津軽を追われた海の武士団は、どのようにして秋田の戦国大名へと脱皮したのか?

土崎の風と、二つの「安東」
秋田港の突堤に立つと、日本海から打ち寄せる波の音とともに、どこか乾いた風が吹き抜けていく。雄物川が日本海へと注ぎ込むこの河口一帯は、かつて「秋田湊」と呼ばれ、北東北の物資が交錯する最大の港湾都市だった。戦国時代の秋田と聞けば、織田氏や武田氏のように、猛将たちが陸の領土を武力で奪い合った殺伐とした戦場を思い浮かべる人が多いかもしれない。だが、この土地の歴史を紐解くと、まったく異なる風景が浮かび上がってくる。
ここを収めていた領主・安東氏(安藤氏)は、もともと秋田の生え抜きではない。彼らは鎌倉時代、青森県の津軽十三湊を拠点に北方貿易を牛耳っていた「海の領主」であった。それが室町時代に南部氏の侵攻を受けて津軽を追われ、北海道を経由して出羽国、すなわち現在の秋田県域へと流れ込んできたのだ。しかも出羽に入った安東氏は一つではなかった。能代の山間に拠る「檜山安東氏」と、雄物川河口を抑える「湊安東氏」という、二つの系統に分かれて割拠していたのである。
津軽を奪われた海の武士団が、なぜ出羽北部の入り組んだ河川と山々に囲まれた土地で、戦国大名へと脱皮できたのだろうか。単なる地方豪族の泥臭い生き残り策として見ると、彼らの動向を見誤る。戦国時代の秋田史とは、日本海の水運ネットワークと北方貿易の利権をめぐり、分割された二つの「安東」が再びひとつへと編み合わされていく、巨大な再編のドラマではなかったか。
十三湊の陥落から道南、そして米代川流域へ
安東氏の源流を遡ると、鎌倉時代の北条氏得宗家にたどり着く。彼らは得宗家の被官(御内人)として「蝦夷沙汰代官職」を任され、陸奥国十三湊を拠点に東北北端から蝦夷島(北海道)にいたる北方世界の統轄にあたっていた。『保暦間記』や『諏方大明神画詞』などの記述によれば、彼らは「日の本将軍」とも称され、アイヌの人々との交易や日本海海運の利権を独占して巨万の富を築いたとされる。十三湊は当時の日本有数の国際港湾都市であり、中国の陶磁器や北方の毛皮、昆布が往来していた。
しかし、その栄華は室町時代半ばに突如として瓦解する。東の八戸方面から台頭してきた三戸南部氏が、津軽地方へ本格的な侵攻を開始したためだ。嘉吉から享徳年間(1440年代〜1450年代)にかけて、安東氏惣領家であった下国家(しもくにけ)の安東盛季・康季・政季らは、南部義政らの猛攻に耐えかね、本拠地であった十三湊を捨てて蝦夷島へと逃れざるを得なくなった。
蝦夷島へ渡った安東政季らは、道南各地に「道南十二館」と呼ばれる拠点を構築し、一族や被官を配置して和人社会の再編を図った。だが、現地でのアイヌとの摩擦や激化する戦乱(コシャマインの戦いなど)により、北海道も安住の地とはならなかった。そこで政季らが再起の場として目をつけたのが、南の出羽国北部であった。
康正2年(1456年)、政季は小鹿島(現在の秋田県男鹿市周辺)に渡り、明応4年(1495年)にはその子の安東忠季が、米代川下流の「河北千町」を制圧して檜山城(能代市)を改築・完成させた。これが、後に戦国大名へと発展する檜山安東氏(檜山下国家)の成立である。
だが、話はそう単純ではない。安東一族が秋田に入ってきたのは、この檜山家が最初ではなかったからだ。
すでに14世紀末の南北朝から室町初期にかけて、安東氏の別系統が秋田郡の秋田湊(現在の秋田市土崎港)に定着していた。これが湊安東氏(上国家)である。湊家は室町幕府の「京都御扶持衆」に組み込まれ、代々「左衛門佐」を名乗って足利将軍家や本願寺、中央の有力管領家と直接連絡を取り合っていた。彼らは秋田湊の港湾管理権と日本海海運の関銭徴収権を握り、極めて高い家格を誇っていたのだ。
