佐竹氏が久保田城の石垣や天守をあえて築かず、土塁の城を選んだ生き残り戦略とは?

牙を抜いた城の広がる土塁
久保田城の跡地である千秋公園に立つと、どこか肩透かしを食らったような奇妙な感覚にとらわれる。ここはかつて、東北屈指の外様大藩であった佐竹氏の居城だ。しかし、周囲を見渡しても、近世城郭の象徴であるはずの壮麗な石垣も、天守閣の姿もない。あるのは、草に覆われたなだらかな土塁と、水が淀む堀だけである。関ヶ原の戦いを経て、天下の覇権が徳川に移った「慶長の築城ラッシュ」の時代に築かれた城でありながら、なぜこれほどまでに無骨で、防備を削ぎ落としたような姿をしているのだろうか。単に国替えによる財政難や、石垣を築く技術の不在という一言だけで片付けるには、常陸国五十四万石を誇った名門の歴史があまりに重い。
常陸以来の太刀「福岡一文字」を秘蔵し、戦国期には石田三成から贈られた「丹波守吉道」の薙刀を誇った佐竹氏である。それほどの実力と格式を持つ大名が、なぜ自らの本拠を丸裸に近い状態で放置したのか。単に財政難だったからという説明は、常陸五十四万石を誇った名門の意地からすれば、どこか腑に落ちない。だとすれば、この削ぎ落とされた城の姿は、何を意味しているのだろうか。
常陸の風を捨てて北へ
慶長7年(1602年)5月8日、常陸国水戸を治めていた佐竹義宣は、徳川家康から突然の国替命令を受ける。その内容は「義宣は羽州に於て替地を賜へし」という極めて曖昧なものであった。具体的な転封先も、そこで得られる石高も一切明示されていなかった。義宣は家老の和田昭為に対し、俸禄の削減と小禄家臣の召し放ちを予告する書状を送っている。この時点で義宣は、自らの転封先を「最上」ではないかと推測していた。
同年7月27日、改めて下された判物によって、転封先はようやく明らかになる。そこには「出羽国之内秋田・仙北両所進め置き候、すべて御知行あるべく候也」とだけ記されていた。この「秋田・仙北」とは、秋田、檜山、豊島、山本、平鹿、雄勝のいわゆる秋田六郡を指す。しかし、ここでも具体的な石高は示されなかった。久保田藩の表高が20万5,800石と正式に決定するのは、それから実に60年以上が経過した寛文4年(1664年)、2代藩主佐竹義隆の時代になってからのことである。
この「石高不明」のままの国替えは、佐竹氏にとって致命的な財政負担を強いることになった。常陸時代の佐竹氏は54万石の大身大名であり、膨大な数の家臣団を抱えていた。義宣は彼らをほとんど解雇せず、そのまま秋田へと引き連れていった。転封先の実質的な生産力がわからないまま、かつての規模の家臣団を維持しようとしたのである。これが、久保田藩を江戸時代を通じて苦しめ続ける、慢性的な財政難の引き金となった。
秋田に入封した当初、義宣はかつての領主である秋田氏の居城であった湊城に入った。しかし、周囲は反佐竹の一揆が勃発するなど極めて不安定な情勢であった。義宣は領内を安定させるため、湊城の南東にある神明山に新城を築くことを決断する。これが慶長9年(1604年)に完成した久保田城である。義宣は父の義重を六郷城に配し、横手や大館などの要所にも一族や有力家臣を配置して、領内全体の掌握を急いだ。常陸の豊かな平野を離れ、北国の厳しい風土の中で、佐竹氏の新たな国づくりが始まった。
当時の秋田・仙北地方は、戦国期には秋田氏や戸沢氏、小野寺氏などが割拠していた土地であった。関ヶ原の戦いののち、小野寺氏は改易され、秋田氏らは常陸国へと転封になっていた。つまり、佐竹氏と秋田氏は、領地をそっくり入れ替える形で国替えをさせられたのである。この強引な国替は、徳川家康による外様大名の弱体化政策の一環であった。
