の証である「ナモミ」を刃物で剥ぎ取り、怠惰を戒める行為こそが「ナモミ剥ぎ」であった。
注目すべきは、当時の行事が行われていた日付である。現在は大晦日の夜に行われるのが一般的だが、菅江真澄の時代には小正月、すなわち旧暦の1月15日に行われていた。
日本において小正月は、満月を迎える節目の日であり、その年の豊作を祈る予祝の儀礼や、年神を迎える大切な日とされてきた。明治時代の改暦によって新暦の1月15日へと変わっていき、さらに第二次世界大戦後、人々が集まりやすい大晦日(12月31日)へと開催時期が前倒しされていった経緯がある。
行事の日付は時代とともに変遷したが、集落の未婚の青年たちが若者組を作り、異装して各家を巡るという基本的な構造は変わっていない。集落の内部にある規律と、年に一度の特別な日という時間が交差する場所に、この行事は成り立っていた。
四つの説と「まれびと」の枠組み
では、この異形のものたちは一体どこから来たと考えられてきたのだろうか。男鹿の地には、大きく分けて四つの起源説が語り継がれてきた。
一つ目は「漢の武帝説」である。中国の漢の時代、武帝が5匹のコウモリを連れて男鹿へ渡来し、それらが鬼に変身して働いたとされる。正月15日に自由を得た鬼たちが里で乱暴をはたらいたため、困った村人は「一晩で海辺から赤神神社五社堂まで千段の石段を積み上げたら娘を差し出す。できなければ去れ」と賭けを持ちかけた。鬼が999段まで積み上げたところで村人が鶏の鳴き真似をして騙し、悔しがった鬼は杉の木を逆さまに突き刺して走り去ったという。村人は騙した鬼の祟りを恐れ、年に一度、鬼の姿に扮して饗応するようになったとする伝説である。
二つ目は「修験者説」である。男鹿半島の真山や本山は古くから山岳信仰の修験場であった。山で荒行を積んだ修験者(山伏)が時折里へ下りてきて加持祈祷を行ったが、そのすさまじい風貌や威圧感がなまはげの原形になったとする見方である。
三つ目は「漂流異邦人説」である。異国の船が男鹿の海岸に漂着し、海岸や山奥に住み着いた漂流民が、食料を求めて人里へ下りてきたという考え方だ。異風な容貌や理解できない言葉を話す姿が、村人にとって「鬼」のように見えたという解釈に基づく。
四つ目は「山の神説」である。男鹿半島は海上から見ると日本海に浮かぶ山のように聳え立っている。古くから山そのものが信仰の対象であり、そこに鎮座する神の使者が年に一度里へ下りてくるという神学的な解釈である。
これらの諸説は一見するとバラバラな由来に見える。しかし昭和の民俗学者たちは、これらを単なる迷信として切り捨てるのではなく、日本人の信仰構造の中で捉え直した。
民俗学者の柳田国男は『小正月の訪問者』などで、年の折り目に異界から訪れ、人々に祝福や戒めを与える「来訪神」の概念を整理した。また折口信夫はこれを「まれびと(客人)」と呼び、常世の国などの異界から定期的に訪れて人々に生命力や祝福を更新する神の存在を唱えた。
さらに、地元の民俗研究家である吉田三郎は、昭和10年(1935年)に著した『男鹿寒風山麓農民手記』などで自らの足で南秋田郡全体の詳細な実態調査を行い、集落ごとの作法の違いや民俗的価値を明らかにした。
武帝の鬼であれ、修験者であれ、漂流民であれ、それらはすべて「集落の外側(異界)からやってくる境界の存在」という共通項をもっている。内側の日常空間に、外側の強大な力を持つ存在を一時的に呼び込み、怠惰を諌めさせ、新年の予祝(祝福)を受ける。異形に対する畏怖を「神の訪問」という社会的な仕組みに昇華させたのが、なまはげの本質であった。
日本列島を縦断する包丁と藁
なまはげのような仮面・仮装の来訪神行事は、男鹿半島だけに限られた珍しい現象ではない。目を日本全国に向け直すと、似た構造を持つ行事が海岸線や山間部に点在していることに気づく。
青森県西津軽の「ナゴメタクレ」や秋田県能代市の「ナゴメハギ」、山形県遊佐町の「アマハゲ」、石川県能登地方や新潟県に伝わる「あまめはぎ」など、本州の日本海沿岸には「火斑を剥ぎ取る」という語源や目的を同じくする行事が幅広く分布している。