こうして15世紀末の出羽北部には、米代川流域の森林資源と山間ルートを抑える能代の「檜山安東氏」と、雄物川河口の巨大港湾を抑える土崎の「湊安東氏」という、二つの安東家が並立するいびつな二重構造が生まれ上がった。
檜山と湊の再編、安東愛季が描いた水運の地図
二つに分かれていた安東氏の歴史が激しく動き出すのは、16世紀後半、戦国時代の過熱とともにやってきた。この分裂状態に終止符を打ち、安東氏を奥羽北部の強大な戦国大名へと押し上げた人物こそが、安東愛季(ちかすえ)である。
愛季は天文8年(1539年)、檜山安東氏の舜季の長男として生まれた。母は湊安東氏の出身であり、彼は生まれながらにして両家の血を引く存在だった。元亀元年(1570年)、湊安東氏の当主・茂季が急死し後嗣問題が浮上すると、愛季はすかさず介入し、実質的に湊家を吸収・統合することに成功する。
愛季の政治的・軍事的才覚は、単なる領域の力任せな切り取りにはなかった。彼の本質は、日本海海運と内陸の河川水運を連結させ、巨大な物流支配領域を構築した点にある。
当時、秋田県域の内部は群雄が割拠するモザイク模様を呈していた。米代川中流の比内地方には浅利氏(浅利勝頼ら)、横手盆地を中心とする仙北地方には小野寺氏(小野寺輝道・義道)、角館には戸沢氏(戸沢盛安)、そして由利郡には「由利十二頭」と呼ばれる仁賀保氏や矢島氏(大井氏)などの国人領主群がひしめいていた。さらに陸奥国からは三戸南部氏が鹿角郡の鉱山や領地を狙って絶えず侵攻を繰り返していた。
これらの敵対勢力に対し、愛季は自ら居城を俊敏に移していく。当初の本拠であった能代の檜山城から、男鹿半島の根元に位置する要衝・脇本城へ移り、さらには天正17年(1589年)頃には雄物川河口の湊城へと中枢を移した。陸の山城から、海上交通と河川舟運が直結する港湾要塞へ。これは権力の基盤を「農地の年貢」から「物流と港湾の制圧」へと明確にシフトさせる動きであった。
愛季は武力行使にとどまらず、謀略と外交を巧みに織り交ぜた。北海道の元被官であった渡党の蠣崎慶広(後の松前藩祖)を動かして比内の浅利勝頼を騙し討ちで暗殺させ、比内地方を安東領に組み入れた。中央政権に対しては、遠く織田信長に鷹や名馬を贈ってよしみを通じ、天正5年(1577年)に従五位下、天正8年(1580年)には東北の武将としては異例の従五位上侍従の官位を獲得した。
しかし天正15年(1587年)、愛季は角館の戸沢盛安と戦った仙北合戦のさなか、野営の陣中で急死してしまう。
跡を継いだ息子の安東実季(さねすえ)は、当時まだ若年であった。この隙を突いて起きたのが、安東家最大の危機となった「湊合戦」である。旧湊家の血を引く安東通季が、愛季による強引な統合に不満を抱く旧湊家家臣団を率い、さらに隣国の戸沢氏、小野寺氏、南部氏らの支援を受けて大規模な反乱を起こしたのだ。
天正17年(1589年)、実季は湊城に籠城し、由利十二頭らの協力を得て激しい攻防戦を展開した。猛攻を凌ぎ切った実季は反乱軍を打ち破り、通季らを追放。これにより、檜山と湊の二つに分かれていた安東氏は名実ともに完全にひとつに融合し、秋田郡・檜山郡・比内郡・由利郡に及ぶ強力な戦国大名領国が完成したのである。
陸の領国経営と海の回廊、織豊大名との決定的な歪み
ここで視点を少し広げ、戦国時代における安東氏の立ち位置を、他地域の大名と比較してみよう。