常陸から秋田への移動は、家臣団だけでなくその家族や職人、寺社にいたるまで、数万人に及ぶ大移動であった。この移動の様子は、のちに藩の公式記録や家臣の日記に克明に残されている。義宣の右腕として活躍した梅津政景の日記には、慣れない土地での役所の立ち上げや、飢饉への対応、鉱山開発の苦闘が克明に綴られている。
義宣が築いた久保田城は、北東と東を山で遮り、西側には旭川を掘り換えて外堀とするなど、地形を巧みに利用した構造になっていた。しかし、その縄張りは極めて実戦的でありながら、やはり石垣や天守といった「見せるための権威」は徹底的に排除されていた。新天地での過酷な出発は、佐竹氏に「華美を捨て、実質を取る」という生き残り戦略を強いることになった。
石垣なき城を支えた分散の網
久保田城が石垣や天守を持たなかった理由として、江戸幕府に対する「恭順の意志」の表明があったとされる。関ヶ原の戦いにおいて、佐竹義宣は中立を貫いた。これは、かつて豊臣政権下で石田三成から受けた恩義を忘れず、西軍の不利になる行動を避けるための決断であった。家康から「誠の律儀人」と評されながらも、結果として大幅な減封と国替えを命じられた義宣にとって、新城に壮麗な天守や石垣を築くことは、幕府に対して余計な警戒心を抱かせるリスクでしかなかった。あえて牙を抜いたかのような「土の城」を築くことで、佐竹氏は徳川体制への完全な従属を視覚的にアピールした。
しかし、これは軍事的な防衛を放棄したことを意味しない。久保田城は、城そのものの堅牢さに頼るのではなく、城下町の町割と領内全体の防衛ネットワークによって、極めて強固な守りを固めていた。城下町は、外町と呼ばれる町人町を大町や旭北、旭南の地域に配置し、その周囲を中通、南通、楢山、保戸野、手形、川口といった広大な侍町や足軽町で取り囲む構造になっていた。明治18年の人口調査においても、秋田町の総人口約3万人のうち、士族が44.4%を占めていたというデータが残されている。これは廃藩置県時点ではさらに高かったと推測され、久保田が「侍の町」であったことを示している。
さらに特徴的なのは、領内各地に配された「所預(ところあずかり)」と呼ばれる地方統制の仕組みである。一国一城令によって多くの城が取り潰される中、久保田藩は例外的に横手城と大館城の存続を許された。これらに加え、角館、湯沢、檜山、十二所、院内などの要所には、佐竹一門の四家(東家、西家、南家、北家)や有力家臣が配された。西家は大館、南家は湯沢、北家は角館を治め、彼らはそれぞれ独自の家臣団を率いて小さな城下町を形成した。
この「所預」のシステムは、一箇所に軍事力を集中させるのではなく、領内全体に防衛の網を張り腕を広げる分散型の防衛策であった。同時に、久保田藩では「地方知行制」が幕末まで強く残されていた。藩の土地の約7割が家臣団の知行地(給分)であり、藩主の直轄地(蔵分)は3割に過ぎなかった。この構造は、本藩の財政を慢性的に圧迫し、知行借上げなどの非常手段を繰り返す原因となったが、同時に各地の家臣団が自立的に領地を防衛し、統治する強固な結束力を生み出すことにも繋がっていた。
この地方知行制の強さは、藩政中期以降、藩主の権限強化をめざす動きと衝突し、度々内紛の火種となった。宝暦年間(1750年代)に起きた「佐竹騒動(秋田騒動)」は、その典型的な例である。5代藩主佐竹義峯の時代に、財政再建を狙って発行された「銀札(藩札)」の大暴落と、それに伴う物価高騰、そして後継者問題を巡って、推進派の式部少輔家派と、反対派の壱岐守家派が激しく対立した。この騒動はのちに『秋田杉直物語』などの読本として脚色され、後世に語り継がれることになる。
