2026/7/2
神戸の闇市、モトコー以外に何があった?戦後復興を支えた市場の変遷

「戦後の闇市をルーツとする神戸の名物スポット」は、モトコーの他にどこがあったのか?
キュリオす
第二次世界大戦後、神戸の闇市はモトコーだけでなく、三宮自由市場、三宮国際マーケット、ジャンジャン市場、三宮センイ商店街など、多様な商業集積地を生み出した。これらの市場は都市復興の原動力となったが、再開発によりその多くが姿を変えている。
焼け跡に立つ市場の胎動
1945年8月、第二次世界大戦の終結は、神戸の街に広範な破壊を残した。市街地の約7割が罹災し、多くの木造家屋が焼失した一方で、鉄筋コンクリート造の鉄道高架橋などはその姿を留めていたという。終戦直後、物資の供給が途絶え、統制経済下で食料や生活必需品が不足する中、人々は生きるために自発的な商取引を始めた。これが闇市である。神戸における闇市の発生は、1945年9月17日付の神戸新聞に、元町から三ノ宮駅間のガード下で中国人が揚げ饅頭を売っていたという記事が掲載されたのが最初だとされている。この小さな露店が、後に「日本一の大闇市場」と称される巨大な商業集積の始まりとなったのだ。
この闇市は、主に省線(現在のJR)三ノ宮駅から元町駅間の高架下、そしてその南側の歩道や緑地帯に広がった。当初は不法占拠の状態であったが、わずか2ヶ月後には高架下だけでは収まりきらず、路上にまで露店が溢れかえったという。食料品、衣料品、日用品から、占領軍放出物資まで、ありとあらゆるものが「闇値」で売買され、遠方からも多くの人々が「何でも揃う」神戸の闇市を目指して訪れたとされる。この混沌とした空間には、日本人だけでなく、中国人、台湾人、朝鮮人など多様な民族が商売に参入し、それぞれのコミュニティを形成しながら、都市の復興の原動力となっていった。
三宮自由市場から広がる商圏
神戸の闇市の中でも特に規模が大きかったのは、三宮駅周辺に形成された「三宮自由市場」である。この市場は、三ノ宮駅から元町駅までの約1.5kmにわたる高架下と南側舗道、緑地帯に広がり、最盛期には1,500もの店舗が軒を連ねたという。しかし、その「自由」は長くは続かなかった。1946年初頭には、GHQと警察による闇市への取り締まりが強化されていく。風紀や衛生上の問題、交通妨害、土地の不法占拠などが理由であった。
この取り締まりに対し、闇市の商人たちは対抗策を講じた。彼らは自治組織を結成し、市場の大規模な清掃を行うなど、衛生美化に努めたのである。行政側も闇市を一律に排除するのではなく、窮乏期の特例措置として、一部の店舗に道路占有許可や露店営業許可を出すことで、闇市が合法的な商店街へと変容していく道筋が作られた。1946年8月以降、路上店舗群は撤去され、市内各所へと分散移転することになる。この時、三ノ宮駅の東南、現在のサンパルや中央区役所があったあたりに新設されたのが「三宮国際マーケット」である。また、現在の三宮センター街東側には、港湾労働者の胃袋を支える飲食店街「ジャンジャン市場」が登場した。これらの市場は、三宮自由市場から分化し、それぞれの性格を持つ商業集積地として発展していったのである。一方、元町高架下の商人たちは「元町高架下商業協同組合」を結成し、1947年には「元町高架通商店街」として正式に成立したと推察されている。
港湾都市の特異な条件
神戸における闇市の隆盛とその後の変容は、他の都市の事例と比較することで、その特異性がより明確になる。例えば東京の上野アメ横や新宿ゴールデン街も戦後の闇市をルーツとするが、神戸の闇市には国際港湾都市という地理的条件が色濃く反映されていた。神戸港は戦後も人や物の流れが集中する要衝であり、外国船の船員が訪れることで、占領軍の放出物資だけでなく、世界各地の珍しい品々が闇市に流れ込む土壌があった。