一般的な戦国大名のイメージは、甲斐の武田氏や相模の北条氏、あるいは越後の上杉氏のように、領内の農地を検地し、米の収穫量(貫高や石高)を基盤として家臣団に知行を割り当て、隣国と陸続きの境界を削り合うというものである。
しかし、安東氏の支配構造はそうした「陸の大名」の枠組みには到底収まりきらない。彼らの真の強みは、十三湊時代から引き継がれた「北方交易の独占権」と「渡海船のネットワーク」にあった。
北海道の道南を支配していた蠣崎氏(松前氏)は、形式上は安東氏の被官であり続けた。蠣崎氏は夷島(北海道)で徴収する関銭の大半を安東氏に上納し、軍役の負担義務を負っていた。安東氏はアイヌ社会との取引を通じて得られる昆布、鷹の羽、ラッコの皮、サケ、そして良質な建築木材といった北方特産品の流通ルートを一手で抑えていたのである。
西国に目を向けると、若狭の武田氏や周防の大内氏、あるいは伊予の河野氏のように、水軍や港湾交易を重んじた大名は少なくない。しかし安東氏が際立っていたのは、日本列島の「国家の境界線」の外側に広がる北海道や北東アジアの水域までも自らの経済圏として組み込んでいた点にある。彼らは中央の京都幕府からは「秋田屋形」「檜山屋形」としての格付けを得つつ、北方世界に対しては渡海権を握る「北海の主」として振る舞った。
だが、この「海の回廊を基盤とする領主」のあり方は、豊臣秀吉による天下統一によって決定的な転換を迫られることになる。
天正18年(1590年)、秀吉は小田原征伐を経て「奥州仕置」を実行した。天下人・秀吉が持ち込んだ統一ルールとは、全国の土地を「石高(米の生産量)」という単一の基準で測り直し、大名同士の私闘を一切禁じる「惣無事令」であった。
実季が勝利した先の湊合戦は、秀吉から見れば惣無事令に違反する「私戦」とみなされた。一時は領地没収の危機に瀕した実季だったが、豊臣政権の実力者・石田三成へ精力的なアプローチを行い、なんとか本領安堵(52,404石)を取り付けることに成功する。
しかし、豊臣政権下で安東氏に求められた役割は、交易の自由な展開ではなかった。秀吉が着目したのは、安東領内の米代川・雄物川流域に広がる膨大な秋田杉の天然林である。実季は伏見城や大坂城の建築資材、さらには文禄・慶長の役(朝鮮出兵)における船材として、膨大な量の秋田杉を伐出し、水運を使って給付・送出することを命じられた。
北方海域を縦横無尽に結んでいた安東氏の交易網は、秀吉の巨大な国家動員体制の中に組み込まれ、陸の「石高制大名」へと強制的に再フォーマットされていったのだ。
脇本と檜山、土崎に残る港町の痕跡
安東氏が遺した時代の足跡は、現在の秋田県内の風景の中にもはっきりと刻まれている。
男鹿半島の根元に位置する「脇本城跡」(秋田県男鹿市)を訪れると、そのスケールの大きさに圧倒される。標高100メートルほどの丘陵地に築かれた城郭は、日本海に面した断崖と無数の曲輪、巨大な空堀で構成されている。城跡の高台に立つと、眼下に広大な日本海と男鹿の港を一望できる。ここは単に敵の侵攻を防ぐための山城ではない。海上を往来する船の動きを監視し、港湾の物流を上から押さえつけるために築かれた、極めて視界の開けた海洋要塞だったことが体感できる。
能代市にある「檜山城跡」は、津軽を追われた下国家が再起をかけて築いた内陸の拠点である。米代川の河口から少し遡った丘陵地に位置し、周囲には当時の城下町の面影や安東氏ゆかりの寺院がひっそりと佇んでいる。山間の膨大な森林資源を米代川の水運に乗せて海へと送り出すための、山と港の中継点としての性格が、地形から読み取れる。