また、岩手県三陸海岸の「スネカ(吉浜)」や「ナモミ(久慈・野田)」のように、太平洋側の沿岸部にも同様の習俗が存在する。さらには鹿児島県薩摩川内市の「トシドン」や沖縄県宮古島の「パーントゥ」に至るまで、姿形は違えど、新年の節目や特定の時期に異形の神が訪れて人々を戒め、福をもたらす構造は共通している。
こうした比較から見えてくるのは、日本列島の各地で「年の節目に境界の外から神を迎える」という非常に古い層の民間信仰が共有されていた事実である。
その中で、なぜ男鹿のなまはげだけが際立った存在感を持つようになったのだろうか。決定的な違いは、男鹿半島という閉じられた地形の中で、集落ごとの独立性がきわめて高く維持されてきたことにある。
男鹿市内にはかつて100を超える集落が存在し、そのほぼすべてで独自のお面や衣装が作られていた。面の材料も木彫りのみならず、木の皮、竹ザル、ボール紙など身近な素材が使われ、顔つきのルールも定められていなかった。その結果、集落の数だけ表情の異なる面が生み出された。
昭和32年(1957年)に男鹿を訪れた芸術家の岡本太郎は、なまはげの面について「底ぬけ、ベラボーな魅力」と評した。中央から統一された「鬼」の規格に押し込められていない、生々しい民衆の造形力が高く評価されたのである。多様性を保ったまま高密度で残存したことこそが、男鹿の決定的な特徴であった。
148の集落が直面する静けさ
集落の多様性に支えられてきた男鹿の行事も、現代においては大きな転換期を迎えている。最大の要因は、過疎化と少子高齢化の急激な進行である。
男鹿市内の全148集落(町内会)を対象に行われた調査によると、かつてはほぼ全域で行われていた行事が、2015年の時点では約80集落にまで減少した。25年間の間に約35の集落で行事が途絶え、実施している集落は全体の半数近くにまで落ち込んでいる。
本来、行事を担うのは地元集落の未婚男性とされてきた。しかし若者の減少に伴い、既婚男性や地区外出身者の参加、さらには大学の留学生を担い手として受容する集落も現れるようになった。訪問先の家々に子供が少なくなり、行事を行う動機そのものが薄れている側面も否定できない。
一方で、保存と活用のための新しい模索も続けられてきた。昭和39年(1964年)には、観光イベントとしての「なまはげ柴灯(せど)まつり」が始まり、真山神社を会場に多くの観光客を集めている。昭和の終わりには「なまはげ太鼓」が誕生し、伝統的な面と和太鼓の演奏を組み合わせた新たな郷土芸能として定着した。
平成11年(1999年)に作られた「なまはげ館」や、隣接する「男鹿真山伝承館」では、100体以上の面が一堂に展示され、大晦日の問答の様子を年間通して体験できる。
昭和53年(1978年)の国指定重要無形民俗文化財指定に続き、平成30年(2018年)には全国の他の来訪神行事とともにユネスコ無形文化遺産に登録された。文化的な価値が世界的に認められる一方で、現地の大晦日の夜に包丁の音が響く家々は、確実に少なくなりつつある。
畏れを客として招くという知恵
なまはげの起源をめぐっては、漢の武帝の鬼説、山伏の修験者説、異国からの漂流民説、山の神の使者説など、今もさまざまな語りが重なり合っている。どれか一つだけが正しい歴史的真実というわけではない。
重要なのは、人々が外からやってくる未知のもの、畏ろしいものを排除するのではなく、「客人(まれびと)」としてもてなし、自らの生活の秩序を整える糧へと転換してきた知恵そのものにある。
囲炉裏にあたってできた火斑(ナモミ)を剥ぎ取るという暴力的な動作は、厳しい冬の底で怠惰に流されそうになる人間の精神を、強制的に新年の緊張感へと引き戻す装置でもあった。恐ろしい面の裏側には、共同体の全員が無事に厳しい冬を越し、新しい春を迎えるための切実な祈りが込められている。
男鹿真山伝承館のかやぶき屋根の下では、今も主人が角樽を前に正装し、荒ぶる来訪者に対して丁寧な問答を繰り返す光景が再現されている。足元で踏みしめられる藁のケデから落ちた一本の藁が、静かに囲炉裏の傍らに落ちている。それは神の落とし物として、今も人々に拾い上げられている。
旅と食が好き。どこにでもいます。