特に「三宮センイ商店街」は、アメリカ軍のPX(基地内売店)から流出した物資や軍隊の横流れ品を扱う「高級闇市」として知られ、「神戸のアメ横」と称されたという。これは、輸入品や外国製品を求める富裕層や文化人が集まる一方で、ジャンジャン市場のような港湾労働者向けの安価な飲食店街も共存していたという、多層的な市場構造を神戸が持っていたことを示している。また、新開地は戦前「西の浅草」と呼ばれた一大歓楽街であったが、戦後は市役所などの行政機能が三宮へ移転したことや、娯楽産業の分散化により、三宮・元町地域に商業の中心がシフトする中で徐々に衰退していった。闇市が新たな商業空間へと転換していく過程においても、神戸の都市構造の変化が色濃く影響していたのである。
再開発の波に消える記憶
戦後の闇市をルーツとする神戸のスポットは、時代の流れとともにその姿を大きく変えてきた。三宮国際マーケットやジャンジャン市場があった場所は、1966年から始まった三宮地区市街地改造事業によって、さんプラザ、センタープラザ、センタープラザ西館といった近代的な商業ビルへと生まれ変わった。これらのビル群は、かつての混沌とした闇市の面影をほとんど残していない。
一方、元町高架下商店街、通称「モトコー」は、長らくそのレトロな雰囲気を保ち、闇市の名残を色濃く残す場所として知られてきた。約1.2kmにわたる細長い高架下の通路には、古着屋、雑貨店、骨董品店、中古レコード店、町中華などがひしめき合い、昭和の香りを色濃く漂わせていた。しかし、JR西日本による高架橋の耐震補強工事に伴い、2015年頃から立ち退きの問題が浮上し、多くの店舗が閉店を余儀なくされた。2026年3月には、モトコーの最後のエリアである旧1番街、2番街のシャッターが閉められ、戦後の闇市をルーツとするこの名物スポットは、ついにその歴史に幕を下ろした。神戸駅前の「地獄谷」と称されたガード下も、再開発の波に晒され、その姿を少しずつ変えている。
都市の変遷が語るもの
戦後の神戸に点在した闇市は、都市の機能が麻痺した状況下で、人々が自律的に生み出した生活の場であった。モトコー、三宮自由市場、三宮国際マーケット、ジャンジャン市場、三宮センイ商店街、そして神戸駅前のガード下など、その場所は多岐にわたる。これらの市場は、単なる非合法な取引の場ではなく、多様な出自を持つ人々が交錯し、新たな社会秩序を模索する場でもあった。行政との攻防、民族間の協力と対立、そして合法的な商業空間への転換という過程は、都市が災害から立ち上がり、再編されていくダイナミズムを如実に示している。
現代の神戸の街並みからは、かつての闇市の痕跡を見つけることは難しいかもしれない。しかし、高架下のわずかな空間や、既存の商店街の成り立ちの中に、あの混沌とした時代を生き抜いた人々の知恵とエネルギーが、静かに息づいている。それは、都市の計画的な発展の陰に隠されがちな、市井の人々の営みが作り上げてきたもう一つの都市の歴史であり、その記憶は、形を変えながらも、神戸という都市の深部に残り続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 【後編】耐震工事で出現した戦意高揚スローガンと闇市時代の広告@元町高架通商店街 | 阪神沿線活性化WEB エンカチhanshin-enkachi.com
- nii.ac.jpkansai-u.repo.nii.ac.jp
- 神戸 闇市からの復興(POD版) - 慶應義塾大学出版会keio-up.co.jp
- 創発的アーバニズム 高架下を探索する〜神戸編〜|鏡晋吾_デルクイ総研note.com
- 『神戸 闇市からの復興:占領下にせめぎあう都市空間』(慶應義塾大学出版会) - 著者:村上 しほり - 松原 隆一郎による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWSallreviews.jp
- 神戸 闇市からの復興 | 神大人の本kobe-u.ac.jp
- 神戸 闇市からの復興 - 慶應義塾大学出版会keio-up.co.jp
- 特設サイト『神戸 闇市からの復興――占領下にせめぎあう都市空間』(村上 しほり 著)| 慶應義塾大学出版会keio-up.co.jp