そして、秋田市土崎の「湊城跡」は、いまや市街地の中に溶け込み、当時の土塁や堀の大部分は姿を消している。しかし、土崎の街並みを歩くと、規則正しく配置された道路網や、雄物川の旧流路に沿った地形に、戦国時代から続く港湾都市の骨格を感じ取ることができる。土崎は江戸時代以降も北前船の西回り航路の重要寄港地として大いに繁栄したが、その商業都市としての基盤を造り上げたのは、他ならぬ湊安東氏であった。
能代、男鹿、土崎という日本海沿岸の3つの拠点は、かつて安東氏が水運ネットワークを張り巡らせた結節点そのものである。それらを繋いでいたのは陸の街道ではなく、日本海という青い海原と、網の目のように流れる河川であった。
「秋田」を名乗った名門の着地点
関ヶ原の戦いが終わり、近世の足音が聞こえ始めた慶長7年(1602年)、安東氏の運命は再び暗転する。
徳川家康は全国の大名配置換えを断行し、安東実季に対して常陸国宍戸(現在の茨城県笠間市)50,000石への国替(転封)を命じたのだ。鎌倉時代から数百年にわたって北奥羽の海と陸を支配し続けてきた名門は、住み慣れた秋田の地を追われることとなった。代わって秋田に入封してきたのは、常陸から移されてきた佐竹義宣である。
代々の本拠地を失った実季だったが、彼は自らの血統と正統性に対する誇りを捨てることはなかった。実季は古代から出羽国の統治者に与えられていた伝統ある官職「秋田城介」への任官を強く望み、それまでの安東という苗字を改め、自ら秋田氏を称するようになったのである。慶長16年(1611年)、実季の長年の運動が実を結び、正式に従五位下秋田城介に補任された。
その後、秋田氏は正保2年(1645年)、実季の子・俊季の代に陸奥国三春(現在の福島県三春町)50,000石へと移封された。彼らは三春藩主として江戸時代を通じて家名を存続させ、明治維新まで存続することになる。
十三湊で「日の本将軍」と称され、北方貿易で栄えた安東氏は、激動の室町・戦国時代を経て「檜山」と「湊」の二家を統合し、秋田の地に自らの名を残した。そして秀吉や家康による近世統一権力の中で「海の領主」から「陸の大名」へと姿を変え、最終的には福島県の山間に位置する三春の地で幕末を迎えたのである。
今日、私たちが何気なく口にする「秋田」という地名は、古代の出羽柵に由来するものだ。だが、それを一族の苗字として背負い、北方の海の記憶とともに後世へと語り継ぐかたちで遺したのは、日本海を往来した安東氏の歴史的足跡にほかならない。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 安東氏 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 春陽の士1 藩主秋田氏|Web資料館|三春町歴史民俗資料館 | 歴史民俗資料館 | 三春町ホームページtown.miharu.fukushima.jp
- 秋田県の主要大名gioan-awk.com
- 秋田の中世史~秋田県域に関東御家人が入部して戦国時代には中小領主が乱立する (2ページ目)articles.mapple.net
- youtube.com
- 室町時代の由利郡city.yurihonjo.lg.jp
- 15世紀中ごろの南部氏と秋田安藤氏、小野寺氏の争いについて、大曲で郡代久慈政継が討死、仙北金沢で金沢... | レファレンス協同データベースcrd.ndl.go.jp
- 県北の歴史/藩政時代の県北thr.mlit.go.jp