また、地方知行制のもとで、各地の所預は独自の産業や文化を育成した。角館を治めた佐竹北家や、大館を治めた西家は、本藩の財政難とは一線を画した独自のコミュニティを維持し、これが現代に続く秋田の多様な地域文化の基盤となった。久保田城という「中心」の脆弱さは、領内全体に張り巡らされた「分散の網」によって、見事に補完されていたのである。
減封の地で牙を研ぐ者、牙を隠す者
関ヶ原の戦いののち、大幅な減封を伴う国替えを命じられた大名は佐竹氏だけではない。最も有名な例は、会津120万石から米沢30万石(のちに15万石)へと減封された上杉氏、そして112万石から防長二国36万石へと押し込められた毛利氏であろう。これらの藩の選択と比較することで、久保田藩の「石垣なき城」という思想の輪郭がより鮮明に浮かび上がる。
毛利氏は、新たな居城として萩城を築く際、三方を海と山に囲まれた指月山の麓を選んだ。そこには、規模こそ小さめながらも、強固な石垣と5重の天守がそびえ立っていた。これは、いつか幕府を覆すという潜在的な対抗心を、物理的な形として残したものである。毛利氏にとって、城は依然として「軍事的な牙」であり、権威の象徴であった。
一方、上杉氏は米沢城を築くにあたり、戦国期からの実戦的な平城の構造を踏襲し、天守は築かず、本丸の四隅に櫓を配するにとどめた。上杉氏もまた、膨大な家臣団を召し放たずに連れて行ったため、極端な困窮に陥った。しかし、彼らは武士自らが土を耕す「原方武士」という独自の階層を生み出し、新田開発や養蚕などの内政に特化することで、生き残りを図った。上杉にとっての城は、防衛の拠点であると同時に、集団的なサバイバルのための共同体の中心であった。
これらに対し、佐竹氏の久保田城は「石垣も天守も築かない」という、毛利氏とは真逆の、そして上杉氏よりもさらに極端な「視覚的な恭順」を選択した。しかし、その裏では「所預」のネットワークを領内に張り巡らせ、中世的な地方知行制を維持し続けた。つまり、表面上は完全に牙を抜いたように見せかけながら、内実としては最も頑固に「戦国大名的な家臣団の自立性」を温存していたのである。
また、技術的な背景も見逃せない。佐竹氏の旧領である水戸に入った徳川頼房の水戸城もまた、石垣を持たない土塁主体の城であった。これは関東地方の「土の城」の技術的系譜に連なるものである。佐竹氏はもともと常陸の国人から発展した大名であり、石垣の技術よりも、関東の広大な土塁普請の技術に長けていた。したがって、久保田城が土塁造りなのは、単なる恭順のポーズだけでなく、自らの得意とする防衛技術への回帰でもあったと言える。城の「形」は、単なる軍事力や財政の反映ではなく、徳川体制における自らの「立ち位置」を表明する高度なメディアであった。
さらに、久保田藩の経済的な特徴として、領内に院内銀山や阿仁銅山といった国内屈指の鉱山を抱えていたことが挙げられる。藩政初期、家老の渋江内膳が「国の宝は山なり」と述べたように、これらの鉱山から産出される銀や銅は、藩財政を一時的に大きく潤した。しかし、17世紀後半には産出量が激減し、藩は米と木材に依存する後進的な農業藩へと逆戻りしていった。この「資源のブームと崩壊」のサイクルもまた、城の改修や石垣の追加普請を行う余裕を、物理的に奪う結果となった。一時的な富に甘んじることなく、持続的な防衛システムを「土」と「分散」によって築いた義宣の先見性が、ここでも際立つ。
漆黒の山々と豪農の梁
かつて佐竹氏が築いた防衛と統治のネットワークは、現代の秋田の風景の中に今も静かに息づいている。久保田城の跡地である千秋公園を歩けば、石垣の代わりにそびえる巨大な土塁の威容に圧倒される。なだらかな土の斜面が、かつての「恭順の思想」を今に伝えている。
また、所預の地であった角館には、佐竹北家が治めた武家屋敷通りがほぼそのままの姿で残されている。黒塗りの板塀と、そこに覆いかぶさるような立派な枝垂れ桜は、本藩の支配から一線を画した独自の格式と自立性を持っていた証拠である。城はなくても、町割そのものが一つの要塞として機能していたことが、角館の深い通りを歩くことで実感できる。
さらに、秋田の豊かな大地と、それを支えた豪農の歴史を伝える建築として、秋田市金足にある「旧奈良家住宅」が挙げられる。宝暦年間に建てられたこの住宅は、奈良家が3年の歳月と銀70貫を費有して築いた、県内屈指の豪農の館である。建物の両端が前面に突き出す「両中門造り」と呼ばれる建築様式は、秋田県中央海岸部の農家に特徴的なものであり、国の重要文化財に指定されている。
この旧奈良家住宅の土間に入ると、まずその巨大な梁と、中央にある大きな囲炉裏「ニワイロリ」に目を奪われる。土間の入口近くには、かつて重要な労働力であり、家族同様に大切にされていた馬を飼うための厩(マヤ)が設けられていた。厳しい寒さから馬を守るため、家の中で共に暮らすという、北国ならではの生活の知恵がここにある。この豪農たちの存在こそが、慢性的な財政難に喘ぐ久保田藩の足元を支え、新田開発を推し進める原動力となっていた。
かつて「国の宝は山なり」と称された秋田の山々も、その歴史の痕跡を留めている。阿仁銅山や院内銀山の跡地には、かつて日本の近代化を支えた技術の遺構が点在している。乱伐によって一時衰退した秋田杉の林も、藩主導の林政改革によって守られ、今も美しい美林として残されている。能代の春慶塗や川連漆器といった伝統工芸も、藩が殖産興業として奨励した特産品開発の名残である。旅行者が目にする秋田の風景や工芸品は、すべてあの過酷な国替えから始まった、佐竹氏と領民による生き残りのための営みの集積なのだ。
恭順という名の強固な盾
久保田城が石垣も天守も持たなかったという事実は、一見すると戦国名門の「敗北」や「妥協」のように思える。しかし、その歴史の構造を紐解いていくと、それはむしろ、徳川体制という巨大な圧力の中で生き残るための「高度な政治的意匠」であったことが理解できる。
牙を抜いたように見せかけながら、裏では「所預」のネットワークを領内に張り巡らせ、地方知行という中世的な自立性を維持し続けた。この二重構造こそが、江戸時代を通じて佐竹氏の統治を安定させた。もし久保田城が強固な石垣と天守を持つ城であったなら、幕府からの不必要な警戒を招き、より早い段階で改易や再転封の憂き目に遭っていたかもしれない。
この「表面的な恭順と、内面的な強固な結束」という特質は、幕末の動乱期において決定的な役割を果たすことになる。12代藩主佐竹義堯の時代、久保田藩は周囲の東北諸藩が奥羽越列藩同盟に加わる中、一転して新政府軍への参加を表明した。平田篤胤の国学思想が藩内に浸透していたことも影響しているが、この決断により、秋田は一時的に四面楚歌の状況に陥り、領地の3分の2が戦火に包まれる過酷な戦い(秋田戦争)を強いられた。しかし、各地の所預を中心に築かれた防衛ネットワークと家臣団の結束は、この未曾有の危機を辛うじて持ちこたえさせる底力となった。
久保田城のなだらかな土塁は、弱さの象徴ではなく、過酷な時代を生き抜くために選ばれた「しなやかな盾」であった。華美な石垣や天守という権威を捨て、実質的な防衛と領民の暮らしに根ざした統治の網を広げたこと。その思想の痕跡は、今も秋田の土と、そこに暮らす人々の文化の中に、静かに、しかし確かに残り続けている。
旅と食が好き。どこにでもいます。